《 三浦半島のパワースポット巡り その2 》
走水神社(はしりみずじんじゃ)
走水神社は、三浦半島の東端にあり、眼下に東京湾を見下ろせる場所にあります。
創建年代などは、火災で焼失しているために明らかではありません。
伝承(日本書記)では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、父である景行天皇から東征の命を受けて、ここ三浦半島から対岸の房総半島に渡るときに、走水の村人に「冠」を与え、それを石櫃(いしびつ)に納めて社殿を建て、それを祀ったといいます。
その房総半島に渡るときに、日本武尊(やまとたけるのみこと)の乗った船が大しけで、沈没しそうになります。
その危機を、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が自ら海に入って海神の怒りをおさめ、命を絶ちます。日本武尊は無事に房総半島に渡ることができました。
妻の弟橘媛命は、夫を助けるために自ら犠牲になった伝説は、そのときの「櫛(くし)」が流れ着いたことから、「袖ヶ浦」「袖ヶ浜」の地名が生まれました。
また、弟橘媛命の「櫛(くし)」は、走水神社近くに御所が浜にも流れ着いて、弟橘媛命を御祭神とする「橘神社」を創建しました。
明治18年に「橘神社」は軍用地となり、走水神社に移設されて、明治42年に合祀されています。
走水神社は、地元横須賀出身の小泉元首相などが参拝しています。
また、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏が、走水神社を紹介したため、紹介後参拝者が増加したといいます。
走水神社の入り口の鳥居です。
これが最初の鳥居となります。
「結界」が敷かれています。
次の鳥居は、何だかよくわかりませんが、簡素な造りの鳥居です。
「結界」はありません。
この参道を登ります。
自ら身を捨てて、夫の日本武尊(やまとたけるのみこと)を海神から救った弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の像が彫られています。
浦賀水道での、船の航行を守るための碑です。
同じものがもう一つあります。
航海の安全を祈念して、1975年に建てられています。
「走水神社」です。
祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)です。
神社の内部です。
祭神は、反応を示しません。
本殿を過ぎて、さらに上に向かいます。
「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の記念碑」とあります。
明治43年に、「東郷平八郎」「乃木希典」の日露戦争の英雄ら7名士が建立したとあります。
「別宮」です。
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)と共に運命を共にした女官を祀っています。
海が見えます。走水の港です。
ここから、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東征のために房洲半島に渡ったということになります。
さらに上に登っていきます。
私もカネゴンの後を追います。
「神明社」とあります。
この鳥居の先には、左から「諏訪神社」「神明社」「須賀神社」となります。
「諏訪神社」には、建御名方神(たけみなかたのかみ)が祀られています。
「神明社」には、天照大御神(あまてらすおほみかみ)が祀られています。
「神明社」
ここの波動は高いので、我々は感謝の祈りを捧げました。
「須賀神社」
特に波動は高くはないです。
スサノオノミコトも、何も反応しません。
「諏訪神社」
同じく、特に波動は高くはないです。
建御名方神(たけみなかたのかみ)も、何も反応しません。
「神明社」の中には、このような祠があり、ここに「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)」の「神的エナジー体」が鎮座しています。
天照大御神(あまてらすおほみかみ)が祀られている、ということですが、天照大御神様のエナジーは、感知できません。
波動は高いです。
身体を包み込んでくれるようなエナジー体です。
これは、「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)」の「神的エナジー体」と我々は感得しました。
さらにその先に進みます。
アジャリンコが、トボトボと歩いていきますと・・・・
このような、何の変哲もない石碑がありました。
しかし・・・何か強烈なパワーを持っていました。
この地に鎮まる「産土(うぶすな)の神」のようです。
ヒトが抱える「メンタルストレス」を解消してくれるように反応します。
ヒトは、様々な「メンタルストレス」を、臓器を通して前頭葉に反射しています。
何かの悩み事があって、体軸が崩れているようであれば、この画像と向き合っているだけでも、身体は整ってくると思います。
この後、まだ去りがたく、再び「神明社」に戻りました。
「神明社」に、持参のブレスレットをおいて、「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)」の「神的エナジー体」を吸引しました。
このエリアにしばら留まると、優しいエナジーに包まれて、身体が整ってくると思われます。
深く感謝の意を捧げました。
「優しいエナジーで包んで頂きまして、ありがとうございます・・・・」合掌
「奉献 露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官 男爵上村彦之丞 明治四十三年」とあります。
日露戦争の時に、敵国ロシア製の機雷で、戦利品のようです。
水神社
「河童の恩返し」の看板には、
「走水古老の話」として
「この神社の裏山の清流に、多くの河童が棲んでいて、中にはいたずらをする河童もいたので、村では困り果てていたところ・・・。
ゴーっという地鳴りと共に、大きく揺れだしたといいます。
「津波が来るぞー」と「船を上げて、神社の裏山に逃げろ」と、村は大騒ぎになったといいます。
この時、河童達は「村人に日頃迷惑をかけているのだから、村を救おう」と、山頂から大きな岩を海岸まで運び、堤防を造ったというのです。
河童達は海に潜り、海に入り懸命に大岩を押さえたといいます。
ですが・・・・大津波が襲い、全ての河童が亡くなったと伝わります。
これにより村は救われましたので、以後「河童の恩返し」として後世に伝えているのです」
このように書かれていました。
こうして、神社を後にして、次の目的地「叶神社(かのうじんじゃ)」に向かいました。
つづく
2021年12月28日記