《 忠臣蔵の裏を追跡する その2 》
この疑問は、『日本史の謎は 地形で解ける』の著者、竹村公太郎氏は、明快に答えを示しています。
これには、徳川家康と高家(こうけ)である吉良家の関係から紐解いていく必要があります。
まず、元禄15年(1703年)の12月の討ち入りの4か月前、大石内蔵助は京都で、同志たちに「討ち入り決行」を宣言した丁度その頃に、願ってもない出来事が起こっていました。
それは―――吉良邸の移転です。
吉良上野介の屋敷は、高家(こうけ)であるので、東京駅八重洲口近くにありました。
これは江戸城の郭内に位置します。それがーーー
赤穂浪士討ち入りの年に、徳川幕府によって、突然移転が命じられました。
吉良上野介にとっては、青天の霹靂と言っていいほどの衝撃だったと思います。
本所に移転と決められた当時、両国橋を渡った先(本所)は、まだ人影も少ない簡素な土地でした。
吉良邸は、本所の無縁寺・回向院の隣に移転しました。
武蔵の国(江戸)と下総の国(千葉)を渡す両国橋は、200年後の浮世絵で見るような賑やかな情景ではありませんでした。
赤穂浪士が吉良邸討ち入りを果たすには、恰好な条件が揃ったことになります。
つまり、徳川幕府は「吉良を排除したかった」という思いが伝わってきます。
主君の恨みを晴らし、お家断絶にされた浅野内匠頭の相手である、吉良上野介の首を打ち取りたい赤穂浪士にとって、徳川幕府は願ってもないお膳立てを備えてくれたことになります。
なぜ、吉良邸の移転が決まり、赤穂浪士が吉良邸討ち入りをしやすくさせたのかは、高家の吉良と徳川家康の「過去のいきさつ」がありました。
この背後を知らない限り、徳川幕府が高家の吉良上野介の排除を画策して、赤穂浪士に吉良邸討ち入りを決行させたのかは解りません。
話は前後しますが―――
江戸城中 松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた前代未聞の刃傷事件は、直ぐに浅野内匠頭切腹、吉良にはお咎めなしの判断が下されました。
赤穂藩の浅野家にとっては、「喧嘩両成敗」が基本法であるのに、なぜ吉良上野介には「お咎めなし」なのか、納得できませんでした。
その背後には、大老に匹敵する位置に在る側用人の柳沢吉保(よしやす)がいて、幕閣の意をはねのけて、将軍徳川綱吉の意向に沿って、即断で浅野内匠頭切腹を命じたといわれています。
将軍徳川綱吉とは、「生類憐みの令」を出した「犬将軍」です。
時は元禄時代で、文化の最興隆期です。
側用人柳沢吉保は、18歳で徳川綱吉の小姓となり、その寵愛を受けて、出世を重ねます。
1万2千石の大名になったのを皮切りに、加増を重ねて、ついには甲府藩15万石に上り詰めます。
しかも徳川一族で支配していた甲府を領地としていました。
これは異例のことです。
浅野内匠頭切腹によって、浅野家はお取り潰しとなり、赤穂浪士が生まれました。
なぜ、そのような判断を下したのか―――
将軍徳川綱吉は、母の桂昌院を、女性としては最高位の「従一位」に叙せるように、柳沢吉保を通じて、「高家(こうけ)」の吉良上野介に、朝廷との間を取り持っていただけるように図っていました。
「高家(こうけ)」とは、朝廷と幕府の間を取り持つ役目で、吉良家は足利幕府の血縁であり武家社会の名門であったのです。
吉良上野介は、徳川綱吉の母・桂昌院を、「従一位」に叙せるように朝廷に取り計らっているときに、殿中松の廊下で刃傷事件が勃発したのです。
このことが背後にあったので、吉良は殿中では小刀を抜いていないから「喧嘩両成敗」には当たらない。よってお咎めなしとなったのです。
元禄15年の12月に赤穂浪士の吉良邸討ち入りが決行されますが、その年に徳川綱吉の母・桂昌院は、最高位の「従一位」に叙せられていました。
この目的が達成されましたので、高家(こうけ)の吉良上野介は「もはや、用なし!」となりました。
それで、赤穂浪士が討ち入りしやすい本所に移転を命じた、と思われます。
そうなると、赤穂浪士の討ち入りの情報を知り、それを背後で取り計らっていたのは―――側用人柳沢吉保ではなかったのか・・・・
このような思いが湧いていきました。
柳沢吉保の「霊」を呼び出しました。
Q,あなたは、柳沢吉保なのか?
Å、そうだ。私は柳沢吉保である。
Q. あなたは、お家取り潰しとなった「赤穂藩の浪士」達が、吉良邸に打ち込み、浅野内匠頭の仇を打つのを知っていて、背後でそれを動かしていたのか?
A、いや、私は一切指示はしていないが、密偵を使って、「赤穂藩の浪士」達が行動しやすいように指示は出していた。
Q,京都にいた元赤穂藩の家老の大石内蔵之介に、手助けをすると密偵を使って指示をしていたのではないのか?
A,そうだ。密偵を使って、内密でそのことを申し出ていた(事実である)。
Q、赤穂の浪人が、江戸市内に集まって来て、吉良邸討ち入りの決行をするのに、浪人たちが行動しやすいように、密偵を使って背後で操っていたのですか?
A、そうだ。麹町周辺に集めたのも、私の指示によるものだ。
Q、赤穂の浪人(浅野家の元家臣たち)が、吉良上野介を打ち取る算段をしたのも、あなたなのか?
A,いや、それは違う。浅野家の元家臣たちが、主君の敵討ちを画策していることは、浅野家お取り潰しをした当初から知っていた。
だから、大石内蔵介に手助けすると密偵を使って申し出ていた。
決行したのは、浅野家の元家臣たちで、私は関与していない。
Q,なぜ、吉良上野介を排除したかったのか?
その真意は、どういうことなのか?
A、それには、ひとことでは言えないほどの、過去からの経緯(いきさつ)がある。
このあたりで、「霊」は消えましたので、詳しい事情は探り出せませんでした。
しかし、今まで書かれてきた「忠臣蔵」の書物には、
江戸幕府にとって、「高家」である吉良家は目障りであった、というのは事実であるようです。
しかも、吉良上野介は、徳川幕府にとっては「外様大名」である米澤の上杉藩や、鹿児島の島津藩と次々と姻戚関係を結んでいったことも、悪府にとっては面白くない事であったようです。
しかし、これについては本の著者の竹村氏は、江戸幕府初代将軍の徳川家康の時代から、吉良家との因縁を紐解いています。
江戸幕府にとって、「高家」である吉良家は目障りであった、という点については、他の多くの「忠臣蔵」の書物でも指摘されています。
だが、『日本史の謎は地形で解ける』の著者竹村公太郎氏は、別の視点から徳川家康の松平家の100年間に渡る、吉良家への恨みが込められていた、として歴史の謎解きをしています。
吉良家は、足利幕府の血を引く武家社会の名門でした。
吉良上野介は、朝廷と徳川幕府との間を取り持つ「高家(こうけ)」とう要職にありました。
徳川家康の岡崎・松平家は、吉良の領地の上流に位置していました。
矢作川の下流に位置していた吉良の領地は、矢作川の運ぶ土砂が堆積して、新たな干拓地が出来ると、それを塩田として利用していました。
つまり、矢作川の恩恵を受けて、干拓地の塩田から農地へと、領地を広げていったのです。
ところが、古地図によると、1600年以降、吉良の領地は広がっていませんでした。
なぜか?
徳川家康が、矢作川の放水路を整備して、吉良領への土砂の流れをせき止めてしまったからなのです。
この吉良領とは、ここから今川義元が世に出てきて戦国大名の名門となっていたのです。
この今川家の人質となっていたのが、徳川家康です。
織田信長の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、岡崎の松平家に帰ります。
こうして松平家の徳川家康は、強大な戦国大名となって行き、矢作川下流の吉良領に攻め入り、自分の部下とします。
それが、江戸幕府を起こした当時から、吉良家は「高家(こうけ)」としての要職についていたのです。
しかし、吉良家から出た足利幕府の名門である今川家への家康の恨みが、徳川家には心底に残っていたので、
徳川家康は、1600年の関ヶ原の戦いの4年後には、矢作川の吉良領への領土拡大に貢献する流れをせき止めて、自国の領土に塩田を広げる放水路を整備したのです。
なぜ、関ヶ原の戦いで天下を掌握した家康が、直ぐに矢作川の治水工事をしなかったのかは、竹村氏は「それは、徳川家康は征夷大将軍の称号を得るためにである」とみています。
「高家(こうけ)」の筆頭である吉良家は、朝廷との結びつきが強く、吉良家からの朝廷への働きかけが必要でした。
関ヶ原の戦いで天下を掌握しましたが、「征夷大将軍」という武家の棟梁としての「位」が必要でした。
徳川家康は、朝廷の天皇から「征夷大将軍」に任命されるのを、ひたすら待ち続けていました。
それは3年に及びました。その間、家康は行動を起こしませんでした。
朝廷と縁のある足利幕府の血を引く名門の吉良家の働きで、「征夷大将軍」に任命されるまでは、我慢の3年間でした。
この官位を頂くことが出来たので、吉良家への温情は必要なくなり、矢作川の流れを変えてしまったーーーというのです。
大阪城の冬の陣、夏の陣で、豊臣家を滅亡させるには、味方になる武家の棟梁としての「位」が必要でした。
「征夷大将軍」に任命されていたので、徳川方に多くの大名が従っていたのです。
ところが、「征夷大将軍」については、まだ続きがあります。
家康は、1603年に「征夷大将軍」に任命されると、直ぐに隠居します。
そして、吉良家に働きかけて、息子の徳川秀忠が「征夷大将軍」に任命されるようにします。
そして、息子の徳川秀忠が「征夷大将軍」に任命された年の1605年に、「高家」の吉良家を「もはや用無し!」と、矢作川の工事に着手したのです。
つまり、家康からその子供の秀忠に「征夷大将軍」が移ったということは、今後は徳川家が代々「征夷大将軍」を世襲するということを意味していました。
これにより、吉良家の領地が広がることはありませんでした。
さて―――
大石内蔵介の副官であった吉田忠左衛門は、赤穂浪士16人と共に、麹町周辺に潜伏していましたが、誰の手引きであったのかを確かめるために、「霊」を呼び出しました。
Q、あなたは、浅野家家臣であった吉田忠左衛門なのか?
A、そうだ。吉田忠左衛門である。
Q,半蔵門に近い地域に潜伏したのは、どうしてなのか?
A、幕府要人の「密偵」と名乗る人物が、すべて潜伏先の手配をしてくれたからである。
Q,その幕府要人とは、誰なのか?
A、詳しくは、判らない。
Q,その情報を、信じて行動していたのか?
A、そうだ。確かに情報通り、吉良邸は本所に移転していたし、正しい情報を知らせてくれていたので、我々はその密偵の言うことに信頼を寄せていた。
このようなやり取りがありました。
こうして、「忠臣蔵」で語りつくされているように、吉良上野介は赤穂浪士47士(実際には48士)は、本懐を遂げます。
そして、徳川幕府の100年に及ぶ吉良家への復讐劇の幕が切って落とされたのです。
つづく
2021年3月30日記