≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 5つづき ≫
容量を超えましたので、その「つづき」です。
「薩摩藩」が異国(英国)と戦った最初の藩となりました。
英国の艦船7隻で、鹿児島の市街を艦砲射撃で焼き払います。
海岸近くの「集成館」も炎上しました。
これに対して、当然薩摩藩も応戦して、英国の死者は63名を出しました。
薩摩も21名の死傷者を出しました。
当然、「陽の沈まない大国」は、簡単に薩摩を占領できるものと考えていましたが、結局、英国軍は上陸すらできずに、鹿児島を後にします。
英国は、多くの死傷者を出して、明確な勝敗はつきませんでしたが、欧米諸国には「薩摩の大勝利」となって伝わりました。
77万石のひとつの藩ですら、世界の大国を相手に戦い、上陸すらさせずに撃退した―――ということで、誇張された伝聞は、その後の尊王討幕運動に大きな影響を与えることになりました。
薩摩の実力を、幕府も諸国の大名も知ることとなったのです。
ですが―――
英国と直接戦った薩摩藩は、外国の武器、科学技術の高さを 身をもって知ることとなりました。
このことが、「攘夷論」がいかに無謀なものであるかを知ったのです。
その後、英国と親交を結んで、相手国の最新科学技術を導入することや、留学生を送って、英国と外交関係を深めていきました。
この「薩英戦争」の背後では、小松帯刀に関わるエピソードがあります。
その訴えとは、人吉の町が火災で甚大ない被害にあって、町の再興にはどうしても5千両が足りませんでした。
参勤交代を伸ばしてもらったり、肥後藩に借財を申し出たりしますが、断られていました。
小松帯刀は多くを語ることもなく、承諾します。
人吉藩の窮地を救うことになりました。
「薩英戦争」では、英国も深いダメージを受けましたが、薩摩も大きな打撃を受けていました、
これを、人吉藩が救います。
「薩英戦争」後の英国との交渉も、家老の小松帯刀が当たっていました。
このようにして、明治維新の改革が進んでいったのです。
つづく
2019年7月6日記