生命体エナジー浄化の会ブログ

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歴史の裏を読む 小松帯刀 6

≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 6 ≫
 
 今回は、もう一度小松帯刀について、その歴史的な経過を振り返ってみようと思います。
 
小松帯刀が、小松家に養子となって、当主となります。
そして彼は、家老となって、まず僻地に追放や配流されていた人々を、元の地位に復帰させました。
 
お由羅騒動などの藩に関わった人物など、鬼界島に流されていた大久保利通の父親(利世)も放免しています。
 
お由羅騒動とはーーー
島津家の藩主であった島津斉興は、江戸生まれに江戸育ちの息子である島津斉彬家督を譲らずに、藩主に収まっていました。
 
というのは、その側室のお由羅の方は、自分の生んだ息子久光を、次の藩主にしたかったのですが、藩主斉興の嫡子である斉彬(なりあきら)が江戸にいました。
 
斉興が嫡子斉彬を認めなかったのは、祖父の影響が強かった斉彬を嫌っていたからです。
 
すでに60歳に近い斉興が、隠居せずに藩主の座に居続けるのは異例でした。
 
このことから、薩摩藩は 斉彬をたてる派閥と、久光をたてる派閥に分かれて、御家騒動となります。これが世にいう「お由羅騒動」です。
 
この騒動で、斉彬をたてる派閥の多くは切腹、遠島の憂き目にあいます。
大久保利通の父親(利世)も、この「お由羅騒動」で遠島になっていたのです。
 
 
老中阿部正弘の説得により、斉興が隠居して、名君の誉れ高い斉彬が藩主になったのは42歳の時でした。
 
この斉彬に見い出されたのが、「西郷隆盛」です。
 
斉彬は、薩摩藩を近代的な藩に改革するために、様々な事業を立ち上げます。
 
幕府の創設した長崎海軍伝習所で教員を務めていたオランダ人のカッティンディーケは、伝習所の訓練生と共に薩摩を訪れていますが、
 
その時の感想として、「鹿児島の備えは行き届いている。そうして時世に遥かに先んじている主君(斉彬)の統治下にあった」と述懐しており、斉彬の指揮のもと鹿児島が近代化に突き進んでいる様子がうかがい知れます。


また、同じく薩摩を訪れたオランダ軍医師のポンペは、

「われわれ一行がここで見たすべてのものからして、つぎのことを予言できた。
 
すなわち、この藩は国運隆盛の源泉となるものを増進し、また自力で技術研究に専念する明君の政治のもとにおいて、燦然たる彼岸に到達するであろうこと、(中略)
この藩はまもなく日本全国のうちでもっとも繁栄し、またもっとも強力な藩になることは間違いないということである」
と、当時の薩摩藩の繁栄ぶりを後年書き残しています。
 
斉彬は、当時の西欧の最先端技術のほとんどを、吸収していったといいます。
 
この薩摩藩を近代化させる政策と次々と展開していく斉彬は、人材の育成にも意を注ぎます。
 
斉彬は新たな人材の発掘と育成のために、藩士たちに向けて、藩政に対する意見書を求める布告を出しました。
 
この斉彬が出した布告を見た西郷は、それ以来幾度となく意見書を書き、藩庁に提出したと伝えられています。


西郷が提出した意見書については、現物は残されておらず、その内容は定かではありませんが、藩内の農民たちが重税に喘ぎ苦しみ、いかに困難な生活を強いられているのかを、切実に訴えたものであったと想定されています。

 
「国の根本をなすものは農民である」という、西郷の愛農思想に準拠するからです。


また、西郷は農政に関すること以外にも、先年のお由羅騒動で処罰された藩士たちが、未だ遠島や謹慎の処分を解かれていないことに不満を持ち、そのことも意見書の中に書いたと伝えられています。


通説では、これら西郷の意見書が斉彬の目に留まり、安政元年、斉彬が江戸に出府するにあたり、西郷はその供に加えられ、江戸詰を命ぜられ、江戸に行くことになったと言われています。西郷、26歳の時のことでした。


斉彬の江戸出府に随行し、薩摩から江戸の薩摩藩邸に勤務することになった西郷は、藩から「庭方役(にわかたやく)」の役職を拝命しました。


庭方役とは、当時、身分の低い藩士が、藩主や家老といった身分の高い人物に拝謁するには、厳格な身分制度が存在する世の中では、西郷のような下級藩士が、おいそれと身分の高い人々と簡単に話せるような時代ではなかったからです。

 
西郷が庭方役を拝命したのは、西郷がこれまで度々提出した意見書を斉彬が読み、西郷のことを薩摩藩の将来を担う、頼もしい若者と感じたため、
 
面倒な手続きを取らずに、自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命したと伝えられています。


こうして、西郷は斉彬から国内の政治情勢や諸外国との関係、そして日本の政治的課題などを教え込まれ、人間的に大きく成長していくのです。

 
斉彬の厚い薫陶を受けた西郷は、当時天下に名を馳せていた水戸藩藤田東湖(ふじたとうこ)戸田蓬軒(とだほうけん)、越前福井藩橋本左内(はしもとさない)といった志の高い人たちと交流を持つことになり、
 
次第に西郷の名も、諸藩士の間で知られるようになっていきました。


西郷は斉彬によって天下のことを知り、そして世に送り出された人物でした。

西郷隆盛は、斉彬の命を受けて縦横に活躍します。
 
斉彬は、越前福井藩主の・松平慶永
「独立の気性が強い西郷は、私でなければ使えないだろう。ただし薩摩の宝だ」
と、語っていたと伝わっています。
 
西郷と同じく、小松帯刀もまた、斉彬の薫陶を受けていました。
 
斉彬は、先の斉彬の父である斉興に配慮して、初めは自分を擁していて「お由羅騒動」で処分された藩士を、そのままにしていましたが、小松帯刀を介して全て元の身分に戻しています。
 
斉彬は、西郷以外にも多くの若者を抜擢していました。
その彼らが、その後の薩摩、日本を動かして行くのです。
 
斉彬は若くして亡くなりますが、その臨終間際の家督相続にあっても、思いもかけず男児を授かりました。
 
だが、その子を後継ぎとはしないで、島津久光の子・忠義に次期藩主の座を託すのです。
 
というのも、斉彬は かって久光を藩主にするという派閥への報復人事をすることもなく、
 
勝海舟が咸臨丸で薩摩にやってきた時には、
「余の弟(久光)は、幼少より学を好み、方正厳格なることも 余に優れるものである」と、紹介していたと伝わっています。
 
斉彬は、藩主の座について 10年も経たず亡くなりますが、その後の実権を握った久光とは、西郷は相入れませんでした。
 
実際に久光は、独断専行タイプの西郷とは、小松帯刀を介さなくては、細かな政策を打ち合わせることができませんでした。
 
斉彬が、「独立の気性が強い西郷は、私でなければ使えないだろう。ただし薩摩の宝だ」と、語っていたことが 如実に現れていました。
 
幕末史で、日本を大きく動かすことになる西郷隆盛と、島津久光という二大巨頭のバランスをとり、コントロールして力をひとつに集約できた立役者は、小松帯刀です。
 
彼が「幻の宰相」と呼ばれる所以でもあります。
 
時代は動きます。
 
ここで容量を超えますので、「つづき」ます。
 
                 2019年7月13日記