生命体エナジー浄化の会ブログ

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忠臣蔵の裏を追跡する

《 忠臣蔵の裏を追跡する 》

 

 我国における武士道とは何かーーーという問いの典型的な答えの一つとなっているものに、「忠臣蔵」があります。

 

亡き主君の恨みを晴らすために、47士(実際には48士)が吉良邸に押し入り、吉良上野介の首を取り、本懐を遂げて、主君の墓前に奉納して、全員が切腹しました。

 

年末になると、必ず「忠臣蔵」が画面に流れます。

幾度見ても、そのストーリーは細部まで見知っているのに、感動に包み込まれます。

 

主君に忠義を誓い、主君の恨みを、その忠臣が晴らしてくれる物語は、江戸時代から繰り返し上演され、映画化され、ドラマ化されてきました。

 

我々日本人なら、幾度見ても飽きることのない「忠臣蔵」に感動してきました。

しかし―――

 

この「忠臣蔵」には、徳川幕府の隠された秘密があって、「忠臣蔵」の陰の主役は、大石内蔵助ら忠臣47士ではなくて、徳川幕府である―――とする書物に出会いました。

 

少し驚いて、大石内蔵助の「霊」を呼び出しました。

 

以下、その大石内蔵助の「霊」との対話です(信じなくても構いません)。

 

Q,あなたは、「忠臣蔵」の主役となる大石内蔵助ですか?

A.大石内蔵助だが、「忠臣蔵」は解らない。

 

Q.浅野内匠頭の家臣で、吉良上野介の首を取った浅野家の家老だった大石内蔵助ですね。

 

A.そうだ。大石内蔵助である。

 

Q. 吉良上野介の屋敷に踏み込むことは、江戸幕府は了解していたのですか?

 

Å.そうだ。江戸幕府は了解していた。

 

Q.吉良邸に押し入り、吉良上野介の首を取り、本懐を遂げるのは、すべて徳川幕府の指図で行ったのか?

A.いや、徳川幕府は、我々が吉良邸に押し入ることは知っていた。

だが・・・幕府の意向で行ったのではない。すべて、我々だけで本懐を遂げた。

 

Q,なぜ、徳川幕府は、吉良邸に押し入ることは知っていたのか?

A.私が京都の山科にいた時に、幕府の密偵と名乗る人物が来て、内密で吉良邸に押し入ることを手助けしたい、との申し出があったからだ。

 

Q,その密偵は、徳川幕府の意向を汲んでいたのか?

A、そうだ。老中のある人物の意向であり、このことは決して同志にも漏らさぬようにと固く口止めされていた。武士に二言はなく、このことは固く伏せていたが、内密で手助けしてもらったことはある。

 

このような「霊」とのやりとりがありました。

このことから・・・「やはり、忠臣蔵の背後には、徳川幕府がいるのでは・・・」との思いが強まりました。

 

 

さて―――その書物ですが、『日本史の謎は 地形で解ける』で、著者は竹村公太郎氏です。

 

著者の竹村公太郎氏は、東北大学土木工学科を出て、建設省に入り、日本全国のダム建設などに関り、「地形」「気象」「下部構造(インフラ)」の視点から日本の歴史を読み解いている人物です。

 

私は、その他にも『日本史の謎は 地形で解ける』など、他のシリーズ数冊を購入しています。

 

さて、『日本史の謎は 地形で解ける』から、竹村氏がなぜ、「忠臣蔵」の背後の謎を追跡していったかということを、紐解いていきたいと思います。

 

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『名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込』

 

この歌川広重の画像には、山王祭りのときに、江戸城にねり込むときのものです。

江戸城には、元は太田道灌が祀っていた山王神社があり、家康も江戸城の守り神として「山王神社」を祀っていました。

 

しかし、明暦の大火で消失します。

その後、赤坂に移設されて、現在は「日枝神社」と呼ばれています。

 

竹村氏は、この歌川広重の浮世絵『名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込』には、今と同じ半蔵門が描かれていることから、「なぜ!?」との疑問を持ちます。

 

「地形」の専門家は、今の半蔵門は、門まで土手が築かれています。

ふつう城の城門は、敵の侵入を阻止するために、橋を架けます。

 

いざというときに、橋を落として外敵の侵入を防ぐようにするためですが、現在の半蔵門は、次のように、土手に築かれていて、簡単に外敵が侵入することが出来る地形となっています。

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半蔵門の画像

 

竹村氏は、『名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込』を見て、江戸時代から半蔵門は土手が築かれていたことを知ったのです。

 

しかも、どの資料にも、半蔵門は、江戸城の「裏門」「脱出用の門」と表記されています。

江戸城の構図では、「大奥」はこの半蔵門近くにあり、そこを守護していた服部半蔵の名前から「半蔵門」となっています。

 

江戸城五街道が直結しているのは「半蔵門」だけで、甲州街道に繋がっています。

他の東海道中山道、奥州道、日光街道は、江戸城には直結していません。

 

江戸城の「裏門」「脱出用の門」とされる「半蔵門」は、両陛下が出かけるときにお使いになります。

 

我々は、皇居といえば「二重橋」が正門であり、あるいは「大手門」が公式の正門であると思っています。

 

二重橋」は、外国からの賓客や正月の一般参賀の時に使われます。

また、各界の要人が皇居を訪問するときには「大手門」が使われます。

 

ではなぜ、両陛下は裏門である「半蔵門」をお使いになるのか。

 

二重橋」や「大手門」の反対側にある「半蔵門」が、もしかしたら「正門」なのではないか、と竹村氏は疑問を持ちます。

 

竹村氏は、江戸時代の古地図を探し、それを見ますと、「御城(おしろ)」と書かれた位置から、甲州街道から入る門―――つまり、「半蔵門」が正式な「正門」であるとの確信を持つに至ります。

 

二重橋は、明治になって築かれた「石橋」で、江戸時代は「木橋」でした。

 

そして、江戸時代の歌川広重の「名所江戸百景」にも、半蔵門の土手があることから、当時から「橋」ではなくて、「土手」に繋がる「門」であることを知ります。

 

城には、敵の攻撃を防ぐために「堀」があり、必ず城内に入るには「橋」があって、橋を渡る構造になっています。

 

それが堅牢な「土手」になっているのは、敵なら必ずこの「土手」から城内に攻め込んできます。

 

江戸城が構築された当時でも、徳川家康は絶対的に安泰ではありませんでした。

秀吉の指示で江戸に配置換えされて、秀吉の死後も、大阪城には秀頼が健在でした。

 

つまり、ここから敵が侵入するには、簡単には接近できないほど厳重な警護体制が取られていたことになります。

 

そう確かに、半蔵門から左右に広がるエリアには、江戸時代から譜代の大名屋敷や幕府の重要な要職を司る人々が暮らしていました。

 

旗本八万騎といわれましたが、一万石以上の大名や御家人の総数では、およそ8万となります。

 

半蔵門近くの麹町には、一番町、二番町があり、それは旗本一番隊、二番隊など徳川将軍の親衛隊が居住する空間でした。

 

さらに周辺には、徳川御三家上屋敷親藩の屋敷がありました。

 

四谷見附の外堀には、尾張家や井伊家の中屋敷、現在の上智大学には尾張家の上屋敷、ホテル・ニューオータニ、赤坂プリンスホテルには、井伊家の上屋敷、内堀近くには、松平家、京極家が配置されていました。

 

外部から、不定な輩が侵入することは、きわめて難しいエリアでした。

 

ところが―――その「半蔵門」近くの、江戸城の「正門」にあたる周辺に、「忠臣蔵」47士(実際には48士)のうち、16人が「麹町」に潜伏していました。

 

なぜ、江戸時代の最も警戒の厳重なエリアに、16人もの人物が潜伏することができたのか―――?

 

このことが「忠臣蔵」を再考する起点となりました。

 

麹町にある「平河天満宮」の近くに、赤穂浪士が潜伏していました。

「平河天満宮」とは、菅原道真公と東照宮、つまり徳川家康の相神が祀られるところです。

 

江戸城の守り神となっていて、幕府にとっても大切な聖地です。

その幕府の聖地でもある「平河天満宮」の近くにーーー

 

代表の大石内蔵助の副官である吉田忠左衛門、武闘派急先鋒の原惣右衛門など、赤穂浪士の三分の一もの人物(16人)がいたことになります。

 

竹村氏は、「半蔵門(正門)」周辺の厳戒区域では「通常ではありあえない」ことから、幕府の手引きがあったのではないか―――このように飛躍した解析をしています。

 

私が、大石内蔵助の「霊」を呼び出して、「老中のある方の、密偵の意を受けた」との反応からも、このことは納得できるものでした。

 

忠臣蔵データファイル』によりますと、元禄15年(1703年)の12月の討ち入りの4か月前、大石内蔵助は京都で、同志たちに「討ち入り決行」を宣言します。

 

お取り潰しとなった浅野家再興の望みが絶たれ、「もはや・・・これまで!」と、吉良邸討ち入りの詳細を取り決め、日本橋、本所、両国などに、決行の年の9月から10月にかけて、三々五々江戸市内に潜伏していきました。

 

なぜ?「平河天満宮」の近くに、赤穂浪士が潜伏することができたのか?

 

大石内蔵助の「霊」は、(副官の)吉田忠左衛門を通じて、幕府の密偵と名乗る人物の手助けで、その界隈に潜伏することができたからであるーーーと反応を示しました。

 

これが、もし事実であるならば、「忠臣蔵」の背後には「徳川幕府」がいて、その意に従って吉良邸の討ち入りが行われていたことになります。

 

では、なぜ? 徳川幕府は、吉良上野介を排除したかったのか―――その背後に迫らなければ、「忠臣蔵」の真相は解き明かすことができないようです。

 

                    つづく

 

                   2021年3月23日記