生命体エナジー浄化の会ブログ

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歴史の裏を読む 小松帯刀 3

≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 3 ≫
 
この小栗上野介には、まだ我々には知らされていない秘密がありました。
 
領地である上野国群馬郡権田村に隠遁していた小栗上野介ですが、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出しますが、逮捕され、翌日斬首されます。
 
逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説などが挙げられていますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていません。
 
勘定奉行のときの「徳川埋蔵金」伝説が、いまだにマスコミに取り上げられています。
 
維新政府によって斬首されたのは、主だった人物としては、この小栗上野介新選組局長の近藤勇の二人だけです。
 
函館に籠って最後まで官軍に抵抗した榎本武揚(えのもとたけあき)などは、その後維新政府に協力して、逓信大臣、外務大臣などを歴任して、子爵にまでなっています。
 
「あの男を殺すには、あまりにも惜しい。新政府で生かすべき」と、敵将黒田清隆の尽力で救われています。
 
新選組」の近藤勇は、長州にとっては恨み骨髄ですから、「斬首」は仕方がないかもしれませんが、それでも「元新選組局長の近藤勇である」と名乗らなければ、助命する配慮がされた、との説があります。
 
しかし、彼は徹頭徹尾「長州の人間を手にかけてきた元新選組局長である」と、主張を曲げなかったというのです。
 
小栗上野介は逮捕の「翌日に斬首」とは、あまりに早過ぎます。
そこには、歴史の「知られざる裏事情」があったようです。
 
官軍は、背後に英国が控えていて、武器・弾薬の支援を受けていました。
 
グラバーなどの背後には、中国清朝とのアヘン戦争で、莫大な利益をもたらしたフリーメーソンのマセソンがいて、そのさらに背後にはロスチャイルドが控えています。
 
彼らは、当然分け前を要求します。
 
そこで徳川埋蔵金と繋がってきます。
江戸幕府が溜め込んだ「金塊」を、官軍は直ぐに押さえました。
 
英国に援助金として多量の金塊で支払った、といいます。
このことは、世の中に知られていない大きな視点です。
 
そこで、勘定奉行のときの 「徳川埋蔵金」の首謀者とされた小栗上野介の口をふさぐ必要がありました。
 
多量の金塊を英国に引き渡して、勘定奉行であった小栗上野介に、その責任の一端を負わせる必要があったのです。
 
これが「世に知られていない維新政府の裏の顔」です。
 
徳川埋蔵金」があり、勘定奉行であった小栗上野介がそれを隠していた、と世間に流布させておいて、徳川家の金塊を英国、ロスチャイルドに支払っていたのだ、と指摘されているのです。
 
ところで、
討幕運動を経済でみていくとーーー徳川幕府の経済は、絶対的に優位でした。
 
実は徳川江戸幕府というのは、日本の歴代の武家政権のなかでは、圧倒的に大きい経済力を持っていました。
 
江戸幕府は軍事力を背景にして、さらに大きな経済優位を保持していたのです。
 
全国の主な鉱山を直轄地にしていましたので、貨幣の鋳造権をほぼ独占していたのです。
そのため、幕府は領地の広さ以上の経済力を持っていました。
 
これに対抗するには、経済的な基盤が必要です。
明治維新の主役となった者たちは、経済的な背景を持っていました。
 
明治維新とは、簡略するとーーー
薩摩藩長州藩が中心になり、商人から金をかき集めて起こしたもの」
といえます。
 
薩摩には、西郷隆盛を見出した名君と言われた島津斉彬がいました。
 
『眠れる獅子』といわれた清が、英国にアヘン戦争で完膚なきまでに打ち負かされて、醜態を晒したことで、欧米列強に日本も植民地化されることを憂慮して、富国強兵・殖産興業路線を突き進みました。
 
矢継ぎ早に繰り出す島津斉彬の藩政改革は、ペリー来航の年に、大艦建造の解禁を幕府に願い出ます、
 
これは、開国・通商を求める欧米列強の、強圧的な「砲艦外交」に対する我が国の海軍強化のためでした。
 
洋式軍艦の建造が幕府に認められると、富国強兵。殖産興業政策を推進します。
我が国最初の溶鉱炉も建造しました。
 
これらの事業を進めるために、交易によって外貨を得る必要がある考えた斉彬は、「薩摩切子(きりこ)」などの商社活動で、めざましい発展を遂げていきました。
 
斉彬は藩主について、間もなく亡くなりますが、小松帯刀は斉彬の大きな影響を受けていましたので、家老となって 斉彬が目指したものを継承すべく、力を注ぎ始めます。
 
このような商社活動によって築かれた莫大な資産が、討幕資金となり、明治維新を成し遂げる原動力となっていったのです。
 
江戸末期から明治初期の混乱期でも豪商は莫大な利益を得たのです。
幕府、大名、旗本等が幕府側か朝廷側か、尊皇攘夷派かで騒いでいた時、豪商は富をいずれかに「賭け」ながら乗り越えたのです。
その富を特定な志士を支援した豪商、戦利品から富を得た豪商など、支援はいずれも将来の日本を夢見ながらの「賭け」があったのです。
見返りもなく支援した豪商、全財産と命もかけた豪商など、幕末の豪商は正に「今に生きる」のすざましい生きざまを見ることができます。
今の富裕層に、未来を夢見て生い立ちも判らない若者に、全財産を支援するそんな金持ち・投資家がいるだろうかと思います。
未来を夢見ながら、必死に生き抜いた幕末期の豪商には 脱帽します。
さて―――
小松帯刀は、豪商と呼ばれる商家の支援を仰ぎました。
浜崎太平次は、幕末薩摩藩が生んだ最大の豪商です。
 
加賀の銭屋五兵衛(ぜにやごへい)、紀州紀伊国屋文左衛門と並んで「実業界の三傑」と称されていますが、浜崎太平次は、加賀の銭屋五兵衛(ぜにやごへい)以上の資産を持っていたと云われています。
 
薩摩藩は、加賀100万石に次ぐ 77万石の第二位の雄藩でしたが、「日本一の貧乏藩」といわれていました。
 
なぜ薩摩藩は「経済大国」になれたのか。
これを救ったには、家老の調所広郷(ずしょひろさと)です。
 
薩摩藩の巨額の借金を清算したのは、調所広郷という家老です。
 
調所は、藩に金を貸している商人に対し、500万両の借金を250年の無利子分割払いにさせました(実質踏み倒し)。
 
そのかわり、調所は、薩摩藩琉球などで行っていた密貿易に、商人たちを関与させることで、彼らを説得したともいわれています。
 
薩摩の浜崎太平次は、五百万両という 天文学的な負債を抱えていた薩摩藩の家老の調所広郷(ずしょひろさと)と共に、造船、貿易、海運で支えて、奇跡的に全ての借財を返済しました。
 
調所は、借金を清算するだけではなく、財政の健全化も果たしました。
その方法は「砂糖の専売」と「密貿易」でした。
 
調所広郷は、その責任をとって自害しましたが、薩摩の豪商浜崎太平次は、その後も海運事業でさらに資産を増やし、薩摩藩が英国から武器や船舶を購入する後ろ盾になっていました。
 
豪商浜崎太平次が薩摩藩献金しましたので、他の豪商もこれにならい、巨額の資金を薩摩藩は得ることができました。
 
豪商浜崎太平次は、日本初の外国貿易商人でもありました。
 
これらの全てを、小松帯刀が調整していました。
この資金があったからこそ、薩摩藩は他藩にない力を蓄えることができたのです。
 
この経済的な背景があったので明治維新は達成された、といわれています。
別の言い方をすると―――
 
調整役でもあった小松帯刀がいなくては、薩摩藩明治維新は達成できなかったかもしれません。
 
薩摩藩からは、西郷隆盛大久保利通などの幾多の英傑が生まれていますが、『維新の三傑』のもう一人 小松帯刀の存在は必要不可欠なものでした。
 
ここで容量がオーバーしましたので、「つづき」ます。