生命体エナジー浄化の会ブログ

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浅草七福神巡り その1

《 浅草七福神巡り その1 》

浅草寺大黒天からはじまる

 

 浅草の「七福神巡り」については、よくテレビで取り上げられていますので、一度は近いので「行ってみよう!」となりました。

 

2021年6月13日に、浅草雷門前に集合となりました。

「パワースポット探索の会」のメンバーが集まります。

 

浅草寺は、幾度となく行っていますが、本堂は人が多く、邪気が常に蔓延していますので、今いち好きになれないところです。

 

常に大勢の人が押し寄せるので、常に本堂前は邪気っています。

敏感の方なら、その邪気が髪の毛にへばりつきますので、身体が歪みます。

「雷門」浅草寺だけでなく、「浅草」を代表するものでもあります。

 

浅草がテレビで放映さえるときには、必ずまずこの「雷門」(かみなりもん)が映ります。

 

正面に向かって、右には「風神像」、左には「雷神像」が安置されていますので、正式には「雷門」(かみなりもん)は、「風雷神門」(ふうらいじんもん)と呼ばれます。

 

慶応元年(1865年)に焼失しましたが、昭和35年(1960年)に、松下幸之助パナソニック創業者)が寄進したものです。

 

この有名な「雷門」の大提灯は、浅草三社祭りの時は、神輿が通れないのと、台風のときには畳まれます。

 

背面の間には、「金龍」「天龍」の像が安置されています。

「風神像」

 

「雷神像」

 

「雷門」の大提灯の下です。彫刻があります。

「金龍」「天龍」でしょうか。

 

「雷門」を通過して、仲見世を250M進むと―――

「宝蔵門」があります。

 

入母屋造りの二重門で、江戸時代には、一年に2度2階部分に昇ることができたといいます。

 

現在は、昭和39年(1964年)に再建されたもので、門の左右には金剛力士像が安置されています。

 

この金剛力士像(仁王)は阿形で、横綱だった「北の湖」がモデルとされています。

この金剛力士像(仁王)は吽形で、関脇だった「明武谷」がモデルとされています。

 

「明武谷」(みょうぶだに)と言われても、知らない方も多いと思います。

当時の幕内の最高身長で、189センチの筋肉質の身体で、外人女性ファンが多く、8頭身でした。

横綱大鵬が、柏戸ともに場所後に横綱に昇進するときに、「明武谷」との三者による優勝決定戦が行われたことがあります。

 

このとき優勝は果たせませんでしたが、殊勲賞、敢闘賞などを多く獲っています。

 

「人間起重機」と呼ばれて、がっぷり四つに組むと、両膝を深く曲げて、相手を釣り挙げて、倒す、外に出すという技がありました。

 

今の相撲では、「釣り出し」「釣り投げ」などの技を使うことは、めったに見られません。懐かしい相撲取りでした。

「小舟町」と書かれた大提灯の下にも、龍神の彫刻があります。

 

この宝蔵門を超えると、正面に本堂が見えてきます。

浅草寺の「本堂」です。

 

ここまで、「雷門」「宝蔵門」を通過してきましたが、高波動の寺院であれば、そこには「結界」が張られていて、そこを通過することで、浄化されることになりますが、浅草寺には浄化作用がありません。

 

「本堂」の内部です。

はっきり言って、有難くも何ともないところです。

 

浅草寺は、正式には「金龍山浅草寺」です。

元は天台宗でしたが、現在は「聖観音宗」としての本山となっています。

 

この中には、絶対秘仏の「聖観音像」が収まっています。

 

絶対秘仏ですので、公開はされていません。

その秘仏はなぜここにあるのか?

 

それは飛鳥時代推古天皇の時代(628年)に遡ります。

宮戸川(現在の隅田川)で魚をしていた漁師の網に仏像がかかります。

 

それが浅草寺本尊の「聖観音像」で、その漁師の主人は出家して、自宅を寺に改装して「聖観音像」を祀りました。これが浅草寺の始まりです。

 

では、なぜ「聖観音像」が川に流れていたのか?

一説によると、上流にある寺が水害に見舞われて、現在の飯能市の成木川に沿った岩井堂の仏像が流されました。

 

岩井堂観音の水害は、浅草寺創建の100年ほど前です。

 

この観音堂に安置されていた「聖観音」が、現在の隅田川に流れついて、網にかかったというのが真相かもしれません。

 

水害にあった寺院や郷の人々は、その後返還するように申し出ますが、これを無視して今に至ります。

 

その後、大化元(645年)に勝海上人が、夢のお告げでこの「聖観音像」を秘仏と認定して、観音堂を建立しました。

 

これによって、武蔵野の国の観音信仰の中心地となります。

 

本堂再建工事の跡から、平安時代には伽藍が建てられていたことが解ってます。

武蔵野の寒村に、多くの出土品のなから立派な観音堂があったことが分ったのです。

 

平安時代のはじめに、延暦寺の円仁:慈覚大師の巡拝により、伽藍の整備が行われて、信者も増えました。

慈覚大師を「中興の開山」としています。

 

鎌倉時代になると、将軍頼朝などが帰依するに及び、多くの名将が篤く信仰しました。

 

江戸時代になると、日光東照宮や上野寛永寺を創建して、江戸城に様々な「結界」を構築して、江戸幕府を霊的に守護した立役者の天界僧正は、ここを江戸幕府の祈願所に制定しました。

 

徳川家康浅草寺に帰依していたのです。

 

これだけの文化と信仰の中心地であったのには、それなりの理由があるはずです。

 

絶対秘仏の片鱗に触れたいと思いました。

わずか5、5センチの非公開の秘仏エナジーに触れたいと思います。

 

絶対秘仏の「聖観音像」のエナジーを、外に引き出したものです。

 

この画像には、絶対秘仏エナジーが繋がっています。

凄いです!ほんとうに凄いです!

 

公開しない理由がわかりました。

あまりにも恐れ多いとの反応が伝わります。

 

西行法師が、伊勢神宮参拝のときに詠んだ歌

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

 

このような心境にさせられました。

 

この画像をコピーしては、波動が落ちます。

この画像の中に、不調な方がいらしたら、投入してみてください。

 

一瞬で、体軸が整います。

初期レベルのガンの反応のある方でも、しばらく留まると「ガン靈」も消失します。試してください。

 

あまりにも凄い反応なので、ネットで調べてみました。

 

それによると―――

 

歴代住職の中には、「この目で確かめようと・・・」した方もいたようですが、扉を開けると、目の前が暗くなり、見えなかった・・・と伝わります。

 

さらに、明治になって「廃仏毀釈」で、政府の役人が強引に扉を開けようとしたところ、一人が転落して死亡。他の一人は逃げた帰った・・・と伝わります。

 

誰一人として、正確に「絶対秘仏」を目撃した者はいないようなのです。

 

年に一度開帳される秘仏は、慈覚大師が天安元年(857年)に造った「御前立ご本尊」で、絶対秘仏ではありません。参考までに―――

石橋

元和4年(1618年)設立。

 

これは、都内最古の橋です。

影向堂(ようこうどう)に入ります。

 

中に入ると、聖観音菩薩(中心)をはじめとして、9尊仏があります。

 

左から、勢至菩薩大日如来不動明王阿弥陀如来

聖観音菩薩(中心)

右へ、千手観音、虚空蔵菩薩文殊菩薩、右端の普賢菩薩は映っていません。

 

残念ながら、「生きている」像は一体もありません。

 

このお堂の正面の左側に、今回の目的となる「大黒天」像があります。

大黒天

 

説明書に

「このお像は、「浅草名所七福神」の一尊として信仰される大黒天である。

別名、「米櫃(こめびつ)大黒」とも言われる。

・・・商売繁盛や福徳の神としてお祀りされる」

このように書かれています。

 

残念ながら、この「大黒天」も「生きていません」。

これは、予想していましたが、スタートからこの反応なので、この先が思いやられる・・・・と思っていました。

 

              つづく

 

            2022年5月17日記