生命体エナジー浄化の会ブログ

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歴史の裏を読む 小松帯刀 5

≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 5 ≫
 
キリシタン大名によって、日本の文化が蹂躙されつつありました。
 
各地に教会と十字架が建てられ、小さな子どもまでも仏像の破壊に加わったといいます。九州地方では日本文化の崩壊が起きつつあったのです。

問題なのは、宣教師と手を組んで、「奴隷」を斡旋していたことでした。
 
九州のキリシタン大名たちは、戦のために火薬が欲しかったのです。
大友宗麟や木村純忠などは、戦で捕らえた敵側の捕虜たちを奴隷として、積極的に売っていました。
 
火薬一樽で、50人の娘が売られていたーーーこのように言われています。
何も罪のない市民たちが、奴隷船に連れこまれていきました。
 
それを救ったのはーーー豊臣秀吉です。
 
秀吉は当初、織田信長の後を継ぎ、宣教師を容認していました。
 
九州平定に入ったときに、長崎がイエズス会の領地とされている事実を知ります。
さらに、奴隷船で日本の娘たちが、次々と異国の地に送られていることを知ったのです。
 
これに驚いた秀吉は、ポルトガルの通商責任者たちに金銭を支払って、国外に売られていった娘たちを取り返すように依頼します。
 
そしてーーー「バテレン追放令」を発布します。
キリスト教宣教と南蛮貿易を禁止としたのです。
 
豊臣秀吉は、「キリスト教を弾圧した」との表現で、我々は学校で習いましたが、事実は違っていたのです。
 
豊臣秀吉がいなければ、日本の若き女性の多くが、火薬の代金と引き換えに 奴隷として売られ続けていたものと思われます。
 
このような後を受けて、徳川幕府は「キリシタンの禁教令」を発布して、鎖国政策をとったのです。
 
このような歴史的な理解を持って、長崎や天草地方での「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に登録された背景についても、今一度考える必要があるかもしれません。
 
これによって、確かに 列強の日本植民地化への足掛かりはなくなりました。
徳川政権下で、太平の時代を過ごすことになり、その太平の世を、突然揺るがす事態が起こります。
 
「黒船来航」です。
「太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)たった4杯で夜も寝られず」と謳われました。
 
米国の黒船が日本にやって来て、通商を迫ります。
幕府は大慌てで、1年後にもう一度交渉することを約束します。
 
有名な黒船来航により、1853年のペリー提督がアメリカ大統領の親書を持って、「日米和親条約」が締結された年が、日本が開国したと理解しています。
 
が、それ以前にも、各国からの来航は相次いでいました。
 
我々には あまり知られていませんが、ペリーの黒船(外国船のこと)以前にも、欧米諸国から幾度も外国船、つまり黒船が来航して、その都度 幕府は対応に追われていました。
 
なぜ、多くの外国船が米国以外にも多かったのか?
 
それはーーー英国に始まった産業革命の嵐は、米国にもおよび、夜も作業を行うために、燃料としての「油―鯨油」が大量に必要だったからです。
 
太平洋のクジラを捕りつくして、捕鯨船は日本近海までやって来ていました。
クジラからは、必要な「鯨油」だけを抜いていて、その操業は船上で行っていました。
 
そのためには、船の燃料としても大量の木材が必要であったのです。
そこで、ペリー提督が「燃料の供給」として、港の開港を迫ったのが基本となっているのです。
 
そもそも地中海からインド洋に抜けていく航路をとれば、アジア諸国に簡単に行くことができます。
 
だが、オスマン帝国がこの航路を封鎖していましたので、スペイン、ポルトガルあるいはオランダなどの西欧列強は、アフリカを迂回して、アジアの地に進出していました。
 
まず、スペイン、ポルトガルが、インド、インドネシア、フィリピン、中国などに交易の拠点を造りました。
 
さらに、オランダ、英国も進出します。
面積的には、オランダは我が国のひとつの「県」位しかありませんでしたが、一時期は 西欧の全船舶の四分の三を占めるほどの海運大国でした。
 
こうして、アジア諸国は 西欧列強の植民地となっていました。
だが、日本も負けていませんでした。
 
タイやフィリピンなどに、次々と日本人町をつくり、交易をしていたのです。
だが、徳川幕府鎖国政策によって、衰退していきました。
 
日本の交易の大きな目的の一つが、「スパイス」であり、西欧諸国も同じ理由です。
「スパイス」は高値で売れました。
 
西欧諸国は、食事のためには、この「スパイス」が絶対に必要でした。
英国の食事のまずさは、世界的に有名ですが、たしかに「スパイス」は必要だろうと思われます。
 
このような中で、英国はインドを支配して、アヘン戦争で「清」から莫大な資金を略奪して、次には 黄金の国「日本」をターゲットとしていたのです。
 
幕府は米国と通商条約(不平等条約)を結んだあと、西欧列強とも次々と条約を結んでいきました。
 
そのような中で、島津久光薩摩藩の行列に、英国人が平然と通過したことから、薩摩藩の家来に「無礼打ち」にされてしまうという「生麦事件」が起こります。
 
1862年に、騎馬の英国人が 行列の中を通過しようとして、供回りの藩士たちに殺傷されました。
1名死亡、2名重症でした。女性一人は逃亡。
 
行列の先導藩士から、執拗に馬を下りて、行列が通り過ぎるのを待つように促されましたが、これを聞き入れずに、行列の真ん中を通過して行き、国主の島津久光の駕籠に接近したために、無礼打ちとされたものです。
 
殺された英国人は、上海でも、現地の苦力を 何も罪もないのに虐待したことで お咎めを受けている人物だったようです。
 
このことがあって、京で待つ攘夷派の孝明天皇は、「外国人を討った」ことを喜んで、島津久光を 快く迎い入れたと伝わっています。
 
また一方、街道筋の住民は、「さすが薩州さま!」と歓呼して、行列を拍手喝采したとも伝わっています。
 
英国は、激怒して、幕府から賠償金を取り上げます。
 
そのため 英国は、幕府に脅しをかけるために、英国、米国、オランダ、フランスの艦隊を、順次横浜に入港させています。
 
英国は、幕府から賠償金を受け取った後でも、薩摩藩から賠償金を要求したのです。
 
生麦事件」の下手人を死刑にすることと、遺族への賠償金として「2万5千ポンド」を要求したのです。
 
実際には、「無礼打ち」にした藩士は、直ちに切腹しています。
それを伝えずに、薩摩藩は拒否します。
 
薩摩藩は、「大名行列を横切ることは、ご法度である。それがこの国の慣習である」とキッパリと拒絶しました。
薩摩藩が それに応じないとーーー
 
さらに、薩摩藩に艦隊7隻を向かわせて、要求に応じない薩摩の蒸気船三隻を拿捕します。
 
相手の大事なものを奪って、交渉のテーブルにつかせることは、当時の国際法では許されているものでした。
 
だが、そのような国際ルールに明るくなかった薩摩藩は、これを「戦闘行為」とみなして、ここに「薩英戦争」が勃発しました。
 
薩摩藩」が異国(英国)と戦った最初の藩となりました。
 
英国の艦船7隻で、鹿児島の市街を艦砲射撃で焼き払います。
海岸近くの「集成館」も炎上しました。
 
これに対して、当然薩摩藩も応戦して、英国の死者は63名を出しました。
薩摩も21名の死傷者を出しました。
 
当然、「陽の沈まない大国」は、簡単に薩摩を占領できるものと考えていましたが、結局、英国軍は上陸すらできずに、鹿児島を後にします。
 
英国は、多くの死傷者を出して、明確な勝敗はつきませんでしたが、欧米諸国には「薩摩の大勝利」となって伝わりました。
 
ここで容量が超えましたので、「つづき」ます。