≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 3 ≫
この小栗上野介には、まだ我々には知らされていない秘密がありました。
逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説などが挙げられていますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていません。
「あの男を殺すには、あまりにも惜しい。新政府で生かすべき」と、敵将黒田清隆の尽力で救われています。
しかし、彼は徹頭徹尾「長州の人間を手にかけてきた元新選組局長である」と、主張を曲げなかったというのです。
小栗上野介は逮捕の「翌日に斬首」とは、あまりに早過ぎます。
そこには、歴史の「知られざる裏事情」があったようです。
官軍は、背後に英国が控えていて、武器・弾薬の支援を受けていました。
彼らは、当然分け前を要求します。
そこで徳川埋蔵金と繋がってきます。
江戸幕府が溜め込んだ「金塊」を、官軍は直ぐに押さえました。
英国に援助金として多量の金塊で支払った、といいます。
このことは、世の中に知られていない大きな視点です。
これが「世に知られていない維新政府の裏の顔」です。
ところで、
討幕運動を経済でみていくとーーー徳川幕府の経済は、絶対的に優位でした。
江戸幕府は軍事力を背景にして、さらに大きな経済優位を保持していたのです。
全国の主な鉱山を直轄地にしていましたので、貨幣の鋳造権をほぼ独占していたのです。
そのため、幕府は領地の広さ以上の経済力を持っていました。
これに対抗するには、経済的な基盤が必要です。
明治維新の主役となった者たちは、経済的な背景を持っていました。
明治維新とは、簡略するとーーー
といえます。
『眠れる獅子』といわれた清が、英国にアヘン戦争で完膚なきまでに打ち負かされて、醜態を晒したことで、欧米列強に日本も植民地化されることを憂慮して、富国強兵・殖産興業路線を突き進みました。
矢継ぎ早に繰り出す島津斉彬の藩政改革は、ペリー来航の年に、大艦建造の解禁を幕府に願い出ます、
これは、開国・通商を求める欧米列強の、強圧的な「砲艦外交」に対する我が国の海軍強化のためでした。
洋式軍艦の建造が幕府に認められると、富国強兵。殖産興業政策を推進します。
我が国最初の溶鉱炉も建造しました。
これらの事業を進めるために、交易によって外貨を得る必要がある考えた斉彬は、「薩摩切子(きりこ)」などの商社活動で、めざましい発展を遂げていきました。
斉彬は藩主について、間もなく亡くなりますが、小松帯刀は斉彬の大きな影響を受けていましたので、家老となって 斉彬が目指したものを継承すべく、力を注ぎ始めます。
このような商社活動によって築かれた莫大な資産が、討幕資金となり、明治維新を成し遂げる原動力となっていったのです。
江戸末期から明治初期の混乱期でも豪商は莫大な利益を得たのです。
幕府、大名、旗本等が幕府側か朝廷側か、尊皇攘夷派かで騒いでいた時、豪商は富をいずれかに「賭け」ながら乗り越えたのです。
その富を特定な志士を支援した豪商、戦利品から富を得た豪商など、支援はいずれも将来の日本を夢見ながらの「賭け」があったのです。
見返りもなく支援した豪商、全財産と命もかけた豪商など、幕末の豪商は正に「今に生きる」のすざましい生きざまを見ることができます。
今の富裕層に、未来を夢見て生い立ちも判らない若者に、全財産を支援するそんな金持ち・投資家がいるだろうかと思います。
未来を夢見ながら、必死に生き抜いた幕末期の豪商には 脱帽します。
さて―――
小松帯刀は、豪商と呼ばれる商家の支援を仰ぎました。
浜崎太平次は、幕末薩摩藩が生んだ最大の豪商です。
薩摩藩は、加賀100万石に次ぐ 77万石の第二位の雄藩でしたが、「日本一の貧乏藩」といわれていました。
なぜ薩摩藩は「経済大国」になれたのか。
これを救ったには、家老の調所広郷(ずしょひろさと)です。
調所は、藩に金を貸している商人に対し、500万両の借金を250年の無利子分割払いにさせました(実質踏み倒し)。
調所は、借金を清算するだけではなく、財政の健全化も果たしました。
その方法は「砂糖の専売」と「密貿易」でした。
豪商浜崎太平次は、日本初の外国貿易商人でもありました。
この経済的な背景があったので明治維新は達成された、といわれています。
別の言い方をすると―――
ここで容量がオーバーしましたので、「つづき」ます。