《 浅草七福神巡り その3 》
吉原神社―石浜神社―橋場不動尊
凰神社を後にして、次に「吉原神社」に向かいました。
「吉原神社」です。
有名な「吉原遊郭」のあった地です。
「吉原神社」の鳥居には、「吉原弁財天」とあります。
なぜ?浅草なのに、「吉原」の名前があるのか。
「吉原」といえば、私には現在の人形町が思い浮かびます。
それは―――「吉原遊郭」が、この地にあったことが発端です。
「吉原遊郭」は、そもそも江戸時代の元和3年(1617年)に、幕府の許可を得て庄司甚右衛門という人物が、江戸市中の此処かしこにあった遊女屋を、日本橋人形町周辺に集めたことに始まります。
当時は、日本橋を超えると、あたり一帯は鬱蒼と葦が生い茂る地帯でした。
それで「葦原(あしはら)」と呼ばれていたのが、転じて「吉原」と呼ばれるようになりました。
昔は寂しい地帯でしたが、数十年後には多くの男性が集まるようになり、江戸の中心街のようになってしまったので、明暦3年(1655年)に現在地の千束村に移転させられました。
現在の人形町周辺にあった吉原遊郭を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と呼んでいます。
吉原は、大名から江戸の庶民まで、多くの交流の場であり、文化発信の地でもありました。
多くの文学作品や、歌舞伎、浮世絵などの題材ともなっています。
遊女の中には、高い教養を身に付けた者もいて、「遊女遊び」をするにも、それなりの心構えと教養が必要でした。
遊女の中の最高位の「花魁(おいらん)」には、一般庶民は近づくこともできす、ただ眺めるだけの存在でした。
花魁になるには、その候補者の女性を、幼少の頃から徹底的に鍛えあげていて、
古典から、書道、茶道、和歌、三味線、囲碁に至るまで、教養、芸事を仕込まれていました。
当然、元手もかかっていますので、花魁を揚げるには、莫大な資金が必要でした。
吉原遊郭に遊びに来る人々は、非日常の雰囲気に触れるだけの「素見(ひやかし)」が7割もいたといわれています。
昭和33年「売春防止法」の施行により、吉原遊郭の長い歴史に幕が降ろされました。
「御朱印」をもらうには、人が多いので列に並ばなくてはなりませんでした。
「吉原神社」「吉原弁財天」とあります。
本堂は大きなものではありません。
「弁財天」の波動も一切ありません(弁財天は、別の吉原弁財天祠にあります)。
「稲荷神」の波動も一切ありません。
身体に感知できる良好な波動は、まったくありませんでした。
歴史を辿ると―――
この「新吉原」には、遊郭の守護神として、五か所の稲荷社がありました。
吉原遊郭の入口である「大門(おおもん)」の手前に、「玄徳(よしとく)稲荷社」があり、
遊郭内の四隅には、「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九朗助
稲荷社」がありました。
その後、明治5年に五つの稲荷社が合祀されます。
その総称として「吉原神社」と名付けられました。
その後、関東大震災で焼失します。
さらに「新吉原」隣接の地あった「吉原弁財天」も合祀します。
しかし、東京大空襲で焼失して、昭和43年に現社殿が造営されています。
吉原観音
この観音像は、大正12年(1923年)に東京を襲った関東大震災で、遊女490人が逃げ場を失って亡くなりました。
遊女及び遊郭関係者の慰霊を目的に設置されたものです。
その歴史を知ると、何とも暗い気持ちにさせられます。
「吉原弁財天」(琵琶を奏でています)
左も「弁財天」で、真ん中の像も「弁財天」です。
「弁財天」は、叡智や学問、あるいは音楽の神とされています。
そして、言うまでもなく財運が高まる福徳神、財宝神でもあります。
そこから、「大黒天」「恵比寿天」と共に「弁財天」を含めて、七福神の基になったとされています。
室町時代の文献に、「大黒天」「弁財天」「毘沙門天」の三尊を合一した「三面大黒天」を、天台宗の開祖である最澄が祀ったという伝承があります。
この「三面大黒天」を秀吉が保持していて、戦場にも持ち込んで拝んでいたと伝わります。
「天下人」となった秀吉にあやかり、私もこの故事に倣い、「三面大黒天」を購入していますが、「大黒天」「弁財天」「毘沙門天」の三尊にお入りいただいています。
さて―――弁財天ですが、
この画像の真ん中の「弁財天」は、「生きていません」。
つまり、ありがたがって拝んでも、この「弁財天」では「金運」は高まらないと思います。
ですが―――画像の左側の「弁財天」は、「生きています」。
拝むだけの効力がありそうです。
「金運」「財運」を高めたい方は、真剣に拝むといいかもしれません。
ただ、この「弁財天」は、扉の隙間からカメラで撮ったもので、通常は扉を開いて公開していないようです。
こうして、次の目的地である「石濱神社」(いしはまじんじゃ)に行くことになりました。
「寿老人」をお祀りしていますので、心勇んで向かいました。
石濱神社
石濱神社の境内です。
立派な拝殿があります。
「石濱神社」は、聖武天皇の時代である神亀元年(724年)に鎮守されたもので、源頼朝が藤原泰衡を征討する折に、ここで祈願して
「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み、大勝して目的を果たしたので、後日、社殿を造営寄進して、神恩に報いたと伝わります。
拝殿には、伊勢神宮内宮、下宮と同じ「天照大神」「豊受大神」が祀られています。
そのために、関八州の庶民は「お伊勢参り」に行かずとも、この「石濱神社」に詣でることで、「伊勢参り」を済ませることができるようです。
ここに―――
「神排詞(となえことば」として、
祓いたまえ 清め給え(はらいたまえ きよめたまえ)
神(かみ)ながら 守り給え(まもりたまえ)
幸(さきわ)え給え(たまえ)」
このようにあります。
拝殿には、伊勢神宮内宮、下宮の「天照大神」「豊受大神」が祀られているはずですが、その霊気は反応しません。
これでは、「お伊勢参り」の霊験を頂くことはできないかもしれません。
寿老人とあります(画像の左)。
「寿老人」は公開していません(扉は閉まっています)。
その隣(右)
にあるのが、「宝得大黒天」です。
「宝得大黒天」
見た目は、人形のように映りました。
歴史を感じさせることもなく、波動も低いものです。
手を合わせて、感謝の気持ちを捧げるほどの気持が起きませんでした。
これが本物の「寿老人」です(ネットから)。
毎年新年元旦から、1月の31日までしか公開していません。
※現在は、常時公開されているようです。
「長寿延命」「諸病平癒」の神徳があるとされています。
鹿を連れていますが、この鹿は長寿の象徴となっています。
1月の公開期間中は、撮影も可能なようですが、通常は高波動の仏像などは「撮影禁止」が多いです。
そのような中で撮られたのか、画像の波動は高くありません。
そこで―――「寿老人」本体の中に隠れている神的な高波動を引き出して、次に示します。
神的高波動の本体が浮き上がってきたときの「寿老人」です。
この画像で、「長寿」「延命」をお願いしてください。
この画僧であれば、感謝の気持ちを捧げる気持が起きると思います。
扉が閉められていて、公開されていないものです。
右から、「寿老人」「妙義八幡神社」「北野天満宮」「江戸神社」とあります。
石濱神社には、末社が多くあります。
拝殿横には、真先稲荷があり、ここには「招来(おいで)稲荷神社」(左)と、「白狐神」(右)があります。
その右隣には―――
「富士遥拝所」もあります。
残念ながら、全ての波動は高いものではありません。
期待外れの感を抱きながら、次の浅草七福神の「橋場不動尊」に向かいました。
橋場不動尊
橋場不動尊の創建は、8世紀になります。
760年に、相模の国の大山寺の良弁という僧侶が、不動明王のお告げを賜り、1本の霊木から3体の不動明王の像を造りました。
そのうちの一体を大山寺に安置して、一体を自分が持ち、残りの1体を弟子の寂昇に渡しました。
その寂昇は、上総の国へ旅に出ます。
その途中で、寂昇は不動明王の夢を見ます。
その夢に従い、この地に不動明王の像を安置します。
これが、橋場不動尊のはじまりです。
ここに不動明王が祀られています。
「ノーマーサーマン、ダーバーサラナン、センダーマーカロ、シャーナンソワタヤ、ウンタラターカンマン」 と唱えるようです。
ですが、その本体がどこにあるのか判りませんでした。
※不動明王の右隣にあるのが、そうかもしれません(画像が暗くて解りません)。
「布袋尊」とは―――
常に微笑んでいて、粗衣をまとい、大きな袋を肩にかけて、信仰の厚い人には中の宝物を与えたといいます。
住居を定めることもなく諸国を遊行して、超然として過ごしたと云われています。
雪の中でも半裸で寝ていましたし、身体が雪に濡れることはなかったといいます。また、
吉凶を予見して、間違えることはなかったといいます。
中国では歴史上実在した人物ともいわれ、「弥勒菩薩」の化身であるとも云われています。
「御授地蔵尊」です。
その前には、「百度石」もあります。
地蔵尊は、どこにでもある尊仏で、人には それほどありがたがれませんが、その本体は「国常立大神(くにとこたたちのおおかみ)」です。
本来は、高波動なのですが、何も反応しません。
「布袋尊」です(ネットから)。
本体は、よく解かりませんでした。
公開の期間は限定されているようです。
この画像の波動も高くないです。
「まあ・・・こんなものかな・・・・」との思いを抱いたまま、次の浅草七福神の神社へと向かいました。
つづく
2022年5月31日記