《 出羽三山を巡る旅 8 》
「長南年恵霊堂」を出て、我々は本堂に向かいました。
ここに、「即身仏」があるからです。
ここには「拝観料」が必要で、写真の撮影は禁止である旨が書かれてます。
我々は、拝観料を支払って中に入りました。
「千手観音」です。
子年の守護を司ります。
「文殊菩薩」です。
卯年の守護を司ります。
これだけでは、この掛け軸の波動が高いのか、それほどでもないのか、よく判りません。
ただ、この書の最下部の中心に、本人と思われる手形があります。
ここからエナジーを取り込むと、「高波動の掛け軸」に変化しました。
これだけでは、それほどの波動ではありません。
これも「鉄龍海上人」の肉筆の掛け軸です。
梵字で書かれていますが、良好な波動を示します。
これも「鉄龍海上人」の肉筆の掛け軸です。
ここには、
本人の左右の手形があり、その左右の手から浮き上がる波動で、かなりの高波動を感知します。
中心に「石像不動明王」があります。
この波動は、良好です。
その右隣の、自然石の「大黒天」も良好な波動です。
その左側の魚籃観音(ぎょらんかんのん)は、あまり見ないものです。
この観音を念ずれば、「羅刹」「毒龍」「悪鬼」の害を除くとされています。
即身仏の存在が、ここの空間を覆っています。
最初は、その波動を感知できないと、それほどでもないように感じますが、一度その波動を感知しますと―――
全身に高波動がしみ込んでくるのが解るような気がしました。
この中心の画像は、「鉄龍海上人」の生家から寄贈されたものです。
左は「阿弥陀如来」です。
右は「不動明王」です。
どちらも、それほどの波動ではありません。
左の「大日如来」も、それほどの波動ではありません。
なぜ、「最後の即身仏」となるのか―――
それは、鉄龍海上人は1820年(文政3年)に秋田県で生まれ、16歳のときに鶴岡の南岳寺に入ったといいます。
なぜ16歳の若さで、仏門にはいったのか?
喧嘩して友人を殺めて逃れてきて、自殺しようとしてるところを、南岳寺住職の鉄竜海に救われます。
そして、鉄竜海住職の門人となり、南岳寺に来たといいます。
仏門に入り、熱心に修業して、頭脳明晰であり、その能力が高く評価されて南岳寺の住職になります。
1862年(文久2年)に、湯殿山の仙人沢で1000日に及ぶ山籠修行を成就します。
その後、岩手県の蓮正寺の再建に尽くすなどをして、明治14年(1871年)に62歳で入定します。
しかし、その前年に旧刑法が制定されて、「自殺ほう助」「墳墓発掘」などが禁じられていましたので、「即身仏」になることは、従来の手順ではできなくなってしまったのです。
「即身仏」になることは、一種の「自殺行為」とみなされます。
また、人の手を借りて、死んだことが確認されると、そのまま地下3Mに掘った石室を封印します。
それから3年3か月後(1000日後)に掘り起こして、「即身仏」を外に出しますが、これが「自殺ほう助」「墳墓発掘」に該当します。
つまり、石室を開封すること自体が違法行為となるのです。
旧刑法が施行されて、法に接触するとして、「即身仏」を目指す人は絶えました。
しかし―――鉄龍海上人は、入定を断行します。
湯殿山の千日沢で修業した行者として、最後の「即身仏」となったのです。
1000日後に石室を開封して発掘した信者達によって、全てが隠密裏に行われました。
そして―――数十年にわたり、鉄龍海上人が没したのは明治元年とされてきました。
この事実が明かされたのは、時効が成立した昭和になってからです。
その後、南岳寺は1956年に全焼してしまいますが、ご本尊と鉄龍海上人の即身仏には、火が及ばなかったといいます。
本尊の「聖観音菩薩」です。
ご利益は―――
いま現在の苦しみから救ってくれる、あらゆる災害から逃れることができる等。
苦難除去、現世利益、病気平癒、厄除け、開運、極楽往生など幅広いご利益があります。
この「聖観世菩薩」像は、残念ながら「生きていません」。
このように、多くの霊を鎮めていますが、ここの波動は良好ではありません。
一般の方がここに留まりますと、身体が歪むと思われます。
本堂を後にして、我々はもう一度、「長南年惠霊堂」に向かいました。
ここで再度、長南年惠の「霊」を呼び込んで、背後の守護神である「薬師如来」のエナジーを、全身に同調させました。
この画像から、全員の身体に「薬師如来」のエナジーが同調していることがお分かり頂けると思います。
こうして、1泊二日にわたる充実して日程を、無地終えて帰京しました。
了
2023年1月31日記