≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 7 ≫
時代は動きます。
一方
そのとき、長州藩が残していた兵糧5百俵が残されていました。
これを小松帯刀は、戦火にあった京都の難民に分け与えたのです。
京都に住み戦火にあった住民は、「薩州さま!」といって喜んだといいます。
坂本龍馬です。
これで、西郷の方針は180度変わったと伝わっています。
武力ではなく、「外交」で対処する方向に向いたのです。
これについては、本ブログ「歴史を考える」の中で、「写真分析から裏の歴史を考える 2」の中から、引用します。
維新が成功したのは薩長連合あってのことですが、元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の仲でした。それがなぜ同盟関係を築き得たのかというと――――
田中光顕によれば、薩長連合成功の最大原因は、桂小五郎(木戸孝允)が西郷隆盛に、我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ、とを打ち明けた点にある、というのです。
つまり―――
単に坂本竜馬や中岡慎太郎の仲立ちで、薩長連合が成立したわけではないのです。
ところで桂小五郎(木戸孝允)や伊藤博文たちに 維新後の新天皇に南朝の後裔を擁立するよう指導したのは、他ならぬ吉田松陰です。
● 忍者であった「伊藤博文(俊輔)」が、厠に潜んでおり、槍で突き刺して殺した。
● 岩倉具視が 毒殺した。
どちらが正しいのか。
現在では、岩倉具視の毒殺説が浸透しているようです。
これは、まず、京都の薩摩屋敷に木戸孝允を連れていきました。
しかし、西郷は姿を見せませんでした。
それで龍馬が西郷を説得します。
坂本龍馬は、生前兄に宛てた手紙に、「天下の人物」として次のように述べています。
肥後には 横井小楠
薩摩には 小松帯刀 西郷吉之助(隆盛)
薩摩には、大久保利通の名前は上がっていませんでした。
長州を朝敵として、第一次長州征伐を行いますが、幕府軍の参謀となっていた西郷らの活躍により、戦わずに幕を降ろします。
さらに第二次の長州征伐を、幕府は15万もの軍勢で行いますが、失敗に終わります。
すでに内密に薩長同盟した薩摩も、兵を出しませんでした。
同じく、幕府の命令に従わない藩が続出したのです。
一方、外国からは開港を迫られる内憂外患の状態にあり、処置に困った老中は、しばしば小松帯刀を召し出して、意見を求めていました。
つまり、小松帯刀は、朝廷も幕府にも頼られる存在となっていたのです。
明治維新は、政治・軍事の面から評価されることが多いですが、いかに西郷や大久保などの英傑がいたとしても、政治・軍事の基盤となる政治資金、軍事資金がなどの経済と軍備がなくては、その活動はあり得ません。
この背後には、小松帯刀の功績がありました。
これが日本の産業・通商の発展に、大きな功績を残すことになりました。
例えば、小松帯刀は 慶応三年(1867年)軍艦兵器などの購入資金を集める必要から、大阪に株式会社を設立して、兵庫開港の交易にも当たっていました。
このとき小松帯刀の指示で奔走して人物の一人に、本間郡兵衛がいました。
彼は、「本間家」の関係者でした(後に毒殺されます)。
庄内藩であった酒井に行きますと、日本有数の富豪であった「本間家」の広大な屋敷があります(戦後の農地改革までは、日本一の地主でした)。
「本間様にはなれずとも せめてなりたや酒井の殿様」
と謳われるほど(庄内藩の藩主よりもすごい)、超のつく富豪でした。
なぜ、兵庫開港の交易に株式会社を設立したのか?
それは、兵庫開港で外国との交易が盛んになると、商法が一変して、株式会社にしないと、日本の経済が吸い取られてしまうので、それを防ぐためです。
このままでは、いずれ日本の価値ある商品が外国に奪われてしまうので、それに歯止めをかける、ということを見越してのことでした。
このように、政治・経済から軍事に至るまで、小松帯刀は その全てを綿密に対処できる人物であったのです。
つまり、諸藩、民間から俊才を登用して、全国的な政治の統合を図ろうとするものです。
これは、幕府は大政を朝廷に返上して、朝廷は二つの議政所を設けて、広く議事官を選んで、全ての政令をここから発するというものでした。
西郷や大久保は、長州や岩倉らの朝廷派と同様に「大政奉還」はない、と踏んでいました。
だが、徳川慶喜は、かって島津斉彬らに将軍の座に就くことを強く勧められていて、その元で活動しており、その才能を高くかっていた小松帯刀が、「建白書」に賛同していることを知り、心が動いていたーーーともいわれています。
徳川家は政権を奉還することはやむを得ないこと、それが国家にとって急務であること、公の道から判断しても公明正大な行為であることを強く論じ、両手を開いて、政権奉還を幕府に説き勧めました。
このために、幕府も 政権を朝廷に返上しないわけにはいかなくなったのです。
ここで容量がオーバーしましたので、「つづき」ます。