《 天狗界、仙界、真言密教界を考証する 4 》
天狗小僧寅吉 その1
前回までは、浜口熊嶽(ゆうがく)の真言密教のパワーについて
考察しました。
今回からは、「天狗界」「仙界」について焦点を当てていきます。
というのは、これについて書かれた文献があるからです。
昔から、「天狗攫い」などについては、漏れ伝わってきていましたが、どこまでが真実なのかは、疑わしい面があって、半信半疑の感はぬぐい切れませんでした。
天狗に攫われた子供は、その後戻って来て、空を飛んで各地を回った話をするなど、信じられないことを言うのですが、現地に行かないと分らない事を話すので、信じざるを得ない―――ということでした。
そもそも、「空を飛ぶ」ということが、現代では信じられない事象です。
これについては、チベットに行った魔術をする人物(マジシャン)が、空中に浮かぶという老師を探す旅に出るドキュメンター番組をみたことがあります。
そのラストで、ついにそれと思われる人物に遭遇して、山小屋の中で老師が空中に浮かぶ姿を目撃します。
目撃した本人もマジシャンですので、様々なトリックを披露するのですが、当然何かトリックがあるはずだ―――と探しますが、完全に空中に浮いていました。
日本のマジシャンでも、目の前で人を浮かせる「空中浮揚」のトリックを見せる人がいます。
なぜそうなるのかは解りません。
でも、必ずトリックがあるはずです。
マジシャンが披露するのは、その場に限定されます。
デビット・カッパーフィールドの有名人のショーも観たことがありますが、目には見えませんが、ワイヤーのようなもので吊っていると思われました。
デビット・カッパーフィールドは、空中イリュージョンにおいて、世界で初めて、ロープや映像トリックを使わずに空中に浮きました。
後日、カッパーフィールドは、特許出願をしていることを知りました。
特許を申請すると、詳細に内容を示さなくてはなりません。
それで、ネタバレしますが、それでも特許を取得して、自分が独占したいと考えたのだと思います。
空中浮揚は、0.01ミリという非常に細いワイヤ―を、多数天井から吊るし、客席からは見えない設定になっています。
「空中浮揚」については、他のTV局が対抗して、新たなスターを生み出すために、別のマジシャンのショーをやっていたことがありました。
公園で撮影するのですが、明るい昼間のシーンで撮影していたのが、空中浮揚のシーンになると、急に暗い中のシーンになって行っていました。
ワイヤーを見えなくする必要があったもの、と推察されました。
屋外の公園では、大掛かりなセットを構築したものと思われました。
このマジシャンは、一瞬で人物が入れ替わるマジックも披露しますが、サクラ
を多用していました。
これらを分析した報告では、同じ人物が他局のシーンにも出ていて、サクラとして登場していることが見出されています。
つまり、通常の空中浮揚にはトリックが必ずありますが、いきなり山から山へと飛んでいくことは、どう考えても不可能としか思えません。
しかし、国学者の有名な平田 篤胤(ひらたさねあつ)本人が残した文献『仙境異聞』には、それを覆すことが書かれています。
『仙境異聞』については、時々書物を紐解いていると、ときどき遭遇していました。
「いつかは・・・読まねば・・・」と思っているときに、八幡書店から「現代語訳仙境異聞」が出版されました。
さっそく購入して、読みました。
実に興味深いものでした。
この書物を通して、「天狗界」「仙界」が少し理解できたようです。
『仙境異聞』から、天狗小僧寅吉が 実際に見聞した世界を見ていこうと思います。
文政3年(1820年)10月1日に、塙保己一の門人で、国学者の人物がやってきて、「天狗の誘いを受けて、長らく従者になっていた童子が、山崎美成(よししげ)のところにいるのをご存知か」と、言われました。
「その子は、あちらに世界でいろいろと見聞したことを教えてくれるということだ」
「その話を聞くと、あなた(平田 篤胤)が前々から考え記されてきた説と、符合することが多い。
今から美成(よししげ)のところへ行って、その子に会おうと思っているんだが、あなたも一緒にいきませんか?」
このように篤胤(さねあつ)は言われます。
願ってもないことなので、一緒に会いに出かけます。
道すがら、「神誘いにあった者は、話が曖昧でとりとめがなく、殊にあちらの世界のことは、秘密めかしてはっきりと語らないものですが、その子はどうですか?」と篤胤(さねあつ)が尋ねると
「その子供は包み隠さず話すようだ。
話によると、はるか西方浄土の国々まで行き、迦陵頻伽(かりょうびんが)さえ見たといって、その声の真似までしたという(註:極楽浄土に棲むと云われる鳥のこと)。
近頃は、あちら世界のことは隠さなくなってきたようなので、いろいろと質問して書き留めておくといいでしょう}
実際に会ってみると、寅吉は 篤胤達二人の顔をジーっと見つめたまま、挨拶もしないので、美成(よししげ)に挨拶をしなさい、と言われて、ようやく不器用な挨拶をしたといいます。
年の頃は、十三才に見えるが、実際には十五歳ということでした。
眼は、人相家による「下三白(げさんぱく)」という眼で、常人よりも大きく、「眼光人を射る」という、そんな光が眼にあり、顔つきはどこも全くの異相でありました。
脈をとり、腹部を診断したところ、腹筋は強く力がありました。
脈は、三閑(さんかん:主要な三つの脈診箇所)のひとつ手首の寸口(すんこう)の脈が細く、6,7歳の子供のようであったといいます。
この童子は、江戸下谷七軒町の越中総次郎という男の次男で、名は「寅吉」といいます。
三年前に父が亡くなり、今年18歳になる兄が商いをして、母と幼い弟妹を養い、つつましく暮らしているといいます。
寅吉の家族については、後日篤胤自身が生家を訪ねて記しています。
それによると―――
寅吉は、五、六歳の頃から、これから起きることを言い当てることがあったといいます。
例えば、文化〇年〇月、下谷広小路に火事があった日に、寅吉は屋根に上って、「広小路が火事だー!」と叫んだそうです。
人々はその方角を見やったが、煙も火も見えなかったので、「なぜそんなことを言うのか!」と詰め寄りました。
すると寅吉は、「あんなに火の手が上がっているのに見えないのか。逃げろ、逃げろ!」とわめいたので、人は皆 寅吉の気がふれたのではないか思いました。
しかし、翌日の夜に寅吉の言葉通りに、広小路で火事が起こりました。
またあるとき、父親に「明日はケガをしそうだから気を付けてよ・・・」と言いました。
父親は気にも留めませんでしたが、翌日に大怪我をします。
またあるとき、「今夜は必ず泥棒が入るだろう」と言い出したので、父親は叱って、「そんなことは言うものではない!」とたしなめましたが、やはり泥棒に入られました。
寅吉は、生まれつき疳が強く、幼いころから顔色が悪く、いつも下痢気味で寝小便をして、とても無事に育ちそうもないと思っていましたが、喧嘩ひとつしない良い子だったといいます。
まだ起こってないことがどうして判ったのか―――寅吉の答えはこうであった。
広小路の火事は、家の屋根から広小路に炎が立つのが見えたといい、父親の怪我や泥棒のことは、何やら耳元でざわざわしたかと思うと、
「明日は親父が怪我をするぞ」「今夜、泥棒が入るぞ」という声が聞こえてきて、ただそのまま思わず知らずに口にしていた、というのです。
さて、寅吉は篤胤と初めて会ったときに、篤胤の顔をしげしげと見つめていて、
「あなたは、神様です」と、何度か繰り返したといいます。
「あなたは、神の道を信じ、学んでおられるのでしょう」という。
「こちらは平田先生といって、古学の神道を教授しておられる方だ」と説明すると、
寅吉は、「間違いなくそうだと思った・・・」と言うので、篤胤は驚いて、
「どうして私のことがわかったのか、話してくれないか。また、私のように神の道を学ぶことは、善いことか、それとも悪いことか、どちらであろうか?」
「なんとなく、神を信じておられる方だと心に浮かびました。
神の道ほど尊い道はございませんから、善いことです」
篤胤と一緒に来たつれには、「あなたも神の道を信じておられますが、その他にもあれこれを広く学問を成されておられるのでしょう」と言います。
これが、この童子に驚かされた最初であった。
篤胤は、こうして寅吉と会い、まず神隠しを受けたその当時の様子を尋ねました。
次のような話でした。
文化9年(1812年)、寅吉7歳の時であったという。
寅吉が見ていると、「乾(けん)の卦が出ました」「坤(こん)の卦が出ました」などと言う占いに非常に興味を持ち、これを習いたくて仕方なかったのです。
ある日、思い切って「教えてくれ!」と申し出ます。
易者は、寅吉が子供だったので、からかい半分で、
「たやすくは教えられない。
手の平に油をためて、火をともす行を7日やれ。それが終わったらまた来るがいい。そうしたら教えてやろう・・・」
といいます。
その言葉を真に受けた寅吉は、手の平が焼けただれながらも行を終えます。
そして、再び易者のもとに行き、「ほらこのとおり手が焼けただれたが、やり遂げた・・・」といいますが、
易者はただ笑うばかりで、相手にしませんでした。
寅吉は悔しくてたまりませんでしたが、卜占いへの興味はさらに増したまま、日一日を過ごしていました。
同じ年の4月頃に、上野寛永寺の近くで、50歳ぐらいの総髪のように髪を結んだ老人がいました。
この老人は、小壺から丸薬を出して売っていました。
やがて商いを終えると、前に並べていた小づらから敷物まで、いとも簡単に小壺の中にしまい込みました。
さらにこの小壺の中に老人は入り込もうとするので、どうやって入り込むのかとみていると、いとも簡単に中に身体が吸い込まれて、大空に舞い上がって、いずこともなく飛んでいきました。
寅吉は何が何だか解らず、不思議でなりませんでした。
それでまた、そこに行って、夕暮れまで老人の様子を見ていましたが、その前とまったく同じでした。
その後また、寅吉はそこに行くと、老人の方から
「お前もこの壺に入ってみないか。面白いものを見せてやろう」と言ってきました。
寅吉は、何とも薄気味悪いので遠慮していると、菓子などを買い与えて、
「おまえは、卜占を知りたいのだろう。だったら、この壺に入って、わしと一緒においで。教えてあげるよ」といいます。
卜占の術を知りたかった寅吉は、誘いに乗ります。
そして―――壺に入ったかと思うその間もなく、ある山の頂に辿り着いていました。
まだ日も暮れていませんでした。
その山は、常陸国(茨木県)の南台丈(難台山:なんだいさん)でした。
ここは、加婆山と我国山との間にあって、獅子が鼻岩という岩の突き出た山で、いわゆる天狗の行場です。
寅吉は幼かったので、夜になると両親が恋しくて、泣きじゃくりました。
老人は困って、
「やむをえんな。そんなに家が恋しいなら、送り返してあげよう。
だが、今日起きたことは、しゃべってはいかん。
無論、家の人にも決してしゃべるでない!。
毎日五条天神の前においで。わしが送り迎えして、卜占を習わしてあげよう」
こう言い含めると、
老人は、寅吉を背負い、目を閉じさせて、大空に舞いあがると、耳に風が当たって、ざわざわと鳴ったかと思うと、もう寅吉の家の前に来ていました。
「いいな、わしと会ったことは決してしゃべるな。
一言でもしゃべると、お前の身に災いがふりかかるぞ、わかったな!」
こういうと、老人はたちまち消え去りました。
寅吉は、このことを決して言いませんでした。
翌日、寅吉は約束通りに出かけると、老人がいて、寅吉を背負って、山に連れて行きました。
老人は、卜占のことは何も教えず、周辺の山々に連れて行き、色々なものを見覚えさせて、花を折り、鳥を捕り、渓流で魚を釣り、寅吉を遊ばせました。
夕暮れになると、寅吉を背中に背負って、家に送り返しました。
こうして、老人と一緒に過ごす日が長く続きました。
老人が寅吉を連れて行った山は、初めは南台丈でしたが、それがいつの間にか岩間山(常陸国)に連れて行き、現在の師匠につかせていました。
寅吉はまず、百日の断食行を課せられ、それが終わると、師匠の誓状を書かせられました。
それは―――老人の行方や、弟子(古呂明)のことで、外部には漏らさずに秘密を守ることでした。
寅吉は、「卜占の術を教えてください」と頼むと、
「卜占を教えることは簡単だ。しかし、易占いには、好ましからぬところがある。
だからまず、卜占以外のことを学びなさい」と言われました。
こうして師匠は、寅吉に、「武術一般の修行の仕方」「書き方」「神道に関わるもろもろの事柄―例えば、祈祷呪禁(きとうじゅきん)のやり方、符字(ふじ)の記し方、弊(へい)の切り方、易占い以外の占い方、仏教諸宗派の経文ほか、ありとあらゆるものを教えてくれました。
この間、いつも通りに老人が寅吉を送り迎えをして、師匠について学んでいました。
誰も寅吉が居なくなったことを気にも留めず、寅吉も師匠に学んだことを誰にも話しませんでした。
寅吉の家は貧しかったので、毎日遊びに出かけても、誰も気にも留めず、世話がかからないので結構なことだと、何も聞きませんでした。
寅吉が、ときに10日、20日、50日そして100日余りも山に籠っていても、不思議なことに両親も家の者も、寅吉がそれほど長くいなかったとも思わなかったようでした。
こうして寅吉が、家と山とを行き来していたのは、7歳の夏から11歳の10月までの、足掛け5年に渡りました。
その間に、ときに師匠の共をして、またあるときには同門の兄弟子たちに連れられて、諸国を見聞して歩いたといいます。
その後、寅吉が12,3歳の頃には、山に行くこともなく、逆に師匠の方から寅吉の元を訪ねてきて、あらこれと教えていかれただけであったといいます。
というのは、寅吉が11歳のときに父親が病に伏せていたからです。
師匠は寅吉に、「禅宗や日蓮宗などの宗派の様子を見おぼえるのが良い」と教示しましたので、池之端の「正慶寺」に預けられます。
寅吉は、この禅寺で修行して、禅宗の宗派の様子はほぼ分かったので、家に戻りました。
翌年の文化15年(1818年)の正月から、奉公しますが、この年の2月に寅吉の父親はなくなります。
寅吉が、「覚姓寺」にいたときのことです。
ある人が、「大切なものを失くしてしまった」と話していました。
この話を寅吉が聞いていると、誰とも知らぬ声が、寅吉の耳元でつぶやきました。
「盗人(ぬすっと)だ。盗人が広徳寺の前の石の井戸の前に隠している」
このことをその人に伝えます。
その人は驚いて帰ります。
はたして、寅吉が言ったとおりに品物が見つかりました。
その人は、「不思議なものだ」と、会う人ごとに触れて回りましたので、それからというもの、あれこれと人に頼まれるようになります。
占いや呪禁加持などもやりますが、ことごとく霊験がありました。
その中には、「富くじ」の当たり札の番号を言い当てたことが幾度もあって、この噂を聞き及んだ人が、
「富くじ」とは言わずに、
「千番まである品の中の、もっともよいものを神社に奉納しようと思っているのですが、一体何番のものがいいのでしょうか。占っていただけませんか」
と、頼んできました。
寅吉は占って、教えていました。
かれこれ、22、3人の人に頼まれて、16,7人は当たったといいます。
6,7人は当たらなかったが、そのうちの5人までが、すでにその番号は他の人が手にしていて、当たらなかったということでした。
現在の「宝くじ」にすると、とてつもない確率です。
寅吉がいれば、誰もが「ジャンボ宝くじ6億円」を求めて、寅吉の元に詰めかけます。
寅吉の噂が広がり、多くに人たちが、寅吉に様々なことを頼みに来るようになりました。
寅吉は煩わしくなって、できるだけ人に会うのを避けていましたが、さらに大勢の人が、押し卦けてくるようになります。
住職はこのありさまに驚いて、寅吉に言います。
「こんなに噂が広まっては、困ったものだ。
おまえはまだ若い。わしが妖術か何かを教えているのだろうと邪推されるかもしれぬ」と言って、寅吉を家に帰してしまいます。
寅吉の修行は続きます。
つづく
200年3月9日記