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宮本武蔵の波動に触れる その2

≪ 宮本武蔵の波動に触れる その2 ≫
宮本武蔵に関わる人々 2
 
 武蔵といえば―――
 
沢庵和尚の名前が浮かびます。
 
吉川英治が 小説「宮本武蔵」の中で、武蔵を禅の途に導き、稀代の乱暴者の武蔵(たけぞう)を感化した 名和尚として登場しています。
 
実際には、沢庵和尚は武蔵とは一切関りがなく、同時代に生きてはいましたが、接点はないようです。
 
沢庵和尚は、後人が武蔵のライバルとして見ていた 柳生但馬守宗矩の、禅の師匠となっています。
 
これについては、ある逸話があります。
  
3代将軍家光のもとに、「虎」が献上されたことがあります。
が―――唸り声を上げるので、誰も恐れて、虎に近づくことすらできませんでした。
 
そこで、柳生但馬守宗矩は促されて、虎の檻の中に入り、裂帛の気合で、虎を萎縮させてしまい、虎がすくんで動けないのを確認してから、檻から出てきました。
 
すると沢庵は、これとは逆に ニコニコしながら檻の中に入ると、虎の頭を撫でて 出てきた―――といいます。 
 
五輪書でいう「我なし 敵なし」の境地なのかもしれません。
 
柳生但馬守宗矩が著した『兵法家伝書』で説く、「剣禅一如」とは この沢庵の影響によるものとの指摘もあります。
 
沢庵和尚―――沢庵宗彭(たくあん そうほう)について 興味深いので触れておきます。
 
臨済宗の僧で、歴史に残るほどの高尚な人物です。
 
沢庵は、10歳で出家し、その後大徳寺に入ります。
石田三成と親交があり、三成の居城佐和山城に亡母の供養のための瑞巌寺の建立に関わり、しばらく逗留したといいます。
 
そのため 関が原で三成が敗れ、処刑された後、遺体を引き取り、手厚く葬っています。
 
32歳で大悟して、「沢庵」の法号を得ています。
 
さらに37歳で大徳寺第154世住持に出世します。
が、しかし―――名利を求めない沢庵は、3日で大徳寺を去って、隠棲の生活に入ります。
 
37歳にして隠棲とは、並外れています。
が、その後―――
 
江戸幕府が開かれ,寺院法度が定められ、寺社への締め付けが厳しくなり、大徳寺のような有力な寺院の、 朝廷との関係が弱められるように、規制がかけられました。
 
天皇詔で決まっていた大徳寺住持職を、江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を、幕府が認めた者にのみ限る―――ことなどが 定められたのです。
 
当時の天皇が、幕府に諮ることなく出した勅許状を無効として、紫衣を取り上げました(紫衣事件)。
 
これに沢庵も反発して、抗弁書を幕府に提出して、その結果 沢庵は羽黒国上山に流罪の処分を受けます。沢庵57歳のときです。
 
流罪先の上山藩の藩主:土岐頼行は、沢庵の権力に屈しない生き方と、「心さえ潔白であれば、身体の苦しみなどなんともない」とする姿に心打たれます。
 
沢庵に草庵を寄進して、手厚く遇しました。
流罪中も藩主土岐頼行は、藩政への助言を沢庵に仰ぐなど、実の祖父のごとく思い、こよなく愛したといいます。
 
沢庵放免後も 二人の交流は続いたといいます。
 
沢庵60歳のときに、2代将軍徳川秀忠の死により大赦令が出されます。
柳生但馬守宗矩や天海などの尽力により、先の紫衣事件連座した者たちは許されました。
 
江戸幕府に深く関わっていた天海は、「紫衣事件」に関わる「全ての責任は自分一人にある。だから他の者は一切関係ない」とした沢庵を、高く評価していたといいます。
 
その後、沢庵は大徳寺に戻りますが、将軍家光の上洛に際し、天海や柳生但馬守宗矩などの強い勧めで、家光に拝謁しました。
 
このことがあって、徳川家光もまた 沢庵に帰依するようになったといいます。
 
その後 沢庵は郷里に戻っていましたが、幕命により再び江戸に戻り、家光に乞われて 近侍することとなります。
 
江戸においては 柳生宗矩下屋敷に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説いたといいます。
 
度々上方へ戻りますが、寛永15年(1638年)には後水尾上皇に「原人論」の講義などを行った際、上皇より国師号授与の内示がありましたが、沢庵はこれを断っています。
 
67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなったのです。
 
寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳寺妙心寺の 両寺の寺法を旧に復すことが、家光により正式に申し渡されます。
これにより大徳寺派妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。
沢庵は江戸で没しています。享年74。
 
弟子に辞世の句を求められて、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したといいます。
 
「墓碑は残してはならない」との遺訓を残していますが、郷里の兵庫県豊岡市と品川区の東海寺に墓があります。
 
沢庵は―――
 
当時の代表的な禅僧として、今でもその名を知られています。
 
受け答えが当意即妙で、禅の教えを、身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けています。
 
しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで 自らは一禅僧に過ぎないと述べています。国師号辞退はその表れの一端に過ぎません。
 
隠棲時、豊臣家や様々な大名家(細川忠興浅野幸長黒田長政などから招かれましたが、これらの招きを全て拒否したといいます(東海和尚紀年録)。
その他、高松宮好仁親王が、弟子入りのために 自ら沢庵の元を訪れた際も、決して会おうとしなかったといいます。

家光から屋敷や寺を与えると言われても頑なに断り続け、最終的に柳生宗矩に説得され、ようやく東海寺住持となることを引き受けた と言われています。

名利を求めぬ反面、宗門の為に権門に交わることも厭わなかったといいます。大徳寺妙心寺の寺法旧復のために家光に近侍しましたし、また乞われれば政治的助言も与えています。

これを以って、沢庵は 大名好きだという批判を受けることもあったようです。
ですが―――寛永18年(1641年)に寺法旧復が成立して、沢庵が第154世住持であった大徳寺も元に戻ったことから、批判したことを恥じる者が多かったといいます。

細川忠興に茶に招かれた際、かけられていた大燈国師の墨蹟を 一目で贋作だと喝破したといいます。これにより、贋作偽造を行った大徳寺の松岳紹長が破門されています(東海和尚紀年録)。

沢庵は、自身の禅を 自分一代で断絶させています。

嗣法を 家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては、自身の禅を継いだと称する者は「法賊」であるとまで言っていたようです。

また、自らの事蹟を残さないようにも命じていましたが、沢庵は後世に残る『不動智神妙録』を残しています。

不動智神妙録とは―――

禅を以て武道の極意を説いた最初の書物であり、「武術」から「武道」への流れを開く端緒のひとつになったといわれています。

柳生但馬守宗矩に、「剣禅一如」を説いたのも沢庵です。
 
心が一つの物事に捉われてしまうと(意識が過ぎると)、身体が自由に動くことができなくなってしまいます。  わずかでも心が迷えば、心身が止まってしまいます。
 
このような状態を 禅の立場からは良しとはせずに、達人・名人の域に達した武人の、精神状態、心の在り方を、無意識の行動でありながら、心が常に流動して、
 
「迷わず、捉われず、止まらず」ということを説いています。
 
禅で解説した心法を説いた兵法書であり、「意識して動いているうちは、まだ未熟である」としたものです。
 
私も学生時代に読んでみて、「そういう・・・・ものなんだろうなア・・・」といった印象がありました。
 
相手が太刀を振るう時に、かかって来ると思った瞬間から、自分の心は相手の動きに奪われている、と説いています。

無心で懐に飛び込めば、相手の刀も奪って、逆に斬ることも可能であると、「無刀」の心構えについても説いています。

自由に動くためには、 「誰がどう打って来る」とか「敵の心を読めば(こちらの心を見透かされる)」など、 意識的に動いてはいけないことを諭します。

相手の刀の動きも、タイミングも、自分の刀の動きも、心を奪われる対象であり、不自由になるだけであるとして、禅の立場から思考対思考の対決を否定した記述がなされています。

「不動」としていますが、全く動かないという意ではなく、心は自由に動かし、一つの物、一つの事に少しも心を捉われていないのが、不動智であると説いています。

例として、10人が1人ずつ斬りかかって来た時、一太刀を受け流したとして、そのことに心が留まっていれば、即次に対応はできず、10人に対して応じるには、10度心を動かす他ないとします。

千手観音にしても千本ある手の内、弓を持った一つの手に心が捉われれば、残った999の手は全て役に立たないと説明し、一つに心が捉われていないからこそ、千本全ての手が役に立つとします。

木の葉の例をとって、一枚の落ち葉(動くもの)を注視するのではなく、全体を無心で観ることによって、多くの葉を観ることが可能となるとしています。

仏教における「理」は、つきつめれば無心となり、捉われない(境地)の意で、
心が物事に捉われていなければ、素早く動けるが、素早いことが重要なのではないと説いています。

素早く動かなければ、という思いも、また心が捉われている証しであり、心が止まっている状態であるとしています。

このように 実に精妙で、 奥深い境地のことを説いているのが、『不動智神妙録』です。
 
武蔵もまた、剣の奥義を極めるのに「禅」に帰依しています。
柳生宗矩も武蔵も、最終的に「剣禅一如」の境地に達しています。
 
禅とはなにか―――もう一つ、禅に関わる道が説かれているものがあります。
西洋人が顕した「弓道」に関わる ひじょうに印象深い書物です。
 
                                  つづく
 
                           2016年3月8日記