生命体エナジー浄化の会ブログ

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徳川家康は真田幸村に殺されていた 2つづき



《 徳川家康真田幸村に殺されていた 2つづき 》


 では、誰が家康の「影武者」となったのか?


それは―――榊原康政の家臣で、家康の影武者の一人として仕えていた者であるようです。


榊原康政は武闘派で、徳川四天王の一人です。


「私の家臣が家康の影武者となった」と、「霊」は反応します。


影武者の年齢は、65歳とまでしか解りません。


その当時では高齢なので、戦場ではただ影武者としての役目しか負っていなかったようです。


大坂夏の陣(1615年)の翌年1月に倒れて、4月に死去しています。


死因は、長く「天ぷら」による食中毒説が流れていましたが、近年「胃がん」の症状に似ていることから、「ガン死」とされています。


2代将軍の徳川秀忠江戸城にいるときに、家康は駿府にいて「大御所政治」と言われていましたが、影武者にとっての直接の殿様は、榊原康政です。


どうやら榊原康政は、大阪城落城のあとも、翌年影武者が亡くなるまで駿府の城にいたように反応します。


諸大名には 江戸にいる徳川秀忠が拝謁して、駿府の家康の基には参じさせなかったようです。


 こうして、影武者として役目を終えて、旅立っていったようなのです。


 さて―――真田幸村ですが、


大阪城落城の時、淀君豊臣秀頼の自害に伴って、幸村の嫡男大助も運命を共にしました。


豊臣秀頼の子:国松は潜伏しているところを捕らえられて、処刑されました。


ただ一人、娘の天秀尼だけは 仏門に入ることを条件に、助命されました。


これで豊臣家は滅亡したのです。


後日談として―――


真田幸村軍は伊達政宗率いる伊達軍と激突しました。


なんとか伊達軍を退けましたが、後藤又兵衛は討ち取られました。

討ち取ったのは、正宗の家臣「片倉重長」です。


この攻防の時、幸村は片倉重長に一通の書状を託しました。

徳川家康本陣に向けて、最後の一戦を挑む前日です。


それは―――自分の娘の「阿梅(おうめ)」を保護してほしいと頼んでいました。


なんと敵方の伊達政宗の家臣に、自分の娘を託したのです。


武士(もののふ)として光栄に感じいった片倉重長は、大阪城から出てきた真田幸村の三女阿梅を、陣中に匿います。


さらに男子3人も匿いました。


幸村の子供を匿ったとなれば、徳川に不審に思われて、主君の伊達政宗にも影響すると考えましたが、主君の正宗とも相談して、領内に連れ帰り、養育します。


次男の守信は、後に仙台藩士となりました。


三男幸信は、三好姓を名乗り、出羽亀田藩に仕えました。


四男之親は、讃岐の石田家の養子になったと伝えられています。


その後、徳川家から真田の子供を匿っているのではないかと、嫌疑をかけられますが―――


自分の養子にして、片倉姓を名乗らせて、「すでに死んでいる」と報告して、幸村との約束を守ったと伝えられています。


ついでながら、長男の真田信之(幸村の兄)は 大坂の陣の後、信濃に移封されて、真田家は、明治の版籍奉還まで大名として存続していました。


こうして真田幸村の武名とともに、真田の血は 後世まで受け継がれていったのです。


                     了


                  2016年11月8日記