≪ 日本のパワースポット 比叡山延暦寺 2≫
さほどの興味はなかったのですが、配偶者が「一度、行ってみたい」ということから、数年前に訪れました。
当時の記憶は全くありません。
すべて新鮮な面持ちで、比叡山を見て回りました。
比叡山は、「東塔エリア」「西塔エリア」「横川エリア」の3つから成っています。
修学旅行では、今回紹介する「東塔エリア」のみの見学だったことが判りました。
メインである「根本中堂」だけしか観ていなかったようです。
根本中堂
根本中堂
延暦寺を開いた伝教大師 最澄が、延暦7年(788年)に創建した一乗止観院が その元であるといいます。 最初は草庵であったということです。
ここの本尊は「薬師如来」です。
最澄が 一刀三礼して刻んだ「薬師瑠璃光如来」と伝えられています。 これは「秘仏」で、公開されていません。
その宝前に灯明をかかげて以来、最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので、不滅の法灯と呼ばれています(焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けたといいます)。
根本「中堂」という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになったということです。
この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、根本「中堂」という名前が残ったとされています。
比叡山延暦寺の中心であることから「根本中堂」といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物となっています。
根本中堂は何度も火事や戦禍によって焼失しています。
さて―――
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白川法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っています。
「山」とは当時、一般的には比叡山のことであり、「山法師」とは延暦寺の僧兵のことでした。 つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのです。
延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神興(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していたのです。
また、祇園社(現在の八坂神社)は 当初は興福寺の配下でしたが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺としたのです。
1070年には 祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認されていたのです。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っていて、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(その状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であったのです。
延暦寺の僧兵の力は 奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられていたのです。
延暦寺の勢力は、貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かしました。
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教です。
義教は 将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったのですが、還俗して将軍職について、就任後は比叡山と対立したのです。
1435年、度重なる比叡山制圧の機会に ことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首しました。
これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり 義教を激しく非難したのです。
しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺しました。
当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」などと記載されており、根本中堂の他にも、いくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われます。
義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して 数年のうちに竣工しています。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功しましたが、義教が後に殺されると 延暦寺は再び武装し、僧を軍兵にしたてて 数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻ったのです。
戦国時代に入っても 延暦寺は独立国状態を維持していたのですが、1499年、管領細川政元が、対立する前将軍足利義植の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰しました。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こしたのです。
1571年、延暦寺の僧兵4千人が、強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で、戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて、延暦寺を取り囲み焼き討ちしたのです。
これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。有名な比叡山焼き討ちです。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。
現在の根本中堂は、1571年、織田信長による焼き討ちの後、慈眼大師天海の進言により、徳川三代将軍家光の命によって、8年の歳月をかけて再建されたものということです。
1953年に国宝に指定されています。
坂道を登ると、まずこの門を潜ることになります。
慈覚大師円仁が 中国五大山の文殊菩薩堂に倣って創建したと伝えられています。
この画像には オーブが多く見えます。
初めて延暦寺に来て、高波動のレベルのエリアに触れ合いました。
内部の階段
中に入ると急な階段があります。
ここを登ると 本尊のあるエリアがあります。
本尊
ここが文殊桜の本尊です。
ここの波動は良好です。
本尊のある仏壇
この像は生きています。
1937年(昭和12年)に建立された比較的新しい堂です。
信徒の先祖回向のための道場ということです。
一般人の回向法要もするようです。
本尊は「阿弥陀如来」です。
真言密教ですから「大日如来」が本尊となりますが、浄土宗系の「阿弥陀如来」が なぜ本尊なのかは―――円仁が関わるからだと思われます。
円仁―――838年遣唐使として 唐に留学しています。
この円仁が 中国で五会念仏を学び、それが基となって 比叡山において 「天台浄土教」の発祥となっています。
阿弥陀堂の内部
内部は霊的な垢にまみれています。
この空間の波動は 低いです。
回向に訪れる方々の、霊的な垢が充満しているようです。
このような霊的垢を浄化できないようでは・・・・「?」と、思われます。
本尊の「阿弥陀如来像」に 霊的な垢が、びっしりとこびりついていますが、それを払いのけると―――高波動の本来のエナジーが出現します。
浄化した後の内部
この画像は、本尊の「阿弥陀如来像」に 霊的な垢を取り除いたものです。
この状態にしてセットしますと、堂内の波動は上昇します。
つづく
2020年11月10日記