《 天狗界、仙界、真言密教界を考証する 2 》
浜口熊嶽(ゆうがく)その2
老僧は、
「この世での子弟の縁はこれまでじゃ。わしは、娑婆の命数終わって、元の五大に帰る」
と告げました。
熊嶽は、何と答えてよいのか判りません。
老僧は、見た目は67、8歳のように見えますが、実際には94歳で(その時代ではかなりの高齢)、名を「実川(じっせん)」ということでした。
これまで「お師匠さん」と呼んでいたので、その実名「実川上人」であることを知りませんでした。
最後に老僧:実川上人は、本名熊蔵に「熊嶽(ゆうがく)」という名を与えました。
そして、老僧は熊嶽に尋ねます。
「汝は、わしの亡き後も、この山中に棲むか,里に出るか?」
熊嶽は率直に
「師匠がおられるならば、いつまでもここにいます。
しかし、自分一人なら、一日もここにはいません」
と、答えます。
実川上人は、
「ならば・・・里に出て僧となるか?」
「坊主は好みません」
「では、郷里に帰って漁師となるか?」
「殺生は嫌です」
「妻帯はするか?」
この質問に熊嶽は躊躇しながら、「女房は持ちます」と思い切って言いました。
「飲酒は?」
「呑みます」
「肉食は?」
「食べます」
熊嶽は、「女房は持ちます」と言ったので、どうせ怒られると覚悟に上で続けたのです。
すると実川上人は、ジーっと怖い顔で熊嶽を視つめていましたが、突然大声で笑いだして、
「汝は、僧となるべき性にあらず、よしよし、ただ決して衆生済度を忘れるでないぞ」
こう言うと、座を立って、那智の本滝の落ち口に進んでいきました。
そして、滝の落ち口から下を覗きながら、
「今ひとつ言い残したことがある。
汝に遣わした一巻は、娑婆の縁が尽き、この世を辞する前に、初めて開いて、それを見て、法は口伝にて衣鉢を授ける弟子に伝えて、一巻はわしが汝に伝えた通り、開いて見ることを禁じよ。
彼の一巻は伝法の証である。決して開くなかれ」
と、堅く戒めました。
熊嶽が「畏まりました」と固く約束すると、老僧は満足気に
「今は我が事すべて畢(おわ)れり」
と言うや、高らかに経文を唱えて、千尋の滝壺に身を投じました。
那智の滝は、本滝の他にも、二の滝、三の滝とあるようです。
本滝は、落差133Mの日本一の落差の滝です。
現在のように観光地化していない明治時代の当時に、老僧は死期を悟って自ら命を絶ったのです。
突然のことに熊嶽は驚いて、滝の下を見ると、老僧は身体が砕けることもなく、下に横たわっているのが見えます。
動転して、う回路をとらずに、泣きながら滝を降りますが、半狂乱になっていますので、さすがに足が滑って落下します。
脚の骨が砕けましたので、足がブラブラして、老僧の傍まで立って歩けません。
全身傷だらけでしたが、気が立っていますので、痛みを忘れて老僧の傍ににじり寄りますが、すでにこと切れていました。
熊嶽は途方にくれますが、「このままではまずい!」と思い、奮い起こして折れた足に向かって「九字を切ります」。
さらに「呪」を唱えて、気合を入れて、「うん!」と立つと、立つことが出来ました。
さらに痛みはすっかりと去っていました。
熊嶽が法力を使った最初のことでした。
さらに―――
上方の青葉を取ろうと思いますが、手が届きません。
普段なら、飛行の術で簡単に取れますが、足が折れているので、それが使えません。
小石を拾って投げると、当たらないのに、ヒラリと葉が落ちます。
もう一枚と思い狙いを定めると、それだけでその葉が落ちてきました。
「これは・・・」と思い、葉を睨むと、これまた葉は枝を離れて落ちてきます。
こうして、青葉を睨み落とすことに成功します。
三年間の修行によって、足の骨が砕けても歩けるようになり、手を触れることもなく葉を落とすことが出来るようになり、やってきた修法には「霊験が伴う」ことを実感します。
こうして熊嶽は実川上人を27日間弔い、那智の山を下り、和歌山の里に出てきます。
「真言秘密蛇避けのお守り」が売られています。
「真言秘密」という文字が気なり、そのお守りを手に入れたくて、そこにとどまって様子を見ていますと、ひとりの老婆がやって来て、
「私の娘はヘビが嫌いで、おまけに足掛け三年間も大病を患って自由が利かない。そこにヘビが座敷に上がって来ると気絶してしまうのじゃわ・・・」
こう言って、お守りを5つ買いました。
これを聞いていた熊嶽は老婆の後を追います。
「娘の病気を治してやるから、お礼にそのお札をひとつ呉れ!」
と言います。
突然このように言われて、薄汚い子供の熊嶽を見て、まったく信じようとしません。
熊嶽は、高徳な実川上人の元で、那智山で修業をした者であると話しますが、まだ信用しません。
老婆は「証拠はあるのか?」と問い質してきます。
そこで熊嶽は、懐から鉄鉢を出して見せると、少し心を動かした様子でしたが、
「お前の話は本当かもしれないが、わしの娘は、これまでえらい坊さんや山伏などに、何度も祈祷してもらったが、少しも後利益はなかった。
だから、あんたのような若い小僧さんには、とても無理じゃ!」
こう言い放ちました。
「では・・・・」熊嶽はこう言うと―――
樹の下で術を切ります。
刀印を結び、空を切りますと、それに応じるかのように、全ての葉がハラハラと落ちてきました。
これを見た老婆は腰を抜かすほどに驚いて、「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛・・・」と大喜びして、「もったいない、もったいない・・・・」と繰り返し、自分の家に熊嶽を連れていきます。
熊嶽を信じ切った老婆は、「天狗さんが来た!」と近所中に触れ回ったので、夕暮れには30人ほどの見物人が集まってきました。
三年以上も腰が立たない娘は、27,8歳でやつれています。
実川上人から習っていた修法を、一心不乱に1時間近く行い、印を切って、九字を切り、
「立て!」と叫ぶと、娘はフラフラと立ちました。
「歩け!」と命じると、ヨロヨロとしながらも足を運びました。
娘の目にも、家族の目にも、喜びの涙が浮かんでいました。
多くの見物人は、「南無大師遍照金剛!」と一斉に唱えて、目の前で起こされた奇跡に感動して、熊嶽を伏し拝んだといいます。
法の有難さと、人を救うことの喜びをひしひしと感じ、この時の感動が 熊嶽が法術をもって、人々を救うことを決意させたといいます。
その後、京都の醍醐寺の学校で1年間学び、寺の住職となりますが、寺に落ち着くことはできずに、明治32年に大阪の天王寺のある寺の境内に、「祈祷所」を開設します。
さらに郷里に大邸宅を建てて、全国を回り、病に苦しむ人々を救います。
朝鮮、満州はもとより、ハワイやアメリカにも渡り治療をします。
それは「キリストの再来」とまでもてはやされた、といいます。
明治から大正期に入ると、「大日本天命学院」を大阪に創立して、自分と同じように法力を身に着けて、人々を救うことを目的としていました。
熊嶽は、かなり高額な報酬を得ていたといいますが、それはまた、全国各地の孤児院、軍人遺族団体、あるいは小学校、消防署、道路工事、若者たちの進学の援助、青年クラブの建物などへの寄付といったことを続けました。
いまでも地元の紀伊長島には資料館があって、熊嶽を顕彰するために銅像まで建立されています。
ここまでの軌跡には、数々の困難がありました。
17歳の時から密教の秘法によって治療を始めましたが、18歳のときから33歳までに、各地の警察署に召喚されること七百四十度におよびます。
「奇跡的治療は無免許の医業である。神仏に託して、人を幻惑している」として、逮捕されて、裁判にかけられたのです。
法廷に立つこと47回。 その都度、実際に法力を示すことで、それが本物であることを人々の面前で実証して、ことごとく無罪を勝ち取ってきました。
熊嶽は、確かに足腰が立たない病人を、気合で立たせることができ、中風で歩行困難な病人を祈祷して、たちまち闊歩できるようにし、リューマチの痛みを一喝の気合で取り除くなど、難病で医者に見捨てられた人々を救ってきました。
実際の記録に残されているものに、法廷で歯を抜く法を示した、とあります。
抜歯をするのに「九字を切って、気合をかけると、ポロリと抜け落ちた」といいます。
浜口熊嶽
画像を見ますと、もの凄い軸が取れた完全体を示しています。
これだけの完全体は、めったにお目にかかれないものです。
では、具体的にどうのように行ったらよいのか―――
この『熊嶽人身自由術秘法』では、よく掴めないのです。
すでに記したように、この書物は放置したままにしていました。
だが、その後『熊嶽術真髄』という復刻本が八幡書店より世に出されたので、それを入手して、少しその概要が判りました。
『熊嶽術真髄』という復刻本(八幡書店)を基にして、以下続けます。
この中に、師匠の実川上人との修行の詳しい軌跡が述べられています。
例えば―――
『避水(へきすい)の印』という項目には、
「三日目の朝、例によって師匠に伴われて窟(いわお)を出るとき、短刀を懐にして師に従った。
実際に死ぬ覚悟であった。滝に打たれる辛さで死ぬ気なったわけではない。
自分の意気地なさに愛想がつきたからでる。
今日もう一度、滝に打たれて、やはり身体が凍えて動けぬようになってしまったら、そのときこそ腹を切ろうと思っていた。
凍った崖や、氷柱や積雪を見上げて、岩頭に立って呪を唱える師の姿は、もったいなくも悪鬼羅刹に見えた。
『いやだ、死んでしまおう』と思い、剣を腹に刺そうとする刹那、師匠が飛鳥の如く駆け寄って来て、私の手首を押さえた。
私は反抗して、逆の手で石を拾い、師匠に投げつけたが、なぜか短刀も取り落として、何者かに叩かれたようにドッと尻持ちをついた。
その私に対して師匠は、なぜか合掌しました。
そして、私のそばにしゃがんで、「よしよし、汝にそれだけの根性があれば、この修行を成就するのはいとやすい」
こうして私の顔に向けて、激しく九字をきられました。
すると―――
私の五体の血潮は湧き上がって、恐ろしいほどの勇気が出たのです。
さらに―――
師匠の九字を切った指先を、滝の白波の立つ滝壺とを割って、
「それ進め!」と大音声を挙げますと、目の前の水が二つに裂けて、足元から滝に向かって一道の直路が開かれたように見えました。
私は、腹の痛みも忘れて、滝壺に飛び込みました・・・・。
これが聞き及ぶ『避水(へきすい)の印』でした。
その後、腹の痛みも忘れて、次の日から何の苦痛もなく、滝の落ち口を睨み上げることができるようになり、18日目で滝の修行を成就して、
師匠から「よきかな、:よきかな」を頂戴して、その後岩窟(いわや)で秘密義の口授を受けていました・・・・。
また―――
熊嶽は回顧します。
「第1回の滝の修行は21日で終わったが、私の修行は完全なものではなかった。
腰の浮かぬことと、滝の直下で一文字に突き進むことだけは出来たが、滝の落ち口を下から睨み上げることと、滝の全力を双肩に担って、呼吸を狂わさずにいることの、この二つは まだ未熟であった」
「それから五十日間は岩窟(いわお)の中で経文と文字を習うだけで、時期は厳寒期に入り、風が昼夜の別なく吹き荒れて、岩窟(いわお)の中は氷のように冷たく、私の手足は凍傷にかかり、黒血が染み出る。
師匠は、朝と夜に私の凍傷の手足をなでて、息を吹きかけられた」
そして
「来年からは、決して凍傷などには罹らぬ。
今年は里で食った食物の血が体内に残っているので、こんなになるのじゃ!」
このように言ったといいます。
この二人の密教修行者は、ほぼ蕎麦粉を練ったものを食べていました。
四つ足の肉などは食べていなかったようです。
この文面からは、身体の血液が完全に浄化されると、凍傷には罹らないのかと思われます。
また、滝行については、世間一般にいわれているような効用は、「ない!」と断言する方もいます。
滝行を何十年と続けても、一時的な高揚感は得られても、その隙間に行者が落としていった不成仏霊が憑依してしまい、行者間の霊的な交換がされるのが関の山である―――このように指摘もされています。
熊嶽が行っていた滝行は、那智の滝の「二の滝」「三の滝」であったようですが、他の行者が来て、滝行をすることもなかったようですので、この見解はあたらないようです。
那智には、熊野古道に「那智四十八滝」があり、その中に「那智二ノ滝」「那智三の滝」があります。
ここには那智大社の許可がなければ、入れないようです。
再び滝行を再開すると、次には「二の滝」で、あまりにも凄まじく、最初は寒さのために全身が凍り付いて、気絶をしてしまったようです。
今でも行者と称する人物は滝行を行いますが、熊嶽は何と言われようとも、滝行は「身体を鍛えるものではない」と言っています。
心を強靭にするものなので、科学的に検証しても、身体の深奥部にある「心の強化、金剛心」は解析できるものではない―――このように述べています。
また、熊嶽は「滝行」「冷水浴」については、「水垢離(みずごり)」と表現して、精神を鍛える手段として用いていました。
そのような修行を続けて、那智から十津川奥へと移動します。
ここには、岩窟(いわお)はなく、大木が茂っている根の下にある大石の上を根城として、ここで六十日近くを毎年過ごすといいます。
ここでは主に「飛行の術」の修行をするといいます。
空中を翔けるのではなく、高く飛び上がる修行です。
このようにして、熊嶽は季節ごとに場所を移動して、三年間の修行を終えて、娑婆に出て行ったのです。
そして、真言密教の「三蜜」すなわち「身口意(しんくい)」を持って、様々な奇跡的な「術」を日本だけでなく、世界に向けて発信していったのです。
次回は、いよいよその核心である「法術」に迫ります。
つづく
2019年11月30日記