≪ 伊藤若冲(じゃくちゅう)の絵画の謎に迫る ー1のつつき≫
容量の関係で「つづき」です。
最終的に3年後の安永3年(1774年)8月29日、年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認された。
こうした事情のためか、確実にこの時期に描かれたことが解る作品は 殆ど無い。
晩年
若冲の墓は2つ、上京と伏見にある。一箇所は相国寺の生前墓の寿蔵。もう一箇所は伏見深草の石峯寺である。
若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像(通称:若冲五百羅漢)や天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に葬られた。
のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いている。
伊藤家は幕末の頃に没落し、慶応3年(1867年)、家屋敷を売り渡して大阪へ去った。
作風
一方で木村兼霞堂は、若冲は、鶴沢探山の門人で生写(しょううつし)を得意とした青木言明の門弟だったと記す(『諸国庶物志』)が、それを裏付ける証拠は見つかっていない。
現存作品の作風から狩野派の影響を探すのは困難であるが、一部の図様について、狩野派の絵画や絵本との類似点が指摘されている。
前記の墓碑銘によると、若冲は狩野派の画法に通じた後、その画法を捨て、宋元画(特に濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだとしている。
さらに、模写に飽いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したと伝える。
実物写生への移行は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の高まりの影響も受けている と言われる。
また、大典が読書を通じて宋代の画家の写生の実践を知り、それを若冲に伝えたとも言われる。ほかにも、美術史家の研究により、明代や清代の民間画工の影響、特に南蘋派の画僧・鶴亭との類似が指摘されている。
山水画・人物画の作品は少ないが、濃彩の花鳥画、特に鶏の絵を得意とした。美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、写生画とは言い難い、若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されている。
代表作の「動植綵絵」30幅は、多種多様の動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品である。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂う。
また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。
再評価
生前の若冲は、『平安人物志』の上位に掲載されるほどの人気と知名度を持っていたが、明治以降一般には忘れられがちな時期もあった。
しかし、大正15年(昭和元年、1926年)、秋山光夫によって本格的な研究が着手され、昭和45年(1970年)に辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以来注目を浴びるようになった。
1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価され、特に、アメリカ人収集家ジョー・プライスのコレクションにより飛躍的にその知名度と人気を高めている。
以上が、ウキペディアからの引用要約です。
さて―――
ある条件のもとで 伊藤若冲の作品を見ると、その様相はガラリと変化してしまうのです。
「生きている画」に 変貌するのです。
驚くべき変貌をするのです。
以下、つづく。
2016年5月12日記