《 天狗界、仙界、真言密教界を考証する 8 》
本題に入る前に、太平洋戦争について触れておきます。
多く方がご承知のように、日本は米国相手にして、とうてい勝てる相手ではないことを知っていました。
短期決戦で勝利して、すぐに第3国を通して調停に持ち込むしか、この事態を打開する方法はありませんでした。
しかし、日本は 経済封鎖されて、石油を止められて、その備蓄が70%を切る頃に、日本は必ず動くと米国は予想していました。
さらに、日本が到底受け入れられない「ハルノート」を突き付けられて、やむなくハワイの真珠湾を急襲しました。
これは、暗号でその直前に大使館を通して、「宣戦布告」を米国に通告する手はずでしたが、大使館員の不手際で、それが遅れます。
そのため、日本は「不意打ち」を行ったとして、今でもハワイの真珠湾には日本の不法行為を責める「文書」が、記念館にあるのです。
しかしこのことは、米国は事前に、日本の動きの全て知っていました。
これは今では常識となっています。
日本が真珠湾を攻撃することを、事前に察知していて、主力艦を港から退避させていて、日本軍の攻撃は軽微なダメージに終わると見ていたのです。
だが、実際には日本の攻撃力は凄まじく、予想を遥かに超えるダメージを受けてしまったのです。
メキシコには「アラモ砦を忘れるな!」、日本には「リメンバー、パールハーバー!」のスローガンで国民を鼓舞するのです。
ルーズベルト大統領は、「日本とは戦争をしない」との公約で大統領に就任しましたが、モンロー主義で自国から戦争はできなかったので、日本に戦争を仕掛けさせたのです。
石油を止めて、日本に無理難題を持ちかけたのですから、ここまで追い込んだら、日本は必ず戦争をしないはずがない、との目論見を持っていたのです。
元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーの証言が残っています。
日本人なら誰も思いもしないようなことを、フーヴァー元大統領は口にしています。
「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせたものだ。
気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が、日米戦争になったんだ」
このように述べています。
これについては、マッカーサー元帥も明確に同意しています。
これは一般の方には知られていない、47年間の公開を禁じられていたフーヴァー元大統領の回顧録にあるものです。
もうひとつ、述べておきたいことがあります。
フィリピンのルバング島で発見されて、「最後の帰還兵」となった小野田寛郎(おのだひろお)さんのことです。
彼は陸軍中野学校出身で、「生きて虜囚の辱めは受けず」とする戦陣訓と異なり、最後のひとりとなっても戦え。玉砕も捕虜も、死んでもならず、主力の撤退後も、反撃に備えて、敵陣内で諜報を行う残置諜者となるように叩き込まれた人物です。
終戦後も、米国はフィリピンに留まったこともあって、米国軍に挑み続け、レーダーサイトの襲撃など、その行動は計百数十回に及びました。
最後の日本兵として生き抜いていた小野田元少尉に、上官の任務解除、帰国命令がくだり、29年ぶりに祖国日本の地を踏みました。
彼は、帰国後に広島の原爆慰霊碑を見ました。
そこには、「やすらかにお眠り下さい。二度と過ちは繰り返しませぬから」 と書かれていました。
「これは、アメリカが書いたものか?」すると友人は答えました。
「いや、日本だ」
米国は、女子供容赦なく殺戮して、非人道的な兵器を使ったのに、「何か裏の意味があるのか? 負けるような戦いは二度としないというような・・・」
さっぱり意味の解らない小野田さんは、このように聞いたと云います。
小野田さんには、日本が謝っていることが解りませんでした。
これではまるで、日本の中だけで「日本は過ちを犯した」「日本が悪かった」と 言われているような気がしてしまいます。
GHQの戦後教育で、日本が戦争したから日本が悪いとする考えと、純粋に米国が悪いとする小野田さんの疑問が浮き彫りとなりました。
実は、広島の原爆慰霊碑を目にして、インドの裁判官はこう主張しています。
「 なぜ日本人は日本人に謝るのです? 原爆を落としたものは日本人でないことは明白です。
戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも、明らかです。
さらにアメリカはABCD包囲網を作り、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。 アメリカこそ開戦の責任者ではないですか。
広島の原爆慰霊碑は、アメリカがホワイトハウスに立てるべきです 」
これが西欧諸国に植民地支配され続けてきた、アジア人の本心ではないかと思われます。
さて―――大戦に敗れた日本には、GHQ進駐軍が乗り込んできます。
日本人の精神を打ち壊して、二度と立ち上がれないように、徹底的に骨抜きにすることを前提として、まず戦争責任者である「天皇」を戦犯として裁くことを画策します。
しかし―――
終戦後、マッカーサーは昭和天皇と引見を果たしたときに。世界の常識でいえば、昭和天皇は命乞いをしてくると思っていました。
ところが開口一番、昭和天皇は「この戦争のすべての責任は自分にある。自分の命はどうなってもかまわない。我が国の民を飢えさせないでほしい」このようにおっしゃったといいます。
その日の夜、マッカーサーは自分の日記にこう書いています。
「自分は、初めて神のような帝王の姿を見た」と―――。
しかし、天皇の処刑の噂を知った国民は、マッカーサーに向けて手紙を大量に送りました。 「私たちの命はどうなってもいいから、天皇陛下の御命だけは助けてください。」 「もし陛下を裁判にかけるようであれば、 日本国民は皆、今後永久に米国人に対し 一大憎悪を抱き、憤死する…」
中には、 「天皇陛下をさいばんにかけてはいけません。」と小学生のたどたどしい文字の手紙もあり、血で書いたであろう手紙も届いたそうです。
これを目の当たりにしたマッカーサーは、天皇と国民の固い絆に感服したと言います。 そして、天皇処刑を提案する中国共産党やソ連などの連合軍の提案に対し、
「かれを滅ぼすことは、日本国を崩壊させることになる。それだけでなく、日本人は未来永劫、憎悪と怒りを永続させるであろう…」とし、はねのけました。
当初考えられた処刑を中止させるほど、天皇と国民の間に強固な繋がりがあったのです。
この引見により、マッカーサーは180度、日本の占領政策を変えました。
「天皇なんか必要ない」と思っていたのが、「天皇をなくしたら、大変なことになる」と―――思うようになりました。
そこには、さらに我々の知らない事実があったようです(後述)。
ところで、戦後のGHQ政策は完璧で、日本は悪で、米国は善とされました。
教育も、日本古来の教育を重視する指導者は追放されて、偏向する教育者が日本の教育界を占拠しました。
日教組はその最たるものです。
自由主義こそ、教育の基本であり、日本人の異常に強いルーツである日本の精神教育を否定した教科書も作りました。
太平洋戦争は日本がしかけた、日本が悪かったと教育して、その結果 日本は恫喝されると謝る外交を続けています。
これを見ている東洋(アジア各国)の有識者は、
「日本が太平洋戦争を行ったから我々も独立できたのである。
日本には感謝こそしても、心底悪意を抱いていることは全くない。
だからもっと東洋のリーダーシップとして、日本が牽引して欲しい」
と、このように言っています。
戦後教育で、我々は国のために散っていった「特攻隊」を、冷ややかな目で見ています。
ですが、「特攻隊の遺書」は、アメリカ軍の道徳教育の教科書に使われています。
家族に宛てて書いた遺書を残して、勇敢に戦った特攻隊の雄姿を後世に伝えて残しています。
一方、日本では特攻隊について、授業で教えられることはありません。
あろうことか、日本の先祖を侮辱する輩さえいる始末です。
日本古来の道徳教育が廃れて、荒廃した日本の社会が出来上がってしまいました。
今では、天皇は国民の象徴となっていますが、世界の平和を祈り、神に感謝を捧げる神聖な行事を行う代表者であることすら、理解していない方々が多くいます。
昔、「天皇制などいらない。つぶしてしまう方がいい」と言っていた高学歴の人物がいました。
このような輩とは、論争する気にもなれませんでした。
そのような人物には、次の書籍を読むことを勧めたいと思います。
そこには、私も初めて知る情報が載せられていました。
それは『祈りが護る国 アラヒトガミの霊力をふたたび』(明窓出版)で、著者は、理論物理学者でノートルダム清心女子学園名誉教授の保江邦夫氏です。
以下、その本から多くを引用しています。
太平洋戦争の末期、米国は原子爆弾の製造に成功します。
原爆は3発ありました。
米国は、連邦準備銀行にあった金塊を全て使い果たして、これ以上戦争を継続するには、困難な状況に追い込まれていました。
どうしても、この最終兵器を使って決着をつけたかったのです。
それには、首都である「東京」に原爆を投下させるのが、最も有効です。
敵国の首都を壊滅するのが、常道です。
これは、誰が考えてもそうなる結論です。
ドイツも、首都のベルリンが陥落して、降伏しました。
非人道的な最終兵器ですが、東洋人、日本人を、虫けらの如く思っていた米国人の結論も、同じでした。
まず1号機は、「東京に投下する」つもりでした。
さらに「広島」「長崎」と、投下予定地が決まっていました。
その情報は、総理大臣も務めたこともある、陸軍大将である東条英機の耳に入ります。
東京は度重なるB29の空襲で、焼け野原になっていましたが、さらに原爆を投下して、日本の息の根を止めるつもりでした。
B29の爆撃機には、重い原爆を積載するために、銃器などの全てを外していましたので、その周囲を戦闘機が何重にもガードして、B29を守っていました。
テニアン島から、東京に向けて原爆を積載したB29が飛び立ちました。
厳重に何重にもガードされたB29は、どうやっても今の東京防衛の空軍では、撃ち落とすことが困難でした。
何かとてつもない爆弾を積んでいて、東京に炸裂させるという情報を掴んだ東条英機は、急いで天皇陛下に謁見します。
太平洋上を飛行しているB29爆撃機を、「今すぐに、消して下さい!」と願い出たのです。
東条英機や日本の要人は、天皇陛下が、どのような霊力があるのかを、すでに知っていたことになります。
天皇陛下は、生まれた時から「現人神アラヒトガミ」として育ちました。
戦前までは、「天皇は神である」と日本人は認識していましたし、天皇自身も、「神」として育てられて、そのように思い込んでいました。
東条英機は、太平洋戦争が始まる前に、密かに「陰陽師呪詛部隊」を編成していたことが知られています。
日本に戦争を仕掛けた張本人であるフランクリン・ルーズベルト大統領は、この「陰陽師呪詛部隊」に呪詛をかけられて、死期を早めたとも言われています。
東条英機などの日本の要人は、神道の霊力や呪術・祝詞といったものが、物理現象を凌駕することを知っていました。
明治時代の「日ロ戦争」は、大国ロシアの世界最高の艦隊といわれていたバルチック艦隊を迎え撃つのに、どこで待ち伏せるのかに、日本の命運がかかっていました。
連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、久我山の神社の霊力の高い巫女のご神託で、「バルチック艦隊は対馬海峡から、日本海に入ってくる」というのを信じて、全艦隊を日本海に集結させて、バルチック艦隊を殲滅させました。
蒙古襲来があったときも、我が国の主だった神道および密教に関わる全ての霊力をもって、二度にわたる蒙古襲来を防いだとされています。
蒙古襲来には、台風という「神風」が吹いたから・・・とされていますが、最初の元寇のときは、11月です。
台風が、その時期に襲来することはありません。
また、二度目の元寇の時にも、蒙古軍は1か月以上も足止めを食らい、上陸できませんでした。騎馬で異常に強い蒙古軍を、上陸させなかったのです。
1か月以上も停留しているのであれば、台風は1度は2度は襲来しています。
しかし、記録によると、「神風」は日本の東側(関東から)から西側(関西、九州)へと吹き荒れたと―――と伝わっています(通常とは逆方向です)。
それにより、二度目の元寇でも、数千に及ぶ蒙古軍の艦船は、ことごとく沈没してしまったのです。
日本の主だった神道の神社、仏教の寺院も総動員して、「神風」を吹かせて日本を守り切った、とされているのです。
さて―――
日々、神道の祝詞を奏上して、日本および世界の平和を祈念している「現人神アラヒトガミ」の天皇陛下は、一度は東条英機の申し出を断ったといいます。
東条英機には、「戦争は決して起こすな」とクギを刺していたにも関わらず、開戦に踏み切った陸軍大将を、快くは思っていなかったとも思われます。
しかし、事態は急を要します。
「東京の民をお守りください!」東条英機にこのように言われて、天皇家に代々伝わる 聖徳太子が記したとされる、秘伝の祝詞が書かれている巻物の一巻を開き、そこに書かれている祝詞を唱えたと伝わっています。
その結果―――
東京に向かって原爆を搭載したB29は、周囲を護衛している戦闘機の前から忽然と消滅したのです。
異次元の世界に消え失せたのです。
護衛の飛行機は、周囲を懸命に捜索したそうです。
さらに終戦後も、B29の行方を捜索しましたが、見つかりませんでした。
これによって、東京に向かって原爆を投下するB29は、この3次元世界から消滅してしまい、東京は救われました。
この霊力を発動するために、天皇陛下は神がかり的祝詞奏上の後、意識不明の状態となって、1ヶ月以上も寝込んだといわれています。
そのため、原爆を搭載した二号機、三号機が「広島」「長崎」に飛来することは防ぐことが出来なかった―――このように言われています。
昭和天皇によって、「東京」は救われました。
さらに昭和天皇によって、日本国は救われています。
つづく
2020年4月20日記