《 浅草七福神巡り その2 》
浅草神社―矢先稲荷神社―鳶神社
浅草寺の「大黒天」から、浅草七福神巡りをスタートして、次には浅草寺から徒歩1分ほどの「浅草神社」に向かいました。
浅草神社は、通称「三社権現(さんしゃごんげん)、有名な「三社祭り」の舞台です。
祭神は、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前武成(ひのくまのたけなり)を主祭神として、もう一柱は、浅草寺を創建した土師真中知(はじのまなかち)としています。
郷土神を祀る神社です。
この三人の霊をもって「三社権現」としています。
元は浅草寺の系統でしたが、明治の「神仏分離令」により、別法人となりました。
この神社では、「恵比寿神」を祀っています。
残念ながら、この狛犬は、「結界」ではありません。
したがって、この中を通過するだけで、身体が浄化されることはありません。
私の中では、まず神社の[鳥居]や「狛犬」に。「結界があるか否か」がその神社の霊格の指標となっています。
住職がいない寺院や仏閣でも、清掃の行き届いたところは、自然と「結界」が張られています。
社殿です。
社殿は、三代将軍の徳川家光の寄進により、慶安2年(1648年)に建造されました。
現在は、拝殿―幣殿―本殿とつながる権現造りで、国の重要文化財に指定されています。
拝殿には、入れませんでした。
中には、特に高い波動は感知されません。
「恵比寿神」の反応もありませんでした。
「三社権現」をお祀りしていますが、とくにそれらしいエナジーは感じられることもなく、早々と次の神社に向かいました。
この三社神社には、浅草近隣に氏子の町が形成されています。
浅草から駒形、寿町にかけて氏子が多数いて、「浅草三社祭り」のときには、その氏子の大活躍がありました。
今は亡くなりましたが、私のクライアントだったある棟梁がいて、「浅草三社祭り」を仕切っていると言っていました。
恵比寿神は見られませんでしたの、ネットで拾ったものを示します。
七福神の中で、唯一日本生まれの「神様」です。
次に向かったのは、「矢先神社」です。
「福禄寿」をお祀りしています。
矢先稲荷神社です。
「矢」の「先」にある稲荷神社です。
この名称は、京都にある「三十三間堂」に倣って、三代将軍の徳川家光が、浅草に造った「浅草三十三間堂」の守護神を祀ったのが起源です。
京都にある「三十三間堂」は、将軍家光が「通し矢」という武士の腕を競わせたのが始まりとされています。
京都の「三十三間堂」の「通し矢」とは、本堂軒下の長さ121Mを、南から北に矢を射通す競技です。
いくつかの種目がありますが、一昼夜に何本射通せるかを競わせる「大矢数」が有名です。
京都の「三十三間堂」。1000体の千手観音像が並ぶ。
この廊下で「通し矢」が行われました。
この弓道の競技は、現在も行われています(距離は60M)。
しかし、浅草の「三十三間堂」は、火災で焼失して、深川に移転しましたが、
その後の「廃仏毀釈」で、明治5年に廃寺となっています。
矢先稲荷神社の創建は、寛永19年(1642年)です。
御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。
ご神体は、上野東叡山寛永寺の天海大僧正によって寄進されたといいます。
しかし―――このエナジーは、まったく感知されません。
「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっていたといいます。
残念なことに、火災によりすべて焼失したようなのです。
御利益は、「商売繁盛」「武運長久」を謳っていますが、疑問符がつきます。
残念なことです。
さて―――七福神ですが、これがそうです。
「福禄寿」
残念ながら、「生きていません」。
「浅草名所七福神」でなければ、これだけでは人は参拝しないかもしれません、
多くの方が訪れるので、この空間も邪気っています。
「まあ・・・・仕方ないかな・・・」と思って、次の「浅草名所七福神」に向かいました。
鷲神社(おおとりじんじゃ)です。
「酉の市(とりのいち)」で広く知られています。
鷲神社(おおとりじんじゃ)の御祭神は、「天日鷲命(あめのひいわしのみこと)」と「日本武尊(やまとたけるのみこと)」です。
鷲神社の創始については、つまびらかではありませんが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。
天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽器の弦を奏でられました。
この天宇受売命(あまのうずめのみこと)の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。
その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称したといいます。
そして天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、開運、開拓の福神として鎮座されたというのです。
ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は―――
東征の帰途、ここの松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことから、その日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりとしています。
さて―――
この「酉の市(とりのいち)」については、
樋口一葉、正岡子規、岡本かの子、あるいは久保田万太郎などの文人らの文芸作品に登場します。
江戸では、「酉の市(とりのいち)」を境に、「冬」に入ることになります。
毎年、テレビで「酉の市(とりのいち)」が話題になると、「そうか・・・もう冬なのだ・・・」と時節の移り変わりを感じることになります。
鷲神社(おおとりじんじゃ)には、「なでおかめ」というものがあります。
「なでおかめ」です。
鷲神社(おおとりじんじゃ)は、「商売繁盛をもたらす神様」ですので、「金運」を高めるために、「鼻」を撫でるとよいと云われています。
また、「右の頬」を撫でると、「恋愛が成就する」と云われて、多くの方が撫でていますので、黒ずんでいます。
「左の頬」は、「健康によい」とされて、「口を撫でる」と、「災いを防ぐ」といいます。
「おでこを撫でる」と、「賢くなる」といわれ、「目を撫でる」と、「先見の明」がつくといわれます。
「顎(あご)を時計回りに撫でる」と、「すべて丸く収まる」といわれています。
顔中撫でられていますので、鼻だけでなく、左右の頬も、額も、顎も撫でられ続けていますので、このままいくと・・・・「どす黒くなる」のでは、と少し心配です。
「なぜ?なでおかめがあるのか」
「おかめ」とは、「お多福」ともいわれ、幸福が多く訪れることから、幸せを招く女性の象徴とされています。
そのために、「酉の市」の縁起熊手の中に、取り込まれているのです。
それは、古事記、日本書紀のなかで、天照大御神が「天岩戸(あまのいわと)」に籠ってしまい、世の中に太陽の光が差し込まなくなったときに、
天宇津女命(アメノウズメノミコト)が舞いを舞い、八百万の神々が大笑いして、それを天照大御神が「何だ!」と隙間から覗き見たときに、「天岩戸(あまのいわと)」が開けられて、光が戻ったという神話があります(前述しています)。
このときに舞った天宇津女命(アメノウズメノミコト)は、「おかめ(お多福)顔」だといわれています。
古来より、わが国では「おかめ(お多福)顔」は美人と称されています。
画像がボヤけていて、申し訳ありません。
なぜか、もう一枚もボヤけていました。
このときの空間は、あまりよろしくない邪気に包まれていたようです。
この鷲神社(おおとりじんじゃ)の「浅草名所七福神」は、「寿老人」を祀っています。
「寿老人」です。
この本体は、見られませんでした。
寿老人とは、道教の神仙で、伝説上の人物です。
酒を好み、長寿の神とされています。
不死の霊薬の入った瓢箪を持ち、手には長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っています。
大きな感動もなく、次の「吉原弁財天」に向かいました。
つづく
2022年5月24日記