《 浅草七福神巡り その4 》
浅草七福神巡りも、残りがあと2か所となりました。
次ぎに向かったのは、「今戸神社」です。
「福禄寿」(ふくろくじゅ)をお祀りしています。
今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が、奥州討伐のときに、京都の石清水八幡宮を、当地に勧進して祈願したのが始まりです。
その後、関東大震災や東京大空襲などで、数々の戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建されてきました。
現在の社殿は、昭和46年(1971年)に再建されたものです。
昭和12年(1937年)には、隣接していた白山神社を合祀して「今戸八幡」と呼ばれていたのが、「今戸神社」となっています。
現在は、浅草七福神のひとつ「福禄寿」を祀って、現在の賑わいを見せています(「福禄寿」は、浅草七福神に後から加わったものです)。
画像で見るように、参拝には「列」ができていました(多くの参拝者がいました)。
この神社のしたたかさは、それだけではありません。
この今戸神社が「招き猫発祥の地」と名乗っています。
つまり、「招き猫発祥の地」と名乗って、「縁結び」を強く打ち出しています。
そもそも古文献には、今戸神社と「招き猫」に関わるものはない、とされています。
今戸神社の「招き猫」の由来は、
「浅草に住んでした老婆が、貧しさのあまりに飼っていた猫を手放しましたが、
夢枕にその猫が現れて、『自分の姿を人形にしたら、福徳を授かる』というのです。
その猫の姿を焼き物(今戸焼)にして売ったところ、大評判となった・・・というのです」
これが―――今戸神社の招き猫の発祥の由来です。
この由来は、浅草寺や浅草神社に由来する記録が残っていて、今戸神社には何ら関係がない、とされています。
つまり―――「招き猫」と「縁結びパワースポット」の、平成なってからのブームに便乗したものとされています。
「今戸神社」とあります。
戦前合祀された白山神社の祭神に、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」の夫婦の神を祀っていて、近年になって「縁結びにゆかり」があるとアピールされています。
残念ながら、有難い波動は何ら反応を示しません。
これが「福禄寿」です。
かなりの邪気を吸い込んでいます。
いろいろな事象を宣伝に使っているのですから、せめて浅草七福神の「福禄寿」だけでも良好な波動を保てるようにしていただきたいものです。
ついでに―――
私は司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで、大きな感銘を受けたことがあります。
主人公の新選組副隊長だった土方歳三が、最後を迎えるシーンで、沖田総司が語りかけてきて回想する場面があります。
読後1週間ぐらいは、「燃えよ剣」の感動に酔っていました。
その中で、沖田総司は千駄ヶ谷の植木屋で亡くなったとありました(諸説ありますが、これが定説です)。
ですが今戸神社は、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきているだけなのです。
それを、「沖田総司臨終の地」と主張するのですから、この神社の品格が疑われます(沖田総司の墓まであります)。
さて―――次に行くのは、私の好きな「聖天」様を祀るお寺です。
御朱印色紙の最後に頂くのが、その色紙の真ん中に入ります。
それで、最後に「聖天」様を入れていただきたいので、待乳山聖天(まつちやましょうてん)が、最後の浅草七福神巡りの地としたいと主張して、皆の同意を頂きました。
私は、守護神の一つである「聖天」様への思い入れが強いのです。
しかし、考えてみれば、「聖天」は「七福神」の中には入っていません。
待乳山聖天(まつちやましょうてん)では、「毘沙門天」をお祀りしています。
したがって、御朱印色紙の真ん中には、「毘沙門天」が入ることになりました。
なぜ、「聖天」に思い入れが強いのか?
これについては、本ブログでも書いていますが、もう一度書いておきます。
以前福岡の講習会で福岡市に行ったときに、東長寺に案内されたことがあります。
この東長寺は、全体に「結界」が張られていて、近隣の寺院とは明らかに霊格が違っていました。
ここの「旧堂」に、「聖天」様が本尊として祀られていました。
「聖天」は個人で祀ることは、ほとんど無理で、よほど霊格の高い寺院でないとできない、と云われています。
「触らぬ神に祟りなし」との言葉がありますが、この「神」とは聖天をさす言葉です。
聖天は、穢れを嫌います。
ですから、いい加減な対応では、その祀った本人にも災いをもたらすことになる―――と云われているのです。
そのために、通常の寺院でも「聖天」様を祀るのは、避けたいし嫌がられると云われています。
聖天は、「子孫七代の福を、一代でとる」と云われています。
紀伊国屋文左衛門やパナソニック創業者の松下幸之助などは、「聖天信仰者」でした。
一説では、徳川家康も「聖天信仰者」で、あまりに霊力が強いので、「聖天は恐ろしい!」との噂を流して、世間に浸透するのを妨げたともいわれています。
真剣に拝んで、誠意を尽くすと、七代先の栄華も一代でもたらすと云われるほど、その霊力は強いとされていますが、聖天は、歓喜天とも呼ばれます。
これには、「歓喜天秘法」という七代の運を一代に集める秘術があるといいます。
聖天(歓喜天)の像に油を注ぐなどの秘法で、一般の人ではまず無理なのです。
そのために、福岡の東長寺に初めて訪れたときには、「オン・キリク・ギャクウン・ソワカ」の御真言で同調しましたが、すぐに抜けてしまうと思っていましたが、実際にはかなり長い期間、私の身体に同調していました。
そのために、翌年訪れたときには、そのお堂に入り(数年後に行きましたが、そのお堂は閉じられていました)、真剣に御真言で同調しましたので、今でも同調していただいて、守護神の一体となっていただいています。
その後も、「聖天」とある寺院を訪れると、真剣に御真言とともに拝むようにしています。
このような経緯がありますので、待乳山聖天(まつちやましょうてん)を最後にして、御朱印色紙の真ん中に、「聖天」様の文字をいれてもらおうと思ったのです。
残念ですが、「毘沙門天」になりました。
生涯一度も負けたことがなく、決して卑劣な策を用いず、正攻法で攻めるのですが、あまりにも強く、「軍神」とみなされていました。
もし上杉謙信がいなかったら、もう一方の「軍神」である武田信玄は、天下を掌握してたかもしれないといわれていました。
上杉謙信については、本ブログで「謙信は女性であった!」との説を追っています(よろしければお読みください)。
「毘沙門天」も軍神であり、金運に絶大な力があるとされています。
私は「毘沙門天」も同調して頂いていますので、御朱印色紙の真ん中でも嬉しいのです。
さっそく境内に踏み込みます。
波動は高くないですが、数体の観音菩薩像が並びます。
なかなか立派な境内です。
待乳山聖天(まつちやましょうてん)は、浅草寺(聖観音宗)の子院のひとつです。
正式には「本龍院(ほんりゅういん)」で、山号は「待乳山(まつちやま)です。
本尊は、聖天(歓喜天)」で、この歓喜天は「十一面観音」の化身とされています。
本堂に入ります。
ここの歴史は古く、595年(推古三年)に、待乳山(まつちやま)の小高い丘に、金龍が出現して(この金龍が浅草寺の山号「金龍山」の由来となったと伝わります)、
601年の旱魃の時(推古天皇9年)に、歓喜天(聖天)と十一面観音が安置されたと伝わります。
また、平安時代の天安元年(858年)に、慈覚大師が東国巡回のおり、当山に籠り、21日間の修行をして国家安泰、庶民の生活安定を祈願して、十一面観音菩薩像を彫って奉安されたと伝わります。
堂内には、「大根」が奉納されています。
本堂からは、「大聖歓喜天(聖天)」の波動は伝わってきません。
「十一面観音」の波動も伝わってきません。
「毘沙門天」の波動は伝わってきます。
「毘沙門天」の波動は伝わってきますが、「毘沙門天」は通常は公開されていません。
御開帳は毎年年末から1月末までです。
この本堂の左側に、「毘沙門天」の波動を感知します。
大根は、「聖天」のお供え物となりますので、多くの方が大根を奉じています(200円で購入できます)。
不思議なのですが、ここでは「聖天(歓喜天)」の波動は感じないのですが、これら「大根」の波動は上昇しています。
不思議に思って、「なぜなのか?」と分析してみました。
この大根の上に乗せられたものは、波動は高まっていません。
しかし、その下にある大根は、波動が高くなっています。
つまり、我々が訪れたときには、僧侶が拝んでいませんでしたが、お経を唱えて拝んでいると、聖天(歓喜天)の波動に中が包まれて、大根に良好な波動が宿るのかもしれません。
試しに、このブログを書いているファミレスの客(体軸がブレて、身体が歪んでいます)に、画像の上にある大根を投入しましたが、まったく反応しませんが、下にある高い波動の大根を投入すると、体軸が整いました。
やはり、僧侶がお経を唱えると、その波動が「大根に浸透して、波動が高くなる」ように思われます。
「聖天(歓喜天)」を招聘するお経によって、捧げられた大根が販売されていますので、その大根は購入してもよいかもしれません。
本堂の扁額には、「聖天宮」とあります。
ここでは様々な法要がされています。
毘沙門天(ネットより)
この毘沙門天は、年末から1月の期間のみ開帳で、それ以外では見られないようです。
これは、本堂裏手にある「道灌稲荷」です。
江戸を開いた太田道灌が勧請したと伝わるようです。
波動は高くありません。
さて、我々は本堂の裏手に行きました。
この本堂裏手の石畳の上に立ち、「天地結合の印」を作り、ここで全身にエナジーを吸引しました。
多くの方は、左手の人差し指を一本の伸ばし、右手の指を下に向けて伸ばして「天上天下唯我独尊の印」を組みますが、
我々は、右手を上に伸ばして、左手を下の伸ばす「天地結合の印」で行います。
このとき、伸ばす指は、人差し指が一本となるのか、人差し指と中指の2本になるのかは、その人の反応によって変わります。
ともに、上は大宇宙の空間(もしくは太陽から)エナジーを体内に入れて、下からは地球からのエナジーを吸引して、丹田で統合します。
これにより、高い波動が身体に流入してきます。
十分に波動が体内に注入されたら完了です。
これを一人一人がやりますので、時間がかかります。
境内の全体画像です。
入口近くには、小説家の池波正太郎の碑もあります(この近くで生まれたようです)。
こうして、浅草七福神巡りが終了しました。
浅草七福神巡りを振り返りますと―――
「七福神」ですが、9か所を巡っています。
「神巡り」は、「敬愛豊財」「芸道富有」「人望福徳」「有徳蓄財」「勇気授福」「清廉度量」「延命長寿」の七つの幸せが授かるといわれます。
福の神への信仰は、鎌倉時代から「大黒天」「弁財天」「恵比寿天」の三神を合わせて参詣する信仰がありました。
室町時代になると、この三神に「毘沙門天」「布袋尊」「「福禄寿」「寿老人」の四神が加わり、「七福神」となりました。
江戸時代になると、文化発祥の地といわれる浅草で、「七福神巡り」が盛んになり、「商売繁盛」「家内安全」という願いが加わり、多くの方が「七福神巡り」を行うようになってきました。
その後、太平洋戦争などで一時中断します。
それが復活したのが、昭和52年です。
このときに、「福禄寿」「寿老人」が増えて(この2つはダブります)、全部で「九か所巡り」となっています。
全ての御朱印色紙に、九か所を巡り、七福神が書かれて完了しました。
これが、私のベッドにある御朱印色紙です。
このままでは、それほどの波動ではないので、高波動を注入しています。
今回のパワースポット探索の会メンバーの全ての色紙にも、高波動を注入しています。
了
2022年6月6日記