≪ 日本のパワースポット 比叡山延暦寺1 ≫
この記事は、今から5年ほど前に書いたものです。
掲載の時期を逸して、今日まで残っていました。
いつかブログに掲載しようと思いながら、時が過ぎ去り、今に至りました。
その後、比叡山には行っていませんので、現状とは異なるものがあるかもしれません
(その点をお含み頂いて、お読みください)。
比叡山延暦寺は 現在の京都を 守る霊的守護の位置にあって、「平安京」のバリアとして創建された、とされています。
なぜ、京都「平安京」の霊的守護の役割を担ったのか―――
奈良の都「平城京」から、遷都して「平安京」が造営されたのですが、その前に 「長岡京」という都に遷都していた時期があったのです。
この「長岡京」は たったの10年間しか「都(みやこ)」とされていなかったのです。 それは―――
その造営を命じられた藤原種継が、反目勢力の大伴継人(おおともの つぐひと)の仕業によって、造営開始の翌年の785年に暗殺されてしまったことに始まりした。
桓武天皇はこれらの事件に関与したとして、大伴継人や、そのほか暗殺に加担した数十名を処刑しただけでなく、早良親王も捕らえたのです。
早良親王とは 桓武天皇の弟で、次の天皇は「早良親王」と決まっていたのです。
ですが、桓武天皇は自分の息子である安殿親王を 次期天皇にしたかったので、 この事件を利用したのです。
桓武天皇は 早良親王を失脚させるチャンスがやってきたとばかり、この暗殺の犯人を、早良親王に仕立て上げたのです。
暗殺の容疑者として捕まった男が、「大伴氏に命令され、早良親王の許可ももらった」と供述した―――とされたのです。
捕えられた早良親王は無実を訴えましたが、ひとことの弁明もできないまま、乙訓寺に幽閉されたのです。
乙訓寺に幽閉された早良親王は、一切の飲食を拒み、無実を訴え続けましたが、聞き入れられず、無実を証明するために断食を続けたのです。
が、しかし―――早良親王の無言の抗議も届かず、淡路島へ流されることになりました ところが、早良親王は淡路島に流される船の上で餓死してしまったのです。
無実の罪で流される怨念を抱えたままの 餓死でした。
そして早良親王が死んだので、桓武天皇は自分の息子である安殿親王を皇太子としたのです。
そして・・・・その後、この処分を命じた桓武天皇の周辺では、“早良親王の怨念”といわれる事件が相次ぐことになったのです。
怨念のはじまりは、この事件の翌年、桓武天皇の妻の母が亡くなったことに始まります。
そして、その翌年には、桓武天皇の妻本人が亡くなってしまうのです。
また、それに続き 天皇の母も病死してしまい、さらに桓武天皇の皇后も 原因不明の突然死をしてしまうのです。
桓武天皇は「これは早良親王の祟りに違いない」と、早良親王を埋葬した淡路島のお墓を綺麗に改造しました。
さらに、藤原種継の後を受けて都の造営を行っていた者たちが、雷に打たれて死んでしまうという事件が発生し、最後には伊勢神宮が何者かに放火されてしまうのです。
さらにまた、その年の秋から 都では天然痘が大流行し、都は死人だらけになっていったのです。
そして、最後には、長岡京に大洪水が押し寄せ、その後の衛生面の悪化ではありますが、当時は怨霊ということで 疫病が流行したのです。
『早良親王の怨念』は続きます。
息子の安殿親王が発狂してしまったのです。 桓武天皇は陰陽師に占わせると、「早良天皇の怨霊がとりついています・・・・」 と いわれたのです。
憔悴した桓武天皇は、家臣に早良親王の怨霊に陳謝させ、都を移すことにしたのです。
これが平安京―――現在の」「京都」です。
「平安」は、決して民のために思った「平安」ではなく、桓武天皇自身の願いだったのでした。
桓武天皇は平安京遷都の後も、早良親王の怨霊に悩まされ続けました。
そして、800年に早良親王に「祟道天皇」の称号を送りました。
本来なら天皇となるはずだった早良親王に「天皇」の称号を与えたのです。
が、早良親王の怒りは鎮まらず、桓武天皇は毎晩「早良親王の怨霊がやってくる・・・」と、怨霊に悩まされるようになったのです。
桓武天皇は 数々の早良親王の霊を沈める努力をしましたが、とうとう苦悶のうちにこの世を去っていったのでした。
このような 怨霊に悩まされ続けた桓武天皇が造営した 新たな都「平安京」には、様々な結界が張られることになったのです。
この遷都に当たり、陰陽師の占った「風水」によると、「玄武(北)に 山があり、青龍(東)に河川があり、朱雀(南)に湖沼があり、白虎(西)に大道がある」場所が都を造るのに最適といわれていたのです。
これらの条件を 平安京(京都)にまとめると、次のようになります。
玄武(北の方角の山)…船岡山 青龍(東の方角の河川)…鴨川 朱雀(南の方角の湖沼)…巨椋池(おぐらいけ) ※現在は埋め立てられており、存在しません。
白虎(西の方角の大道)…山陽道
この立地条件に当てはまったのが、平安京であったのです。
しかも、この4つの条件はいわゆる「結界(悪霊・怨霊から守る霊的なバリヤ)」の役目も果たしていました。
しかし、桓武天皇はそれだけでは新しい都を守る結界としては不十分と考えて、そのほかにも二重三重に結界を張り巡らしたのです。
その中の1つが、「天照大神」の弟「素戔嗚尊(スサノオ)」を平安京の周囲―――東西南北の四方に祀り、「大将軍」と名付けた神社を配置したのです。
次のものが 「大将軍」と名付けられた神社です。
さらに、平安京の「鬼門(古来より鬼が出入りするという悪い方角で北東のこと)」の方角に―――
さらに「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市坂本本町) を、平安京の鬼門の方角に設置したのです。
すべて神社仏閣を配置して 都の霊的守護を固めるためのものでした。
国家鎮護の道場として、比叡山寺は 次第に栄えるようになっていったのです。
延暦寺は、 比叡山の中にあって 「東塔」「西塔」「横川」の3つのエリアからなります。
東塔は延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域です。
伝教大師最澄が延暦寺を開いた場所であり、総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。
大講堂
内部
その上部には 天台宗に関わりのある高僧の肖像画がかかっています。
国の重要文化財に指定されているようですが、この空間の波動は低いです。
この画像の 左右の端に映る高僧のエナジーは、マイナス波動です。
この画像からは、どこに問題があるのかは把握されませんが、この空間の波動は高いものではないので、がっかりした記憶があります。
本尊(大日如来)は 霊的な垢がびっしりとついています。
それを取り除きますと 高波動が現われます。
本尊 大日如来
つづく
2020年10月27日記