≪ 羽生結弦選手は呪詛を受けていた ≫
今回の北京オリンピックで、金メダル候補とされていた羽生結弦選手は、フリーの演技で前人未踏の「4回転半」(クワッドアクセル)に挑み、残念ながら4位という結果に終わりました。
ただ、公式に審判には「4回転半・片足着地」(クワッドアクセル)として、チャレンジしたことが認められました。
彼のコーチだった男性(80歳)は、
「私が生きているうちには、誰も成し遂げられないだろう・・・」と言っていました。
ただ、
「彼(羽生結弦)なら、その可能性はある。
彼の細身の身体が、その可能性を秘めている・・・」
このように語っていました。
そして―――羽生結弦選手本人も
「これが、成功したら・・・・異次元の世界が開ける・・・かも・・・」
と、語っていました。
だがしかし、
ショートプログラムの演技では、溝にスケートの刃が引っ掛かり、ジャンプを跳べず、そのために8位と出遅れました。
その後の練習でも、幾度も「4回転半」(クワッドアクセル)に挑み、転倒を繰り返していました。
その場面を映像で見て、足首などは痛めないのか心配していました。
しかし、フリーの最終演技が終了して4位となった翌日に、私の講座で、改めて羽生結弦選手をチェックしました。
やはり、本人は「足が痺れていた・・・」といいますし、それよりもまず「呪詛」を受けていた反応をキャッチしました。
練習中の画像
「呪詛」を受けている反応を示します。
この画像からは、右半身にダメージがあり、右足首にもダメージが残っています。
完全な仕上がりではありません。
通常であれば、身体のメンテナンスに関わるスタッフがいて、その方が選手の体調管理には責任を持つことになります。
残念ながら、「霊的な反応」をサポートするスタッフは、ほとんどいないのが実情です。
「霊的なサポート・スタッフ」が、今後の国際試合には必要になるのは、明らかなのです。
今回は、生中継では見ていませんでしたし、結果を知ってからのチェックでした。
本ブログでも、オリンピックやサッカーのワールドカップなどでは、背後に「呪詛」を受けている反応は少なからずあることを、お伝えしています。
国の威信と名誉をかけて行うサッカーのワールドカップなどでには、霊的なサポートをする霊能者が帯同する国もあるといいます。
普通のヒトであっても、呪詛は頻繁に引き起こされます。
ただ、法で裁くことが実質的にできないので、この問題は深刻です。
スポーツ選手であれば、相手側の応援団からは、
「コノヤロー!」「くたばれ!」「死んでしまえ!」などの念はいくらでも飛ばされます。
その程度で、やられてしまうのであれば、トップアスリートにはなれません。
ただ、本格的な「呪詛」となると、話は別です。
やられてしまう可能性は、格段に上がります。
本ブログでも掲載していますが、私は夏季の北京オリンピックの前から、日本選手は「呪詛」でやられてしまう可能性が高いと、繰り返し私の講座では語っていました。
案の定、柔道とレスリングはやられました。
柔道会場、レスリング会場に入ると、日本選手は体軸が乱れました。
ただ、吉田沙織選手も呪詛を受けていましたが、それ以上にパワーが強く金メダルを取っています。
当時、私は山形県の「特別強化コーチ」をやっていた関係で、山形の高校に来た柔道のオリンピック代表の選手二人と、ほんの短時間接触することがあり、その旨を伝えました。
オリンピック柔道会場にいるとイメージしただけで、身体の体軸が歪みました
(詳しくは、「スポーツ選手と呪詛」シリーズをお読みください)。・
さて、羽生結弦選手です。
この画像はフリーの演技が終了したときのものです。
最初のジャンプで失敗したので、メンタルストレスの影響はありますが、「呪詛」の反応が示されます。
通常のレベルであれば、「呪詛」をかけた相手は見出されますが、相手がプロだと、相手に辿りつけないのです。
かすかですが、50代の黒人女性が請け負っているのかもしれません。
夏季の北京オリンピックの時にも、「呪詛」をかけた相手は一切その足跡を残しませんでした。プロなのです。
通常の場合であれば、相手が感知されます。
「呪詛返し」を行うと、「呪詛」をかけた相手には、3倍返しとなって大きなダメージが残ります。
そのために、「呪詛」をかけることができずに、諦めるのが普通です。
ただ、「呪詛」をかけられると、そのかけられた本人にもダメージが残ります。
「人を呪わば 穴二つ」という言葉が在ります。
人を呪うと、やった人間も、やられた人間も死に至り、墓穴が二つできるというたとえです。
相手がプロであれば、自分の存在はーーー「摩利支天(かげろうの神的エナジー体)」を、その間に入れてしまうと、「呪詛」をかけた相手に辿り着けないので、察知されなくなります。
現在の羽生結弦選手には、「呪詛」の反応はありません。
遅ればせながら・・・・超強烈な霊的なバリアを張っています。
了
2022年2月14日記
追伸
昨日(22年2月14日)に記事を載せた日に、羽生結弦選手の記者会見があり、そこで―――
〇 右足首は捻挫していた。
本来ならば、試合を棄権する状態であった、といいます。
〇 9歳の自分がいて、今までは彼のOKがなかなかもらえなかったが、ようやく、9歳の自分が納得してくれる滑りができた。
〇 9歳のときの自分と、同じフォームでの滑りができたのです。
9歳の自分は、3回転のトリプル・アクセルや4回転での回転を、どうしても認めてくれなかったが、今回の4回転半(クワッド・アクセル)に挑むことで、ようやく納得してくれた。
―――このように語っていました。
この会見の映像を見ていて、「羽生結弦」の凄さを実感しました。
4回転半するには、究極の体軸が整っていて、完璧に一筋の中心ラインに身体をおいて回転する必要があるようです。
ほんのわずかでも、この軸がブレると、4回転半(クワッド・アクセル)は成功しないと思われます。
私は、この会見の映像を見て、「猫の妙術」を思い出していました。
「猫の妙術」とは、私が学生時代から繰り替えし読み込んだものです。
それは―――
ある剣術者の屋敷に巨大なネズミが棲んでいて、何をやっても退治することができませんでした。
すべての戸を閉め切って、飼い猫を中に入れますが、おびえて役に立たず、近隣の名のある猫を借りてきて、退治しようとしてもまったく刃がたたないのです。
その屋敷の剣術者も、自ら立ち向かいましたが、障子、ふすまをたたき割るだけで、逆に襲われそうになるほど、強靭なネズミでした。
策が尽き果てたとき、となりの町に「古今稀な古猫がいる」との噂を聞きつけます。
試しにその猫を借りてきますが、風采のあがらないヨボヨボの古猫でした。
せっかく借りてきたのだから・・・と、大ネズミのいる部屋にいれると―――
大ネズミは、古猫を見ただけで「すくんで動けず」、古猫はのろのろと歩いて、いともたやすく、ネズミをくわえてきました。
その日、その古猫を囲んで緊急会議が開かれました。
ネズミ退治の名のある猫が集まりました。
皆、ネズミはおろか、イタチまでも捕れる名手たちでした。
まず、鋭い容貌の黒猫が前に出て、
「代々ネズミ捕りの家に生まれて、子供のころより修業をして、あらゆる技を会得しましたが、あのネズミだけはだめでした・・・・」
古猫いわく
「あなたの修業とは、技法だけだ。ネズミを狙う欲心が抜けていない。
古人が伝えた技法とは、その欲から自由になる道筋を教えたものである。
技のうまさを極め、技法のみに頼ると・・・このようになってしまう。
確かに技法は心の働きだから、心と技法は無関係ではない。
しかし正しい道に基づかないまま、単に技巧をこらすばかりでは、偽物の道に陥るきっかけになってしまう。
こういった技法の使いようは、却って害になることが多い。だから今言ったことを元に反省し、よくよく工夫する事が肝要である。」
次に、虎毛の大猫がまかり出て、
「我思うに、武術は気を尊ぶので、気力を練ってきた。
今や、その気力は天地に満ちて、心眼で敵を睨みつけて、高い梁や桁を走るネズミは、にらみ落としてこれを捕ることができる。
それなのにあの大ネズミは、向かってくるにも姿かたちが無く、逃げ去るにもその気配を残さない。参りました」
古猫曰く
「あなたが修業したのは、気力の勢いに任せて役に立つやり方だ。
自分の自信を頼みにしたもので、最善のものではない、
必死の相手には、その気は通用しないのである」
次に、灰色の少し年をとった猫が出てきて、
「おっしゃる通り、追い詰められたネズミは、気勢は盛んでも、姿を消すことはできません。
私は、長年心を練ってきました。
誰とも争わず、互いになじんで離れず、石つぶてをふわりと受け止めるようなものです。
ここに武の極意があります。
ところが、あの大ネズミは、勢いにも屈せず、なじもうにもなじまず、まったく刃が立ちませんでした」
古猫応えて曰く
「あなたの、なじもうとするのは、欲得なしになじもうとするものではない。
なじんでやろうとして、なじんでいるのに過ぎない。
敵の鋭気をかわそうとしても、少しでもかわしてやろうと心に思えば、敵はその気配を察する。
なじもうとする欲を持ったままなじめば、心が汚れてしまって、単にだらけているようにしか見えない。欲を持ったまま事を行えば、本来は自然に感じることができるはずの感覚が、感じられなくなってしまう。
この自然な感覚をふさいでしまえば、精妙な働きが、どうして生まれようか?
ただ思うこともなく、することもなく、この感覚に従って動くときには、自分には姿というものがない。姿がなければ、天下に、自分にかなうものはいなくなる」
このように言った古猫は、さらに続けました、
「各々の修業してきたことは、無駄だというわけではない。
真理とその実践は、分かちがたく結びついているから、身体で行うことの中に、真理は含まれている。
そもそも気というものは、この身を操る元と言うべきものでる。
その気がとらわれのない境地にあるなら、どんな物事にも対応できる。
気がなごみ、相手となじむときには、力を使って何かする必要はなく、この身を鋼鉄のようなものにぶち当てても、折れる気遣いはない。
ところが、心にどんな些細であれ、欲があれば、やることなすことは、全てわざとらしくなる。
それは、真理と一体になった身体の動きではない。そうなれば、向かってくる者はまるで意のままにならず、我と戦おうとする心を持つ。
ならばどの様にして、術を使えばよいのか。
心を無にして、自分を取り囲むありのままに、その時その時応じるだけである。
ただし、真理に至る道というものには、限りがない。だから私がいま言ったことを、究極の真理などと思ってはいかん」
こうして、古猫はさらに話を続けました。
「昔、私の住む隣の村に、ある猫がいた。一日中寝ていて、動きも気配もない。木で作った猫のようだった。
その猫がネズミを捕ったところを、誰も見たことがなかった。
ところがその猫がいるところには、ネズミは一匹もいなくなるのだ。
猫がよその場所へ行っても、同じようにネズミはいなくなる。
私はその猫の所に出かけて行って、なぜでしょうかと聞いてみた。
でもその猫は答えなかった。四度聞いたが、四度とも答えなかった。これは、答えなかったんじゃない。答えを知らなかったんだ。
ここで私ははっと気付いた。
老子の教え、知る者は言わず、言う者は知らざるなり、ということに。
その猫は、自分を忘れて、無そのものになっていたんだ。
これこそ、神の如き武術を持ちながら、殺さない、というものだ。だから昼間ネズミを捕った私というのは、彼には遠く及ばないのだ」
いつの日か、羽生結弦選手が、
「無意識(潜在意識)下で、4回転半を簡単にこなせる日を期待したいと思っています。
2022年2月15日記