《 さらに東北を巡る旅 3 》
(早池峰神社(はやちねじんじゃ)と丹内山神社(たんないさんじんじゃ) その3)
早池峰神社(はやちねじんじゃ)を巡った後に、我々は丹内山神社(たんないさんじんじゃ)を目指しました。
約1200年の歴史を持つ神社で、坂之上田村麻呂東征の際に遡ります。
承和年間(834年~848年)に釈日弘堂を造り、不動明王を安置したと云われます。
源頼義や奥州の藤原清衡、さらには盛岡藩の南部氏らの信仰が篤かったといいます。
一方で、この神社の創建年代は、約1200年前の、上古地方開拓の祖神である多邇知比古神を祭神として祀り、承和年間(834~847年)に、空海の弟子の日弘が不動尊像を安置して、「大聖寺不動丹内大権現」としたとも伝わります。
いずれにせよ、神仏混淆により、平安後期は平泉の奥州藤原氏、近世は盛岡南部藩の郷社として厚く加護されていたと伝わります。
明治時代になると、廃仏毀釈により「丹内山神社」となりました。
道路に面して、「丹内山」と書かれた鳥居があります。
これは「一ノ鳥居」です。
「史跡 丹内山神社経塚」とあります。
経塚(きょうづか)とは、経典を土中に埋納した「塚」のことです。
つまり、丹内山神社には、「経塚」があるということです。
この経塚(きょうづか)は、麓にある丹内山神社の山頂近くにあるようです。
ここに、経典や様々な小物や貴重な白磁などが納められていたようです。
これは「二ノ鳥居」です。
この鳥居から先には、「結界」が敷かれています。
ここは、「女人結界」です。
全ての女性は、ここの鳥居を通過することで、浄化されます。
ここに参拝の順路が示されています。
「上段」―「中段」―「下段」とあって、境内を回る順路が示されています。
「上段」から進むようになっていますが、下の「下段」ら順番に進めますので、この案内板のようにはいかないようです。
この図の下―――つまり、「下段」から進みますので、「上段」から進むには、左側の途を進み、まず「本殿」のあるエリアから入る必要があるようです。
初めて訪れるのは、このルートは判りませんので、「下段」から入っていくことになります。
なぜ、このようなことが書かれてるのか、この時には全く解りませんでした(全ルートを回ったあとから、その理由に気付かされました)。
この先の小さな階段を上り、さらに境内を進むと、多くの方の体軸が歪むような反応を示します。
それは、その手前にある左右の樹木から先には、「邪念」を持った人が侵入することを許さないほどの、「霊気」があるように反応を示します。
しかし、通常の一般人なら、何事もないように入っていけるようです。
どうやら・・・ここには「霊的な結界」が敷かれているようです。
この丹内山神社は、思ったよりも霊格が高いようです。
丹内山神社と藤原清衡公の由来が書かれています。
坂上田村麻呂が東夷の際に参寵(さんちょう)されたことや、奥州平泉の藤原清衡が御堂108か所を建立して、百八体の仏象を安置したことなどが記されています。
御神木の「爺杉の根」とあります。
樹齢2000年前の古木と伝えられています。
根本周り12,12M、高さ60Mでしたが、大正2年に延焼して消失しました。
その根株を保存しています。
この丹内山神社には、「七不思議」があり、この「爺杉」もその一つで、この幹に「桐の木」が生えていたと伝わります。
この後、「丹内山神社の七不思議」が次々と姿を現してきます。
これは「四の鳥居」です。
ここの鳥居は、全人結界で、全て人が通過することで身体が浄化されます。
この先の階段を上ると、一気に高波動ゾーンに入るように反応を示します。
この先の右側に「御神楽殿」があります。
神秘的な雰囲気が漂ってきます。
さらに進むと、ここに参拝するほとんどの方の体軸が整ってきます。
不思議なほどの空間になります。
ただし、邪気を持った性格がよろしくないような方は、ここでは拒絶されますので、さらに身体が歪んできます。
試しにテレビに出ているお笑い女芸人達を、ここに入れてみました。
人を蹴落としてでも自分だけが目立ちたい、爪痕をのこしたいと無理をする女芸人は、ことごとくこのエリアで歪みました。
テレビに出たての若いお笑い女芸人達の大半は、ここで歪みます。
しかし、
以前からよくテレビに出ている女芸人達は、このような反応を示しません。
つまり―――簡単に、その人を分別することが出来そうな空間です。
ついでに自分の身の回りにいる方々を、ここの空間にイメージで入れていると興味深い結果が得られると思います。
さらに興味深いことに、何かの新興宗教や、スピリチュアル系に関わってる方がいましたら、その方が本当に信頼に値する方なのか否かを判断するのに、
ここに空間にイメージで入ってもらうころで、簡単に判別することができます。
マイナス波動の、信頼のおけない方でしたら、即効で身体が歪みますので、その方の良し悪しがすぐに分かります。
例えば―――
訪問販売の方や、振り込み詐欺の方であれば、その判断の役に立つと思われます。
正直な方か、信頼がおけない方なのかも、直ぐに判断を下せると思います。
そのような身体が歪む方々を分別しましたら―――
ここの「御神楽殿」の中に入れて、踊らせると―――
不思議なことに、皆の体軸が取れて、身体が整ってきました。
試しに、テレビに映る凶悪犯達も、この中に入れて踊らせると・・・・、
身体に溜まった「邪気」が抜け落ちてきて・・・・人格すら変わるように反応を示します。
このことは、別に凶悪犯ではない、通常のそこら中にいる「怠け者」や「勉強嫌いの子ども」でも、効力を示しそうに思われます。
昔、あるスポーツの合宿に行き、生意気な小学生がいて、引率者の指導にまったく従わず、私も「生意気なガキだ!」と思ったし、実際に引率の責任者が完全に怒って、その子供を痛めつけたことがありました。
その子供を思い出すと、家庭内の不和からの反発が強く反応していました。
その子供を、ここの「御神楽殿」の中で踊らせると、不思議なほどに正常化して、「生意気さ」が消えていました。
もしかしたら、指導に困っているような子供がいたら、「この中で、踊らせる」といいかもしれません。面白い発見でした。
この右側に手前の石は、「弓射場跡」とあります。
源義家が、この石の上で弓を射たと伝わります。
とくに波動が高いようではありません。
これは、「八幡神社」です。
この隣に、「加茂神社」もあります。
この波動は良好です。
「八幡大明神」のエナジーを感知します。
加茂神社 加茂次郎義綱勧請とあります。
右二社一棟造
源頼義が東征の際に宿陣し、朝敵追討を祈願したと伝えられています。
このように書かれています。
どういうことなのか―――調べてみました。
長元元年(1028年)、かつて父・頼信の家人であった平忠常が関東において反乱(長元の乱)を起こすと、長元3年(1030年)に朝廷より命じられて、源頼義は父とともに忠常討伐に出陣しました。
それまで国府軍や官軍を大いに打ち破ってきた平忠常でありましたが、武勇に優れた頼信・頼義親子が追討軍として派遣された事を知ると、瞬く間に朝威に服したと謂われています。
源頼義は、この反乱平定に際して抜群の勇決と才気を示す活躍をしたとされています。
この階段を上ります。
この階段から先が、「中断」となります。
すると―――さらなる不思議な空間へと誘われました。
つづく
2023年2月28日記