《 忠臣蔵の裏を追跡する その3 》
徳川幕府は、吉良家の排斥を狙っていました。
徳川家康の時代から、吉良家から出た今川義元の人質となって、長い年月辛苦を耐え忍んでいた家康は、今川が滅ぶと、吉良を徳川の家来とします。
朝廷との縁が深く、足利幕府の血を引く吉良家の仲介で、念願の「征夷大将軍」の称号を手にすると―――
矢作川上流の領土の岡崎の徳川家康(松平家)は、積年の恨みを晴らすように、下流の領土で矢作川の恩恵を受けていた吉良家の領土を広げないために、矢作川の流れを変える工事をしました。
さらに元禄年間に入り、将軍綱吉の母・桂昌院を、女性としては最高位の「従一位」に叙せるように、柳沢吉保を通じて、「高家(こうけ)」の吉良上野介に、朝廷との間を取り持っていただけるように図っていました。
その目的が達成された年に、吉良家の本所への移転命令を出して、赤穂浪士達が吉良邸討ち入り達成を、成就しやすいようにしていました。
5代将軍の徳川綱吉の側用人である柳沢吉保が、その背後で暗躍していました。
柳沢吉保の密偵が、赤穂浪士の背後でサポートしていたようなのです。
この時代、徳川家の密偵は全国津々浦々に潜伏していました。
何か事が起こると、「お家取り潰し」「減俸」「蟄居」「配置換え」などの幕府からの「改易」のお達しが出ていました。
徳川幕府は、全国に密偵を放っていて、各地の情報を得ていたのです。
城明け渡しでも、頑強に抵抗した例があるからです。
このような情報を掴んでいましたので、赤穂藩の浪人たちが、主君の敵討ちを画策しているという情報は、幕府は掴んでいたようなのです。
江戸時代初期、つまり3代将軍の家光までに、大名廃絶は、外様大名82家、親藩・譜代大名49家が改易されていました。
徳川幕府は、諸大名の改易で、自分の領地を増やし、敵対する勢力を悉く葬っていました。
全国に密偵を放っていて、詳細な情報を掴んでいたのです。
赤穂浪士が吉良邸討ち入りの報が、吉良上野介の息子である米沢藩上杉家の当主、上杉綱憲(つなのり)に伝わりますと、すぐさま父、吉良上野介を救うために、応援の武士を吉良邸に派遣します。
そうなればーーー市中を乱した罪により、「お家お取り潰し」の口実を幕府に与えることになります。
江戸幕府は、それを見越していました。
上杉綱憲(つなのり)は、赤穂浪士討ち入りの報が入るや、直ぐに駆けつけるものとして、そのチャンスを待っていました。
だが、「忠臣蔵」の数多くのドラマでは、吉良上野介の息子、上杉綱憲(つなのり)が、米沢藩の家来を派遣することを、藩の重臣が押し留めるシーンがあります。未然に防いだのです。
米沢藩上杉家は、上杉謙信を祖とする名門で、謙信の後を継いだ上杉景勝は豊臣秀吉の信任も厚く、会津120万石となります。
関が原では、豊臣側についたことから、米沢30万石に減封となります。
さらに世継ぎがいないことから、吉良上野介の息子、上杉綱憲(つなのり)が米沢藩当主になる条件に、さらに15万石に減封されます。
余談ながら、120万石から15万石まで減封されても、配下の家臣たちを解雇しませんでした。
それで藩財政が破綻寸前となります。
それを10代藩主の鷹山公が、質素・倹約、学問の奨励、殖産興業に取り組み、藩を救います。
さらに余談ながら、豊臣秀吉の死後、会津120万石の上杉景勝は、江戸の徳川家康の背後に控えていました。
徳川家康が上京するのに、背後にいた上杉を警戒して、いちゃもんをつけています。
これに対して臣下の直江兼続(なおえかねつぐ)が、徳川家康に世にいう「直江状」を書き送り、家康を激怒させています。
120万石から30万石に減封されて、米沢の地に改易されましたが、米沢藩では、藩祖上杉謙信が「女性」だった事実を幕府に知られると、改易の口実を与えることになりますので、全ての痕跡を消し去ったようです。
藩主は男性に限るとされていたからです(これについては、当ブログでも載せています)。
さて―――
赤穂の浪人が、主君の敵討ちのために、自分の人生を犠牲にして成し遂げようとした背後には、儒学者であり軍学者だった「山鹿素行」の存在がありました。
しかし、赤穂藩を辞して、江戸にもどると、幕府の学問である「朱子学」を批判する著書『聖教要録』を著しました。
これは、幕府を批判することであるとして、3代将軍家光に使え、4代将軍家綱の後見人である保科正之により、赤穂藩での謹慎を言い渡されました。
こうして軍学者の山鹿素行は、赤穂藩に20年間のいたことになり、赤穂藩は山鹿流軍学を採用して、赤穂藩士に多大な影響を与えていたのです。
赤穂浪士が吉良邸討ち入りの時に、「山鹿流陣太鼓」を鳴り響かせていたのは、「忠臣蔵」で有名です。
主君の仇を打つという武士道の背後には、「山鹿素行」の儒学が生きています。
では、側用人柳沢吉保や5代将軍の徳川綱吉の、徳川幕府の祖・家康の代からの吉良家への復讐劇はどうなったのか―――
これは、見事に成就されました。
家康から5相将軍まで、100年間に及ぶ屈折した吉良家への復讐劇は、吉良家抹殺という結果になりました。
どういうことなのか。
まず、米沢藩藩主の上杉綱憲(つなのり)は、父吉良上野介を救えなかったことを悔やみ、1年後に悶死します。
さらに、実孫の吉良佐兵衛は、吉良家の跡取りでしたが、赤穂浪士討ち入りの際に深手を負います。
「気絶するまで戦った」のですが、徳川幕府は「吉良上野介を救えなかった」といいがかりをつけて、吉良家を断絶させて、領地も没収します。
吉良佐兵衛は、信州に流罪となり、幽閉されて亡くなります。
ここに吉良家の血筋は絶えました。
一方、赤穂浪士はどうなったのか。
浅野家は、お家お取り潰しになりますが、その後、幕府により復活します。
赤穂浪士の18名の子息たちも、謹慎を命じられますが、その後全員許されて、父以上の高禄で諸藩に召し抱えられます。
赤穂浪士47士(実際には48士)が吉良邸討ち入り後、吉良上野介の「首」を掲げて、主君浅野内匠頭が眠る「泉岳寺」に行き、墓前に報告します。
その後、幕論は真っ二つに別れます。
「主君の仇を取った忠臣なので、助命すべき」であるという立場の細井広沢などは、赤穂浪士を支援します。
主君の恩に報いる今の世に必要な行動である、と助命に動きます。
一方、荻生徂徠は「忠臣であるからこそ、切腹させて、後世に伝えるべきだ」という立場です。
断を下したのは、柳沢吉保に仕える儒学者の荻生徂徠と云われています。
全員に切腹が言い渡されて、今でも赤穂浪士47士の墓は、主君の浅野内匠頭が眠る「泉岳寺」にあります。
「泉岳寺」とは、徳川幕府の開祖・徳川家康が創建したお寺です。
しかも、赤穂浪士47士が吉良邸討ち入り後、泉岳寺まで通行するのに、幕府からの尋問も何も受けずに辿り着いています。
映画やドラマでは、「忠臣蔵」のクライマックスですが、何もお咎めを受けることもなく、簡単に市中を返り血を浴びた服装で通れるなど、取り締まりの役人達があらかじめ承諾していたことを裏付けています。
こうして―――「忠臣蔵」と徳川家の吉良家への100年に渡る復讐劇は、日本人の美談として語り継がれていくことになりました。
了
2021年4月6日記