生命体エナジー浄化の会ブログ

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出羽三山を巡る旅 7

《 出羽三山を巡る旅 7 》

羽黒山―月山-湯殿山を巡る その7(長南敏江その1)

 

 次に最後の目的地である「南岳寺」を目指しました。

「南岳寺」には、どうしても行きたい処があります。

 

今回の参加者も、それは皆同じです。

「南岳寺」の近くに来たとき、ペットボトルの「水」を購入することを忘れていました。

 

それで、ゾネスがコンビニを探しに行き、皆のペットボトルの「水」を購入してきました。

とういのは―――

 

これから尋ねる場所の霊力で、このペットボトルの「水」に、最適なエナジーを入れてもらおう・・・・と、思っていたからです。

 

それが可能なのか否か―――これについても、検証したいという興味がありました。

 

どういうことなのか・・・・以下、「つづき」をお読みください。

ここには、「真言宗 修業山南岳寺」とありました。

 

「修業山・・・とは、面白い・・・」と思いました。

 

境内の入ると、釈迦の寝仏がありました。

足の拇指の指先が揃っていませんので、「寝ている」ときのものです。

つまり、

この釈迦像は、「生きている」ときの像となります。

 

足の指先が揃っているときは、「亡くなられた」ことを示します。

 

私たちが目指したのが、ここにあります。

このお堂が、我々が来たかったところです。

 

このお堂の看板に、「淡島大明神」とあります。

ここに

「極楽娘 年恵観音 長南年恵霊堂」とあります。

 

長南年恵(ちょうなん/おさなみ としえ)とは、稀代の霊能者です。

 

長南年恵は明治時代に生きた超能力者で、映画「リング」に登場するモデルと思っている方が多くいます。

 

しかし、「貞子」のモデルは、御船千鶴子という「千里眼」の持ち主で、やはり明治時代の霊能者、超能力者です。

 

その御船千鶴子について、少し触れておきます。

 

御船千鶴子は、明治19年(1886年)に、熊本の漢方医の娘として生まれました。

 

生まれつきの進行性難聴があり、左耳が徐々に聞こえなくなっていったといいます。

若いころから「観音菩薩」を信仰していて、繊細で感受性が豊かであったといいます。

 

22歳のときに陸軍中佐と結婚しました。

ある日に夫の財布から50円がなくなり、千鶴子はそれが姑の仏壇の引き出しにあることを言い当てたことで、姑は自殺未遂をはかります。

 

そのことから、その家にいづらくなり、離婚して実家に戻ります。

実家にいた義兄に、「お前は透視ができる」といわれて、透視術を修練することになります。

 

その後、日ロ戦争で義兄の乗っていた軍艦が撃沈されたとの報が入りますが、

それには乗っていなかったことを透視したり、福岡県の大牟田市の萬田炭鉱を発見したことで、謝礼2万円(現在の2000万円)を受け取っています。

 

また、海に落とした指輪の場所を言い当てたりと、様々な能力を示します。

人の身体の中を透視して、病気を診断したり、「手かざし」を用いて治療もしていたといいます。

 

評判が評判を呼び、御船千鶴子の元には、多くの相談者が押し寄せたといいます。

 

これらのことが、東京帝大の福来助教授(心理学)の目に留まり、研究の対象となります。

 

福来友吉の実験で、多くの成功例を示しますが、これに納得できない反発もありました。

 

マスコミは「千里眼」として持ち上げますが、心理学会は納得せず、福来友吉の「透視」と「念写」は、論争の的となりました。

 

このことがあって、「千里眼ができる」という人物が次々と現れてきました。

千里眼」の長尾郁子もその一人です。

 

マスコミの真贋論争の中、長尾郁子の「千里眼」をインチキだとする記事を読み、失望と怒りを感じた千鶴子は、服毒自殺を図ります。24歳でした。

 

福来友吉助教授もまた、東大総長(物理学者)から「東大教授として好ましくない」とされて、東大を追放されます。

 

以後、福来友吉は自分の研究所を立ち上げて、三田光一の「月の裏側」の念写実験を成功させるなどを行っています。

 

明治時代には今とは違って、「霊能者」「超能力者」に対するパッシングが強かったのです。

 

そのような時世のときに、「淡島大明神」長南年恵は、ここ鶴岡で生まれました。

 

さて、我々は長南年恵の「霊」が反応するのか否か―――これに大きな関心がありました。

 

これが「長南年恵霊堂」の中です。

 

中に入った直後ですので、まだ「長南年恵」の反応はありません。

しかし―――

 

長南年恵様、ここにお越しください・・・」と祈りを捧げていると、すぐに反応が現れました。

 

「淡島大明神」では反応を示しませんが、また「長南年恵(おさなみ・としえ)」ではなく、「長南年恵(ちょうなん・としえ)」で反応がありました。

 

地元のでの呼び名は「ちょうなん・としえ」であり、その後親族のいた大阪のときには「おさなみ・としえ」としていたといいます。

 

このことから、どちらでも間違いではありませんが、「長南年恵(ちょうなん・としえ)」とした方がよいようです。

 

ここには、「長南年恵(ちょうなん・としえ)」の仏像があります(中央左側)。

 

この仏像を、超過敏なゾネスは嫌がっていました。

あまり波動はよくないことは判りましたが、なぜそれほど嫌がるのか、その時には判りませんでした。

 

このとき、「淡島大明神」の掛け軸も、写真画像も、良好な波動ではありませんでしたが―――

 

その仏像にバリアを張ると、「淡島大明神」の掛け軸も、写真画像も、良好な波動に変化しました。

 

なぜなのか―――この「長南年恵(ちょうなん・としえ)」の仏像には、「不成仏霊」が1000体以上反応していました。

 

成仏できずにいる「不成仏霊」は、そこかしこに、とてつもないほど多くいます。

 

仏教では49日、神道では50日で黄泉の世界の移行させる法要を行い、成仏させます。

 

以前にも書きましたが、「49日の法要」を行う僧侶の三分の2の人は、このことを実際には信じていない、といいます。

 

つまり、霊的な事象を心から信じていないで、形だけのお経をあげているのです。つまり、空念仏(かあねんぶつ)です。

 

実際に、親族の49日の法要に出席した時に、その方の霊魂が「葬儀の場」に来ていないことを幾度も体験しています。

 

このことは、阿闍梨の師からも幾度も聞かされています。

 

だから―――「49日の法要」を行っても、成仏できずに、不成仏霊として天に上がれずに残ってしまいます。

 

このような不成仏霊は、何としてでも上の世界に上がろうとして(成仏しようとして)、「般若心経」などをやっているときに、私の周囲に不成仏霊が寄ってくるので、一時期悩まされたことがありました(今は、問題はありません)。

 

さて―――「長南年恵(ちょうなん・としえ)」の仏像を浄霊・浄化することにしました。

 

簡易な浄霊を行い、この像に集まってくる不成仏霊の全てを成仏させました。

(おそらく、いくら成仏させても、次々と不成仏霊が集まってきてしまうと思われます)。

 

その結果、この空間の波動がグンと上昇しました。

 

このとき、ここにいる高波動の霊体と同調して、身体が前後に揺さぶられました。

 

特にタッキー(真ん中)は、後方にのけ反って、霊堂の外に転がり出てしまうのでは・・・・と、少し心配になるほどでした。

 

ここの空間に、「長南年恵(ちょうなん・としえ)」が来ていました。

長南年恵(ちょうなん・としえ)」として反応します。

 

長南年恵(ちょうなん・としえ)」は、ではどういう人物なのかというと―――

 

20歳のころから、ほとんど食事を摂ることがなく過ごした人物です。

口にするものは、「水」と「生のさつまいも」程度でした。

 

それでいて、空中から様々な物を取り出すことができました。

多くの不思議な現象を引き起こしていた、と言われたのです。

 

長南年恵(ちょうなん・としえ)」は文久3年(1863年)に山形県鶴岡市に、庄内藩士の長女として生まれました。

 

20歳ごろまでの経歴は不詳ですが、1874年の明治7年に鶴岡に小学校が開校した際には、入学できなかったといいます。

 

そのころから子守奉公をしていたところ、次第に予言めいた言葉を口走るようになり、それが的中することから、次第にその噂が広まり、多くの住民の相談にのることが多くなりました。

 

奉公先から「巫女(みこ)」として、開業することを勧められたといいます。

 

ここで人々の願いを叶える「神水」を出現させて、多くの人の病を救っていた、というのです。

 

神水」を分け与えて、その謝礼を受けて生活していたといいます。

空中から取り出す「神水」は、密閉した空の一升瓶の中に、人々が見ている前で満たした、といいます。

 

しかしながら、冷やかしで来た方や、病人ではない人には、「神水」は授かることがなく、空の瓶のままであったといいます。

 

当然、「医師の資格なしに病気治療をした行為」の詐欺容疑で、警察の知るところとなり、まず最初の逮捕となります。

 

証拠不十分で、山形県の鶴岡の拘置所に60日間拘留されますが、釈放されました。

 

翌1896年に、2度目の拘留をされます。

1週間拘留されますが、このときも証拠不十分で、釈放されました。

 

さらに、その4年後に3度目の逮捕となります。1900年のことです。

その時は、大阪にいて、同じく「神水」を出現させて、多くの人の病を救っていた、というのです。

 

その年の12月に、神戸地方裁判所で再審を受けることになります。

 

この裁判では、尋問が終了した後で、裁判長が

「この瓶の中に、神水を満たせることができるか・・・」

と問いただすと、

「はい、できます!」と答えて、密閉された空の瓶に神水を満たせた、といいます。

 

このとき、別室で何もない部屋で、全裸にされて何もないことを検査されて、

空の瓶に神水を満たせたので、これにより「無罪釈放」となりました。

 

しかし、この件では、「自分の尿」を入れたのではないかと詮索する方もいますが―――

 

大阪の朝日新聞の記者が、この一連の出来ごとに懐疑の目を向けて、

自分の目の前で「神水を引き寄せてみろ!」と要求したところ、ひとりでに「水」が入ったので、認めざるを得ない結論にいたりました。

 

 

このような経緯がありますので、「神水」を授かりたい方が、このようにペットボトルを置いて、この中の「水」を「神水」に変えてもらおうとしています。

 

しかし、ここにあるペットボトルには、何も反応していません。

ただ、置いておくだけ、願掛けをするだけでは、まったく何も反応はしないようです。

 

このことは十分に予測できました。

そこで―――

この壇の、左側の「薬師如来」像が「生きている」ことから、我々はここの前にペットボトルを置きました。

 

長南年恵」の守護神であろうと思われる「薬師如来」の霊力を頼みました。

 

反応では、「長南年恵」の「神水」の背後には、「薬師如来」がいて、その霊力を授かって「奇跡の水」を空中から取り出していたように思われるのです。

 

これが「長南年恵」です。

 

どこにでもいる古風な典型的な日本女性のようです。

この画像からも、背後にいる「薬師如来」を感知することができます。

 

長南年恵」はその後、山形県の鶴岡に戻り、44歳を前に亡くなりました。

亡くなる2か月前には、自分の死を予見していたといいます。

 

長南年恵」は、人々の病を救う使命を帯びて、現界に来たように思われます。

自分の使命を達成したようで、その後の転生はないように思われます。

 

この霊堂を支えるために、多くの方の寄付があるように思われます。

 

長南年恵」には、特筆すべきことがあります。

それは―――

 

長南年恵」は、昔から小食だったようですが、20歳ころにはほとんど食事をとらなくなりました。

 

生水とさつまいも等をごく少量摂る程度であったといいます。

 

これについては、鶴岡の拘置所に拘留されたときに、「水」も「食事」にも一切手をつけないので、心配した看守が少しでも摂るように頼んだので、少しだけ手をつけたといいます。

 

最初の拘留の時は3週間でしたが、風呂にも入らず、それでも髪や身体は清潔であったといいます。

 

排泄物もほとんどなかったといいます。

 

こうした神がかった力を認めない人たちもいます。

警察署にもそのような人物がいたから、60日間も拘留されることになったのです。

 

ところが拘置所でも不飲不食や、空中から「物」を取りだす「アポーツ現象」を起こして、周囲を驚かせた奇跡を認めさせるために、弟の長南雄吉は山形県監獄鶴岡支署長宛に「事実証明願」を提出しました。

 

この「事実証明願」は残っていて、8つの奇跡について書かれていたということです。

 

〇 排泄物(小便、大便)は、まったくなかったこと

〇 絶食して、強制された芋を少量のみ摂っただけであったこと

〇 拘留中に、署長の求めに応じて、監房内にて、霊水1ビン、お守り1個、経文、薬を何もないところから出現させたこと

〇 囚人の求めに応じて、薬をアポーツ現象で与えたが、後に囚人の身体検査で、薬の実在が確かめられたこと

〇 監獄内に「神々がご降臨します」と長南年恵が言うと、係官は空中から笛の音や鳴り物の音を聞いたこと

〇 毎夜 神々が長南年恵の髪を結ってくれたために、年恵の髪は常に結い立てのように艶があったこと

〇 一斗5升(27リットル)の水を大桶に入れて、容易に運搬できたこと

〇 夏でも蚊にまったく刺されることがなく、年恵一人だけ就寝時に蚊帳の外で寝ていたこと

 

この証明願は、表向きは却下されたものの、支署長からの返書には事実と認めることが書かれてあったといいます。

 

60日間もの長きに渡って拘留したので、さすがに黙殺することができなかったのだろうといわれています。

 

この霊堂の中には、かなり長いこと留まりました。

そして―――

 

我々は、次にこの「南岳寺」の「即身佛」に対面するために、外に踏み出しました。

 

            つづく

 

2023年1月24日記