九字の図解
刀印
《 天狗界、仙界、真言密教界を考証する 3(その2) 》
浜口熊嶽(ゆうがく)その3(その2)
前回が容量を超えましたので、その「つづき」です。
このような項目があって、いよいよ「熊嶽術真髄」に進みます。
その前に熊嶽は述べています。
「伝習者に注意しておりきたことは、私の言うところ,指示するところは、何分にも目に見えない形のないものである。
勢い抽象的な説明となり、本体を彷彿とさせる手段をとらねばならないので、その背後の本体を、文章を透して掴み取っていただきたい。
本書は、幾度も幾度も50回100回と、継続して読み続けて欲しい。
読みやすい文章としているが、文字の意味が解ったからといっても、説くところは広大無辺、絶思量界(ぜっしりょうかい)の最奥秘事である。
羅列した文字が解ったからといって、その奥に潜む真意は容易に会得されるものではない。
奥の真意が理解されたとしても、さらにその骨髄たる究極に触れることは難しい、
ましてや奥秘をも骨髄をも超越した本体を体得して、玄妙の域に達することは、至難中の至難である。
ただ、奥秘を極めんとする不断の根気を持続して、繰り返し本書を読み込むことで、その妙境に達するであろう」
このように述べています。
確かに・・・・文献を読み込むことで、その概要は理解できますが、それを実施して、明らかな効験を示すことは、簡単にはいかないことは判ります。
試しに、ファミレスで座っている方の問題個所を確認しておいて、「九字を切って、一撃をいれる」ことをやりますと、良好な反応は示します。
遠隔調整の依頼を受けても、試しに「熊嶽術」を使いましても、良好な反応は示しますが、長期間持続できる保証は得られません。
私の講座でも、参加者に試してみました。
良好な反応は示すことはできるようです。
ただ、立てない歩けない人を、「杖無しで歩ける」ところまで持っていくのは、現状では難しいようです。
熊嶽本人は、老師の死後里に下りてきて、まず初めに「木の葉落としの術」を見せていますが、
「(俗界の中で暮らすようになって)かってのように、「木の葉落としの術」を常に示すことは難しくなってきた。
すこぶる体調がよい、と判断できた時には可能であるが、常にできるわけではなくなってきた」
このように告白しています。
歩けない病人を 一瞬の気合で歩けるようにする真言密教の究極の「真髄」は、弘法大師が説いた「曼荼羅」などの大宇宙観などにも関わり、次元を超えた「裏宇宙」も関わるように思われます。
金剛界の三蜜を会得している熊嶽であっても、俗人と交わることで、奇跡的な効験を示すことはできなくなっていたのかもしれません。
というのも、熊嶽は一説によりますと、「一日で600人もの患者を診ていた」と云われています。
600人であれば、一人1分の施術であっても、1時間で60人。
これを10時間も続けていたことになります。
私は思います。
おそらく、この数字が事実であれば、まとめて術を施したのかもしれません。
それは可能であるからです。
少しの程度であれば、私でも可能であるからです(当然、持続効果は小さいですが・・・・)。
密教修行を行っていたからなのか、いずれにしろ信じられない数字です。
もう一度繰り返しますと―――
三蜜とは、身(しん)、口(く)、意(い)の三作用のことで、これを身蜜(いんみつ)、語蜜(ごみつ)、意蜜(いみつ)といって、その妙行妙味については、「菩薩」といえども、「これを知ることはできない」と云われています。
悟りを得たといわれる「如来」にして、はじめて衆生を救えるようになり、凡夫の三業(さんごう)を浄化して、加持、施術の不可思議な効験が忽然と現れて来ると云われています。
それはともかく、核心に入っていきたいと思います。
熊嶽は、真言密教の修法をもって、病者を救おうとするものです。
三蜜修法の功力によって、「心界」から病根を治すものです。
医師は、クスリを持って病を治そうとするが、
「三蜜修法は法を持って、病根を治すのである。これすなわち、秘密真言修行の大威徳によるのである」といいます。
その核心を成すものは、「印を結ぶ」「九字を切る」「護摩を焚く」ことです。
この三者は、深奥を極めておかねばならない最も大切な事柄です。
これは、古来から真言宗の僧侶や修験者が行うものですが、その起源、その方式、その種類およびその功徳は、知るものがなく、ただ因習的に学んだところを
無意識に行うだけで、その精神を了解している者は、極めて少ないといわれます。
それは、古来高僧たちが、これをもって絶対秘密のものとして,相伝の他は、僧侶俗人に対しては、その秘儀を公開しなかったからです。
「印を結ぶ」ということひとつでも、天地神明と霊交して、面前に観音菩薩の荘厳を見るが如くに、光明矍鑠たる宇宙唯一不二の心理を体得するというのです。
弘法大師空海も、その定(じょう)に入るときには、大日印を結ばれたといいます。
結印は、釈迦が編み出されたと云われています。
印を結ぶときには、心すべきは「心を清浄潔白にする」ということです。
また、
印を結ぶときには、他者に見られないようにすることがあります。
そのために、そばに人がいる時には、法衣の中で印を結び、決して見られないようにしています。
というのは、
「『印を結ぶ』(身密)とは、大日如来の仏心をもって、結ぶのであるから、凡夫にできるものではない。
口先で大日如来の心で言ったところで、できる訳がない。
左様なことを他人に教えたり、左様な心持で印契を行っては、魔道の修法となってしまう」
からなのです。
護摩焚くきも、重要な修法です。
熊嶽もこれは大切な方法で、熊嶽術を極めるには、護摩焚きを修練しなくてはならないと述べています。
ですが、現実には実施するには困難ですので省きます。
「九字を切る」ことは、熊嶽術の真髄です。
「臨(りん)!」「兵(びょう)!」「闘(とう)!」「捨(しゃ)!」「皆(かい)!」「陣(じん)」「列(れつ)!」「在(ざい)!」「前(ぜん)!」
という言葉を唱えながら、虚空にむかって、縦に4本、横に5本の空線を切るのです。
古来より「九字を切る」あるいは「十字を切る」など、様々な場面で行なわれてきました。
「九字を切る」方法は、道教から生まれたとする説や、修験道の行者が行っていたという説など様々です。
一説では、道教の行者が山に入るときの秘呪であり、仙人も山に入るときに、九字を切って、禍を避け、妖怪を除くと云われています。
これを有意義にしたのが、真言密教の僧侶であるといいます。
軍中および川を渡るときに修せられるとしています。
熊嶽術でも、室内に充満する邪気を打ち払って、身体を保護するためにも用いられます。
印契には、
「諸仏の仏が宿る。
妙用不思議にして、神通力が身体に宿る。
天を指せば、星月堕ち、地を指せば、江湖(こうこ)つく(干上がる)」
といい、さらに
「これを呼ぶにも印を用いて招き、これを遣るにも印を用いてはしらしめ、
怨魔百万憶ことごとく順調であっても、密印をもって、ひとたび退ければ,魔軍おのずから消滅する」
ともいいます。
かくも印契には、驚くべき効能が示されるのです。
つまり
「印を結ぶ」ということは、大宇宙と同調して、印契は法身の身密であるから、一指一印が法界に行き渡って、全ての諸法を融攝(ゆうじょう)するのです。
この理と信念が合致すると、印の一大功力が顕現して、一指を上げるだけで天地も鳴動して、一印を結べば、業火も消滅する奇跡が、眼前で行われるのです。
印契については、くれぐれも「軽率に行ってはならない」と熊嶽は警告しています。というのは―――
五体を正しく保ち、我が両手に須弥山(しゅみせん)を挙げていると観念して、その慇懃さと その凝念の力とによって功力が顕れて来るからであるといいます。
したがって、修行の道程においても、何万回印を切ろうとも、軽率に行ってはならない、といいます。
それというのは、万が一にも軽率な所作があっては、その一度の破れによって、それ以前に行った何千何万という練習の功が、空滅に帰するだけでなく、以前に行った数と同じだけの数が、それ以降にも無効となるからである―――このように述べています。
このことは、心しておかなくてはならないようです。
熊嶽は言います。
「わが師実川上人は、当時無学文盲であった私に対して、結印の所作では峻烈な態度で臨んでいた。
なんでかように厳しく言われるのか、その仔細を会得することができず、戦々恐々として習得したのであるが、後になって師匠の大慈悲心を解しえたのである」
さらに熊嶽は、
「私は、那智山での修行によって、三蜜が整っている。
だから、少々手荒な九字を切っても、それに相応する効力が顕れる。
しかし、
諸氏はそうもいかない。慇懃に厳粛な面持ちで、真剣に九字を切らねばならない。
印とは、形式上のものではるが、これには仏心が宿るのである」
このようにも述べています。
また、
「印契の修法は、非常に重要なものなので、伝習者はこれを学ぶには、決して傍に人がいる場合には行ってはならない。
密室か、早朝まだ人が寝ている時刻に行うとよい」
とも言います。
さらに、
「陀羅尼集経には、心を用いず、法を守らず、命に従わずして印契の修法を行うと、悪鬼神が憑依してしまう」
とも言います。
各指に宿るエナジー体は、次のようになります。
右手は、「仏界」「金剛界」で、
拇指は、五大の「空」で、「大日如来」
人差し指は、五大の「風」で、「阿閦如来」
中指は、五大の「火」で、「宝生如来」
薬指は、五大の「水」で、「阿弥陀如来」
小指は、五大の「地」で、「釈迦如来」
となります。
左手は、「泉生界」「胎蔵界」で、
拇指は、五大の「空」で、「大日如来」
人差し指は、五大の「風」で、「阿閦如来」
中指は、五大の「火」で、「宝生如来」
薬指は、五大の「水」で、「阿弥陀如来」
小指は、五大の「地」で、「釈迦如来」
となります。
これらの指を組ませる様々な「印」で、様々な影響力を顕すことができることになります。
「印契」とは、仏の「身蜜」ですので、修行してこれを結ぶことで、行者の本誓に一致する信念で行うことで、「諸々の護法明王等は親近して、ともに相助けて、速やかに成就を果たす」といいます。
いくつかの「根本印」がありますが、ここでは真言密教の最高位である大日如来印を組んで、空間の浄化をして、自分自身を浄化浄霊する「真言」を紹介します。
画像(大日如来印)
真言は、
「オン・バサラタド・バン
ノウマク・サンマンダ・ボダナン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン」です。
言うまでもなく、姿勢を正して、真摯にこの「印」を組み、この「真言」を諸仏と一体となって、「浄化するぞ」という思いで、行います。
これによって、空間が浄化されて、対象者も浄化されます。
試してみてください。
ほとんどの方が、真剣に行うと達成されます。
次に「九字の切り方」を紹介します。
これには、いくつかの流派がありますが、熊嶽は最も典型的な方法で九字を切ります。
刀印を姿勢を正して組んで、鞘(左手)から、刀(右手)を抜いて、虚空に向けて構えます。
図解(刀印)
申し訳ありません。図は最上部にあります。この印で、左手の中に右手を入れて、そこから抜いて、印を切ります。
そして―――
図解(申し訳ありません。最上部に図があります)
この図のように、「臨(りん)!」「兵(びょう)!」「闘(とう)!」「捨(しゃ)!」「皆(かい)!」「陣(じん)」「列(れつ)!」「在(ざい)!」「前(ぜん)!」
という言葉を唱えながら、
まず、横に「臨(りん)!」 次に縦に「兵(びょう)!」
あとは、「闘(とう)!」「捨(しゃ)!」「皆(かい)!」「陣(じん)」「列(れつ)!」「在(ざい)!」「前(ぜん)!」と、交互に繰り返していきます。
虚空にむかって、横に5本、縦に4本の空線を切るのです。
本書では述べられていませんが、「最後に」中心に向かって、「エイ!」と、裂帛の気合を込めて、打ち込むといいと思います。
すでに述べたように、いい加減な気持ちで「九字を切ります」と、それまでの全ての効力が消失して、これからも同じだけの期間が、無効験なものと化します。
熊嶽は、文中では かなり細かくその心持ちを伝えています。
実際に行ってみますと、かなりの効力が認められます。
『熊嶽人身自由術秘法』には、症状別に「印の組み方」と「真言」が紹介されていますが、難しいので現時点では試していません。
実際に試した方がいましたら、私にお知らせください。
さて、浜口熊嶽の「真言密教」が長くなりましたが、次回からは、「天狗界、仙界」に踏み込んでいきたいと思います。
その中心人物である「天狗小僧寅吉」は、「真言密教」を嫌っていたのです。
別の角度から、今だに闇の世界にある「天狗界、仙界」に触れていきたいと思います。
つづく
2019年12月7日記