≪ 宮本武蔵の波動に触れる ≫
宮本武蔵に関わる人々
宮本武蔵は、私にとっては思い入れが強い武人の一人です。
というのは―――大学時代のゼミでは、武蔵の『五輪書』を紐解いていました。
武蔵は、晩年は熊本城主であり 細川藩藩主の細川忠利の客分として、7人扶持18石に合力米300石が支給されており、熊本城に隣接する千葉城に屋敷を与えられていた といわれています。
細川忠利の死後も 2代細川藩主:細川光尚にも 同様の処遇を受けていて、
また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに、『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えています。
『五輪書』によると―――
少年のころから兵法の道を求め、十三歳になって初めて真剣の勝負をしたと述べています。
相手は新当流の有馬喜兵衛(ありまきへい)という兵法者で、これにうち勝ってから、次に十六歳で、但馬国(たじまのくに)の 秋山という強力の(ごうりき)の兵法者にうち勝ち、
二十一歳で都にのぼり、天下の兵法者(吉岡一門をさす)と数度の勝負をしたが、いずれも勝ったと語っています。
その後、多くの国をめぐって、いろいろな流派の兵法者に会い、六十数回の勝負をしたが、一度も敗れたことがないといいます。
その期間は、十三歳のときから二十八、九歳までのことであります。
『五輪書』では、このように語っています。
諸国を流れて 最終的に細川藩の客人となった・・・・と、伝えられています。
その影響もあってか、この小説で多くの著名人が感化されたといいますが、私も学生時代に読んでみましたが、今一つピンとくるものではありませんでした。
武蔵と天下の将軍家ご指南役である柳生家との対立が、様々な角度から小説化・映画化されています。
ただ・・・・武蔵と同じ時代に生きて その覇を争ったとされることについて、司馬遼太郎氏は面白い逸話を書いていました。
さだかには憶えていませんが・・・・柳生新陰流の免許皆伝であった100歳以上生きた人物が実在したようです。
この人物は 徳川家康の文字は「拙い」と、平然と言っていたようで、死期を悟ると怖いものなしで語ったようです。
自分の師匠よりも、剣術家(兵法家)として その名を全国に知られていた「宮本武蔵」の方が、 一段上であった、と見抜いていたようなのです。
柳生但馬守宗矩とは―――
石舟斎宗厳の代で所領が没収されて、浪人となります。
これを見た家康は 仕官することを薦めますが、高齢であることを理由に断り、その代わりとして、 まだ24歳の五男の「柳生宗矩」を推挙します。
その道中、三成達西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行います。
無事工作を終えて家康の元に戻り、続く関ヶ原の本戦では、本陣で参加します。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2000石を取り戻すことになります。
翌慶長6年(1601年)には、後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年に1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となります。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人を、瞬く間に倒したといいます。
さらに晩年に至って寛永17年(1640年)500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2000石の加増もあり、所領は1万2500石に達します。
一介の剣士の身から 大名にまで立身したのは、剣豪とされる人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人です。
将軍家指南役ですから、他流との対戦はご法度でした。
武蔵は それでも自分こそが天下第一の兵法者と自負していたので、柳生との確執がドラマ化されているのです。
「観世大夫の能を舞うときに、スキがあれば切り込んでみよ」
といわれました。
さすが当代随一の名人と言われた観世大夫ですので、「そのスキは見いだせませんでした。」と、柳生は 家光に伝えます。
「が・・・・しかし、大臣柱の片隅に行かれた時に、ホッと息を抜いて、スキができました・・・・」
柳生はこのように答えたと言われています。
その後―――
能を舞い終えた観世大夫は お付きの人に、
「将軍様のおそばにいたのは・・・どなただ?」
と訪ねて、
と聞くと、
「・・・・どおりで・・・・。
私が 能を舞っているあいだすごい気があって、スキを伺うような感じがしていた。
それで・・・
大臣柱の片隅に来たとき、ホッと気が抜けた刹那、殺気が飛んできた・・・・」
このように答えた言われています。
このことが人に伝わって、「ともに名人!」と評判となった―――といいます。
この逸話が広まって、劇画の世界では私の好きだった「斬殺者」という主人公武蔵の中では―――
ある公家が、武蔵を招いて 将軍家と同じように観世大夫に能を舞わせて、傍らにいた武蔵に、スキがあれば「斬り込んでみよ」と問いました。
すると、武蔵は「スキだらけ。いや・・・スキそのもの・・・」と答えます。
それを聞いた公家は 「・・・わかった! 貴公は 己をこと挙げするために・・・そのような虚言を弄するのだ・・・」と武蔵に反発します。
すると武蔵――――裂帛の「キエエエエエ――イ!」と気合をかけると・・・・
観世大夫は後ずさりして、腰から落ちて、かぶっていた能面も転げ落ちます。
名人の本性が 曝け出された瞬間です。
「所詮、能役者は 役を演じるだけのものであって、生死を賭けた戦いの場など無縁のもの。 柳生殿もそのことは見切っていたものと思われます・・・・」
といって、その場を去っていきます。
劇画ですが、この場面の印象が強く残っているのです。
そこに至るには 禅の師匠となる沢庵和尚の存在がありました。
武蔵といえば―――
沢庵和尚の名前が浮かびます。
ここで容量が過ぎましたので、次回の「つづき」とします。
2016年3月1日記