《 東北恐山を巡る旅 その5 》
十和田神社その2
十和田神社の拝殿に来ました。
湖畔にある「乙女の像」の近くには、「青龍大権現」との案内板がありました。
確かに・・・・
「大権現」とは、修験道系、陰陽道系に関わる天狗界系のエナジーを示すものです。
十和田神社本殿(拝殿)
十和田神社は、平安時代(807年)に、坂上田村麻呂が東夷征伐の時に、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀ったのが創建と云われています。
ここは十和田信仰の中心として、奥ノ院には「青龍大権現」が祀られています。
また、大元である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)も祀られています。
龍神ですので、「水」に関わる「水神信仰」の地となっています。
奥ノ院は、ここからさらに上った台地にありますが、我々はそこに行っていません。
これはネットから紹介します。
奥ノ院で、ここが「青龍大権現」の本宮です。
「青龍大権現」については、次のような話が残っています。
熊野や日光に並ぶべき北東北最大の「山岳霊場」でした。
修験者の山岳修行の場であり、一般民衆の信仰登山、山岳修行の山が、十和田湖の外輪山でした。
十和田神社は、明治初年の神仏分離以前は、「額田嶽熊野山十灣寺」の寺院で、「十和田青龍権現」を祀り、現在の拝殿には「十和田御堂」が建っていました。
その昔、熊野で修業をしていた「南祖坊」という修行僧が、十和田湖にやって来た時に、鉄の草鞋が切れました。
鉄の草鞋は、熊野の大権現が「この草鞋を履いて諸国を修業して、草鞋が切れたところを住居とせよ」と命じていたのです。
それで十和田湖に住みますと、その十和田湖には秋田のマタギであった八郎太郎が、姿を変えた「龍」が住み着いていたのです。
そして―――住居を巡り八郎太郎と南祖坊の間で争いになり、八郎太郎は八の頭の龍神に変じ、南祖坊は「法華経」を唱え、戦いは7日7晩に及び、南祖坊が勝利して、八郎太郎は八郎潟へと逃れました。
闘いに勝利した南祖坊は、十和田湖で入寂して、龍へと姿を変えて「青龍大権現」として祀られました。
拝殿の扉は閉じられていましたの、その隙間から撮りました。
その奥に見える「本殿」の高波動が感知されます。
ここは、本殿(拝殿)の内部です。
我々が来た時には、扉が閉じていましたが、関係者がやってきて扉を開けてくれました。
拝殿内部は、それほどの波動ではありません。
しかし―――
この裏にある「本殿」にまわると、凄まじい「霊気」に圧倒されました。
拝殿の右側にある末社です。
この末社の右は、それほどでもありませんが、左側の末社は高波動です。
この末社を横から撮ったところです。
修験道系のエナジーが反応するところまでしか、詳しくは解りません。
これが拝殿の後方にある「本殿」です。
凄まじい波動です。
眉間とこの本殿を繋ぐと、身体が前後に揺さぶられます。
ここは、本殿背後の「地」です。
ここも高波動です。
ここは、「本殿」の真後ろです。
本殿のある台座の磐座から、反時計回りに高波動エナジーが吹き上がっています。
通常の人では、この高波動の「渦の中」に入ろうとすると―――弾き飛ばされます。
凄まじい波動です。
一瞬で、宇宙空間まで飛ばされるかのような感じがします。
これと似たようなことが、この後で行く「恐山」でも体験しました。
やはり・・・・「恐山」は、凄いところでした。
この先にあるエリアです。
かなりの高波動を感知します。
後から知りましたが、この先に「奥ノ院」があり、ここが「青龍大権現」の本宮となっているようです。
そこに向かって途を探したのですが、見つかりませんでした。
こうして、十和田神社を後にして、帰路につきますが、その途中でいくつかの祠がありました。
「火の神」とあります。
「火の神」の「風穴」「窟」です。
ここは、それほどの波動ではないようです。
「天の岩戸」とあります。
「天の岩戸」と命名されるところは、全国至る所にありますが、ここにもこの名称をつけています。
ここは、中には入れませんが、通常の身体歪んでいる方は、この「風穴」「窟」の中に踏み込むと、身体は整います。
「金の神」とあります。
ここは、それほどの波動ではないようです。
「山の神」とあります。
ここも、中には入れませんが、通常の身体が歪んでいる方は、この「風穴」「窟」の中に踏み込むと、身体は整います。
「風の神」とあります。
ここも、中には入れませんが、通常の身体歪んでいる方は、この「風穴」「窟」の中に踏み込むと、身体は整います。
「火の神」とあります。
ここも、中には入れませんが、通常の身体歪んでいる方は、この「風穴」「窟」の中に踏み込むと、身体は整います。
こうして、予想以上のパワースポットでしたので、十分な満足感を得て、いよいよ今回のパワースポット探索の旅の、究極の目的地である「恐山」を目指しました。
つづく
2022年8月23日記