生命体エナジー浄化の会ブログ

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宮本武蔵の波動に触れる その1

≪ 宮本武蔵の波動に触れる ≫
宮本武蔵に関わる人々
 
 
 昨年(2015年)の晩夏、羽田空港で時間があってぶらついていると、「宮本武蔵」の作品展の展示コーナーがありました。
 
宮本武蔵は、私にとっては思い入れが強い武人の一人です。
というのは―――大学時代のゼミでは、武蔵の『五輪書』を紐解いていました。
 
武蔵は、晩年は熊本城主であり 細川藩藩主の細川忠利の客分として、7人扶持18石に合力米300石が支給されており、熊本城に隣接する千葉城に屋敷を与えられていた といわれています。
 
細川忠利の死後も 2代細川藩主:細川光尚にも 同様の処遇を受けていて、
寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊厳洞で、『五輪書』の執筆を始めたといわれています。

また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに、『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えています。

五輪書』によると―――
 
少年のころから兵法の道を求め、十三歳になって初めて真剣の勝負をしたと述べています。
 
相手は新当流の有馬喜兵衛(ありまきへい)という兵法者で、これにうち勝ってから、次に十六歳で、但馬国(たじまのくに)の 秋山という強力の(ごうりき)の兵法者にうち勝ち、
 
二十一歳で都にのぼり、天下の兵法者(吉岡一門をさす)と数度の勝負をしたが、いずれも勝ったと語っています。
 
その後、多くの国をめぐって、いろいろな流派の兵法者に会い、六十数回の勝負をしたが、一度も敗れたことがないといいます。
 
その期間は、十三歳のときから二十八、九歳までのことであります。 

五輪書』では、このように語っています。
 
宮本武蔵は、その読み物の中では 将軍家ご指南役・柳生但馬守と競っていて、その座を自分が奪い取ろうとしていたが、そのような機会が与えられることがないままに、
 
諸国を流れて 最終的に細川藩の客人となった・・・・と、伝えられています。
 
大衆文学代表作となった吉川英治の「宮本武蔵」は、映画化もされて、この作品は多くの人々に影響を与えたといわれています。
 
剣禅一如を目指す 求道者としての武蔵の姿を追ったもので、空手家の大山倍達氏なども、山籠りの際には座右の書として、「宮本武蔵全巻」を持参したといいます。
 
この吉川英治を 三島由紀夫は「二流文学」と蔑んでしました。
 
その影響もあってか、この小説で多くの著名人が感化されたといいますが、私も学生時代に読んでみましたが、今一つピンとくるものではありませんでした。
 
武蔵と天下の将軍家ご指南役である柳生家との対立が、様々な角度から小説化・映画化されています。
 
武蔵の『五輪書』と 柳生但馬守宗矩の著した『兵法家伝書』は、剣に生きた武士が読むべき2大書籍とされています。
 
実際には 柳生但馬守宗矩は将軍家ご指南役ですので、他流とも対戦は禁じられていますので、直接の両者の接触はなかったようです。
 
ただ・・・・武蔵と同じ時代に生きて その覇を争ったとされることについて、司馬遼太郎氏は面白い逸話を書いていました。
 
さだかには憶えていませんが・・・・柳生新陰流の免許皆伝であった100歳以上生きた人物が実在したようです。
 
柳生但馬守宗矩は師であるからよく知っていますし、また、宮本武蔵にも会ったことのある人物です。
 
この人物は 徳川家康の文字は「拙い」と、平然と言っていたようで、死期を悟ると怖いものなしで語ったようです。
 
その人物は、武蔵をして「柳生但馬守宗矩様よりも 2目(もく)上であった」と、囲碁を例に引いて述べていた―――ようなのです。
 
自分の師匠よりも、剣術家(兵法家)として その名を全国に知られていた「宮本武蔵」の方が、 一段上であった、と見抜いていたようなのです。
 
柳生但馬守宗矩とは―――
 
大和国柳生庄(現在の奈良市)の領主である柳生石舟斎宗厳を父とします。
父:石舟斎宗厳は、上泉信綱から新陰流の印可を伝えられた兵法家でした。
 
石舟斎宗厳の代で所領が没収されて、浪人となります。
 
その後、豊臣秀吉小田原征伐で陣借りをしていた、との話が伝わっています。
そして、黒田長政の仲介で、徳川家康に招かれて 秘儀『無刀取り』を披露します。
 
これを見た家康は 仕官することを薦めますが、高齢であることを理由に断り、その代わりとして、 まだ24歳の五男の「柳生宗矩」を推挙します。
 
豊臣秀吉の死後、家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年))に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍します(会津征伐)。
 
その道中、三成達西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行います。
 
無事工作を終えて家康の元に戻り、続く関ヶ原の本戦では、本陣で参加します。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2000石を取り戻すことになります。
 
翌慶長6年(1601年)には、後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年に1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となります。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人を、瞬く間に倒したといいます。

その後、三代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授します。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)に従五位下に叙位、但馬守に任官します。

さらに寛永9年には、3000石を加増された後、同年1227日、初代の幕府惣目付大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とします。

その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)に4000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩します。

さらに晩年に至って寛永17年(1640年)500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2000石の加増もあり、所領は12500石に達します。

一介の剣士の身から 大名にまで立身したのは、剣豪とされる人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人です。
 
 
柳生但馬守宗矩を知る印象的な逸話があります。
 
将軍家指南役ですから、他流との対戦はご法度でした。
武蔵は それでも自分こそが天下第一の兵法者と自負していたので、柳生との確執がドラマ化されているのです。
 
柳生但馬守宗矩が、将軍徳川家光と 当時の能楽の第一人者と言われた観世大夫の御前能が 開催された時のことです。
 
家光が傍らにいる柳生但馬守宗矩に、
観世大夫の能を舞うときに、スキがあれば切り込んでみよ」
といわれました。
 
さすが当代随一の名人と言われた観世大夫ですので、「そのスキは見いだせませんでした。」と、柳生は 家光に伝えます。
 
「が・・・・しかし、大臣柱の片隅に行かれた時に、ホッと息を抜いて、スキができました・・・・」
柳生はこのように答えたと言われています。
 
その後―――
 
能を舞い終えた観世大夫は お付きの人に、
将軍様のおそばにいたのは・・・どなただ?」
と訪ねて、
「将軍家ご指南役の柳生但馬守宗矩様でございます・・・」
と聞くと、
 
「・・・・どおりで・・・・。
私が 能を舞っているあいだすごい気があって、スキを伺うような感じがしていた。
それで・・・
大臣柱の片隅に来たとき、ホッと気が抜けた刹那、殺気が飛んできた・・・・」
 
このように答えた言われています。
このことが人に伝わって、「ともに名人!」と評判となった―――といいます。
 
この逸話が広まって、劇画の世界では私の好きだった「斬殺者」という主人公武蔵の中では―――
 
ある公家が、武蔵を招いて 将軍家と同じように観世大夫に能を舞わせて、傍らにいた武蔵に、スキがあれば「斬り込んでみよ」と問いました。
 
すると、武蔵は「スキだらけ。いや・・・スキそのもの・・・」と答えます。
 
それを聞いた公家は 「・・・わかった! 貴公は 己をこと挙げするために・・・そのような虚言を弄するのだ・・・」と武蔵に反発します。
 
すると武蔵――――裂帛の「キエエエエエ――イ!」と気合をかけると・・・・
 
観世大夫は後ずさりして、腰から落ちて、かぶっていた能面も転げ落ちます。
名人の本性が 曝け出された瞬間です。
 
「所詮、能役者は 役を演じるだけのものであって、生死を賭けた戦いの場など無縁のもの。  柳生殿もそのことは見切っていたものと思われます・・・・」
といって、その場を去っていきます。
 
劇画ですが、この場面の印象が強く残っているのです。
 
宮本武蔵の『五輪書』と共に、柳生但馬守宗矩が顕した『兵法家伝書』が、剣に行きる武道家の2大武道書となっています。
 
『兵法家伝書』の中で 柳生但馬守宗矩は、「殺人剣」に対して 「活人剣」という概念を打ち出しています。
 
そこに至るには 禅の師匠となる沢庵和尚の存在がありました。
 
 
武蔵といえば―――
 
沢庵和尚の名前が浮かびます。

ここで容量が過ぎましたので、次回の「つづき」とします。

                 
                       2016年3月1日記