≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 ≫
概 略
ですが、彼 小松帯刀は、歴史の表舞台に登場することは、ほとんどありませんでした。
ですが―――
西郷や大久保よりも年は若いですが、彼らの上司(家老)となります。
小松帯刀なくしては、西郷や大久保が縦横に活躍できる場はなかったといえるのです。
そのリーダーは坂元龍馬でした。
ここに全国から幕末の志士が多数集まってきていましたので、幕府は勝海舟を罷免して、海軍操練所を取り潰しました。
そのときの塾生30名を、竜馬とともに引き取ったのが小松帯刀です。
彼がいなければ、明治維新も新政府の樹立もなかったかもしれません。
ですが―――
小松帯刀の名前は、それほど多くの人々には認識されていません。
やはり・・・表舞台で活躍する場面は、ほとんどありませんでした。
自分的には残念でなりませんでした。
そこで、本ブログを書こうと決心した次第です。
小松帯刀は1835年に、薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩士、肝付兼善の三男として生まれたと言われています。(系図では四男となっています)。
小松帯刀は 身体が弱かったものの、13歳ごろから勉学の才能を発揮し、儒学や歌道を学びました。
若いころは、「あいつは馬鹿だ!」と仲間から揶揄されていたこともあったようですが、漢学者の師である横山安容は
早くから帯刀の才能を見抜いて、「彼は将来ことを成すであろう・・・」と予言していた、と伝わっています。
22歳になると、同じ薩摩藩士である小松清猷(きよみち)の妹、近を妻に迎えると共に、小松家の養子となってその後を継ぎます。
その2年後には、名前を清廉(きよかど)と改めて、帯刀(たてわき)という通称を使い始めています。
小松帯刀が歴史の表舞台に立つのは、1858年に島津斉彬がなくなり、その弟である島津久光が藩の実権を握る時期となります。
帯刀は製鉄、造船などの洋式工場がある集成館の管理や貨幣鋳造などを行っていましたが、1861年に長崎出張を命じられ軍艦操作など、海軍に関する学問を修めました。
その後、帯刀は島津久光の側近に抜擢され藩政改革に取り組むと共に、朝廷や幕府、諸藩との連絡、交渉役として薩長同盟の交渉も行っています。
こうした帯刀の交渉術は、後に大政奉還や版籍奉還の際にも朝廷や政府で発揮されており、明治政府の発足を裏から支える事となりました。
幕末の日本を訪れたイギリス人外交官、アーネスト・サトウからも「最も魅力的な日本人」と激賞されたといいます。
ですが、1870年に36歳の若さで亡くなります。
もしも小松帯刀が長生きしていたら、明治政府の その後の歴史は随分違ったものになっていたかもしれません。
彼 小松帯刀を通して、当時の日本の置かれていた状況を整理したいと思います。
【 アヘン戦争がもたらした危惧 】
幕末の当時、世界最大の国家は英国(イギリス)です。
世界の4分の1を制し、莫大な富を持っていました。
「太陽が沈まない国」と言われて、植民地には地球の全人口の3分の1が住んでいました。それほど強大な国家であったのです。
その英国(イギリス)は、アジアにおける大国「清」から、膨大なお茶(紅茶)を購入していました。
その当時、「紅茶」は清国でしか作れなかったのです。
さらに世界では中国の陶器が人気で、それで紅茶を飲むのが、イギリス人の贅沢でした。
つまり、イギリス人は紅茶の中毒になっていたのです。
これらの紅茶は、インドにある英国東インド会社を通して運ばれていました。
この悪名高き会社が、アジア貿易を245年間も独占していました。
その当時、清はその支払いを、「金」ではなく「銀」で要求していました。
そのために、英国はスペインが支配していたメキシコから銀貨を購入して、清に支払っていました。
一方、英国も羊毛などを清に売ろうとしますが、「絹」を身に着けていて、見向きもされずに、紅茶の過剰な購入から、英国は赤字に転落してしまいます。
実際にアヘンの製造に関わったのはユダヤ人で、貿易商のマセソン商会とサッスーン商会です。
彼らはアヘンで巨万の富を儲けます。
中国全土がアヘン中毒となり、激怒した清の皇帝が 側近を広東に派遣。焼却処分にしました。
これで英国は激怒して、第1次アヘン戦争が勃発します。
約2年間にわたり、イギリス軍は抵抗する中国人を殺戮し続けました。
側近とは、林則徐(りんそくじょ)で、科挙の試験に合格する秀才でした。
広東で、輸入するアヘンを積んでくる作業に従事する中国人の労働者に、白人(英国人)や船に乗り込んでいたインド人を殺せば、金を払うとしたのです。
英国は震え上がります。
怒った英国は、その当時世界中で侵略戦争を引き起こして出ていた戦艦を、中国に集めます。
だが、広東には、林則徐が待ち構えていて、ここでは上陸できませんので、香港の近海から上陸しています。
何百人にではなく、何千人でも何万人でもありません。五十万人は殺戮したといわれています。
香港あたりから上陸して、上海、天津と進み、北京を目指しました。
当時の軍艦は、燃料として薪なども使われていて、戦線が伸びるに従い英国にも問題がありました。
林則徐は、もう少しの辛抱ですから、必ず敵(英国)を撃退します、と紫禁城には伝えていましたが、
北京へ至る白川を昇って、累々たる死体の山でそのまま放置されましたので、異臭が120キロ先まで届いたとも言われています。
耐えかねた皇帝は、林則徐(りんそくじょ)をウズベキスタナン方面に左遷してしまいます。
これで支那の軍隊の士気が著しく低下して、英国は勝利を確信したといわれています。
この結果、世界初となる不平等条約が結ばれて(北京条約)、清は英国に賠償金として、現在の10兆円もの大金を支払いました。
それを観て、米国もトルコからアヘンを仕入れて、アフリカ諸国と中国の清にも売りさばきました。
後年、日本は清との日清戦争を戦いますが、清国の兵はアヘン漬けで、気力がまったくなかったといいます。
さて、このようなアジアを植民地化してきた列強は、鎖国している日本をターゲットとしてきます。
自国の兵を失わずに利をとるのは、孫子の兵法の主要な方法です。相手国(つまり日本人)同士を戦わせて、漁夫の利を得ようと策略を練っていました。
この前提がないと、明治維新は理解できないと言われています。
「徳川幕府を倒して、新しい日本を造る」を合言葉に、外国を排斥して(攘夷)、日本を守るといっても、戦えるだけの武器も資金もありません。
これに関しては、本ブログ「写真分析から裏の歴史を考える」シリーズで言及したように、
ここで、容量がオーバーしましたので、「つづき」ます。