《 田谷の洞窟 2 》
「田谷の洞窟」(瑜伽洞)の探索を続けます。
明治の「廃仏毀釈」で多くの貴重な文化財が失われましたが、鎌倉時代から続く「瑜伽洞(ゆがどう)」は、一時期崩落で閉山していました。
そのお陰で、「廃仏毀釈」の影響を受けることもなく、「田谷の洞窟:瑜伽洞(ゆがどう)」は現在まで残っているのです。
「瑜伽洞(ゆがどう)」密教の修行の場ですので、各所に祠があります。
「弁天池」とあります。
波動は高くありません。
「胎蔵界曼荼羅」
ここも良好な波動は感知しません。
「胎蔵界曼荼羅」を構成する各神仏を示す「凡字」と思われます。
「胎蔵界曼荼羅」は、「金剛界曼荼羅」と対になっていて、「左脳」に反応しますが、ここではそのような反応はありません。
「左脳」は、現実的な論理性や男性性を示すとされますが、彫り込まれた「凡字」が示す「仏心」も、何も浮かび上がってきません。
ここの波動は良好です。
「真言は不思議なり。観誦(かんじゅ)すれば無明を除く」
「一字千里を含み、即身に法如(ほうにょ)を証す」とあります。
これは弘法大師(お大師様)の『般若心経秘鍵』の言葉です。
真実の言葉である「真言」には不思議な力がある。
仏さまの世界を観察し、真言を読誦(どくじゅ)すれば、その力によってわたしたちの迷いの根源(こんげん)たる無明(むみょう)を除くことができる。
真言の一つ一つの文字には無限の道理が含まれており、この身このまま仏さまになる道を証すのである。
このような意味です。
本ブログで、前回シリーズで書いている「浜口熊嶽」の「身口意(三密)」に通じるものです。
観誦(かんじゅ)という聞きなれない言葉がありますが、仏教用語です。
観察して、読誦(どくじゅ)することで、心のあり方を見つめるもので、
煩悩に覆われた心の内面を深く見定めて、神仏の安らかな境地を追及することです。
観誦(かんじゅ)することで、煩悩という闇の世界で迷い苦しむ「無明」から、仏と一体化する「真言」で払い除くことができる―――ということです。
お釈迦様は、「生・病・老・死」の「四苦」からは、人々は決して逃れることはできないと説きますが、お大師様は、神仏と一体化して、観誦(かんじゅ)することで、解放されると説いています。
ここの波動が良好なのは、神仏と一体化する「真言は不思議なり」を、この空間は示しているのかもしれません。
ここには「四国八十八霊場」が描かれています。
良好な波動が、ここのドームにはあります。
「阿字観」の修行の場と思われます。
「阿字観」とは、真言密教の「瞑想法」です。
凡字の「(ア)」の一字には、宇宙万物の創成を表し、万物の本源として、不生不滅の原理を示す意味から、これを見つめて思い描くことで、
常に心の中に、「(ア)」字を思い浮かべることで、真言密教の本尊である「大日如来」様と一体化できるというものです。
「(ア)」字とは、「大日如来」様を表す凡字なのです。
この修行を続けると、閉眼しただけで、「(ア)」字がここの中に浮かび挙がって来て、「大日如来」様の効験が受けられるようになります。
私も以前、少し試みたことがありますが、続きませんでした。
ただ、他者の身体にこの梵字を投射すると、様々なマイナス波動が浮かび上がってきます。
さらに投射を続けますと、体軸が整ってきて、身体が正常化することを
体験しています。
この「(ア)」字投射方法を使っていた時期がありました。
特に、「心臓」目掛けて投射しますと、一瞬で正常化することができます。試してみてください。
せっかくなので、「阿字観」の具体的な方法を述べておきます。
まず、最初に仏画としての「蓮華」を描き、次に「月輪」を描き、その中に「阿字」を書いて軸装して目の前に掲げて、観想(瞑想)します。
そして、この観想に熟達したならば、この「阿字」が心中より光を放って、あまねく三世十方法界の諸仏の浄土に届くとイメージします。
その際に、この光は瑜伽行者の頭頂から足先まで体中を巡ることになります。つまり―――
この「阿字」を明らかに観想できれば、六根の諸々の罪業と障害が全て清められて清浄となるといいます。
また、六根が清浄になり無垢であれば、心の本質(心性)も無垢清浄となり、例えば、透明な水晶や清らかな満月のようなものとなるのです。
この状態で、(瑜伽行者が)世間における六道の輪廻に目を転じた際には、一切の草や木にいたるまでが砕け散り、おおよそ外境としてあらわれる(幻影の)全てが破れ去ってしまうものとなります。
この『阿字観』を修すると、このようによく一切の煩悩を除くことになり、それによりあらゆる効能が示されるといいます。
何故かというと、多くの人の心の形(心輪:心臓のチャクラ)は、八葉の蓮華の花が未だ開かないような形(未敷蓮華の形)をしており、
八方に分かれた筋(輪線:脈管のこと)があり、男性は上に向かって開き、女性は下に向かって開いています。
この心を観想して、それを開く(開敷蓮華の形)ことになります。
心髄が具足するか、しないかは、すべてその(瑜伽行者の)心にかかっています。
蓮華三昧の心が、もし、開くときには、無量の法門が具足します。
これにより、諸仏を見たいという人、諸仏を(直接に)供養したいと思う人、菩提(覚り)を証発(証得)しようと思う人、諸々の菩薩と同じように生きて行きたいと思う人、一切衆生を利益しようと思う人、一切の悉地を得たいと思う人、一切智を得たいと思う人、
これらの人は、更に他の方法や瞑想法を求める必要はないといいます。
まさに唯々、この『阿字観』を観想するべきなのです。
一切衆生の自らの心は、元から今に至るまで清浄であるけれども、無明によって覆い隠されていて、その心の状態を言い表すことはできないのです。
もし、この心を清めることができれば、すなわち、その心は(『大日経』に説く)「胎蔵界曼荼羅」となって現出するといいます。
(この曼荼羅は)他の場所から持って来たのではなく、更にまた、「阿字」も他から来たのではない。唯々、心より生じたものなのです。
禅定を修して、その心はようやく清くなります。
そして、心が清浄になるが故に「阿字」もまた心中に現出します。
つまりは「阿字」の法門に入るが故に、(瑜伽行者は)大果報を得ることになります。
(その境地は)他人が授けることができるものではありません。
もし、短命の人が日々の三時(朝・昼・夜)に、この「阿字」について考え、観想すれば、長寿を得ることができるといいます。
もし、出る息と入る息の中に、この「阿字」を観想すれば、壽命は伸び、いつまでも健康を保ち続けることになります。
これは、この「阿字」の菩提心は(金剛界法と違って)不生不滅の法門だからです。
また、出る息と、入る息を工夫する場合には、鼻の先15センチの所に、この「阿字」を観想するといいようです。
この観想による功徳は―――仏教用語で、人の性質を3つに大別して、
〇 下品(げぼん)の成就ならば、死の間際に当たる人が、むしろ生き返る。
〇 中品(ちゅうぼん)の成就ならば、虚空に昇るが如き大自在の境地を得る。
〇 上品(じょうぼん)の成就ならば、すなわち「無上正等覚」に至る。
このように述べています。
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「四国八十八霊場」に関わる神仏なのでしょうか。
神仏が彫り込まれています。
それほど波動は高くはないです。
「弥勒菩薩」です。
ここで我々は、「弥勒菩薩」と一体化することにしました。
順番に一人ずつ、感謝の意を捧げて、体内に「弥勒菩薩」のエナジーを取り込んでいきました。
「五大明王」が彫られています。
「五大明王」とは、「不動明王」を中心に据えて、「降三世明王(こうざんぜみょうおう)」「軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)」「大威徳明王(だいいとくみょうおう)」「金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)」の五体をさします。
今でも空海が眠っていますので、食事を捧げ続けています。
どうやら、中に在る仏像は、「お大師様空海」のようで、「南無大師遍照金剛」というお大師様の真言に反応を示します。
「金剛水」とあります。
「御霊水を右手の人差し指に受けて、額に当て、次に病の個所に当てよ。
最後に大師に向かい合掌して、南無大師遍照金剛と唱えて祈願する」
このように書かれています。
このような行者道が続きます。
さらに 途は続きます。
ここには「女人結界」があって、洞内に入るすべての女性は歪みます。
それだけ、この空間が清浄なエナジーを確保するためのエリアであることを教えてくれます。
この先は、出口です。
この近くのエリアで、我々は引き付けられました。
何かが反応するのです。
「坂東三十三霊場」
ここでもありません。
「孔雀」や「鳳凰」の壁画のエリアでもありません。
それは―――
この本道の脇に空いた空間でした。
一人ずつ、入って体感しました。
それは―――
この空間です。
上半身の「頭部」は、中に入れることができます。
この中の奥に、「頭部」を入れると―――
異次元空間にアクセスできるように反応します。
もし自分の未来を知りたければ、ここに入ると、「未来の自分」につながることができるかもしれません。
例えば、「今ある悩み」「現在ある金運」などが、1年後、3年後、5年後にどうなのか・・・と問いかけますと、自分自身の身体が反応して、その答えをもたらしてくれるかもしれません(参考までに・・・)。
こうして、瑜伽洞探索を終えました。
了
2019年12月28日記