《 陸軍中野学校の果たした役割を追う 1 》
大東亜交流圏その1(序章)
その昔、今から26年前に、グアム島のジャングルの中に、太平洋戦争の終結後に、28年間も隠れていた残留日本兵が見つかりました(1972年)。
米軍がグアム島に上陸して、壊滅した日本軍は、ジャングルに引きこもってゲリラ戦を展開していたといいます。
その後、無条件降伏をした残留日本兵に向けて、幾度も投降することを勧める放送を行いましたが、横井正一元日本兵等は、「日本が負けた」ことを信じずに、昼間はジャングルに潜み、夜間は食料を求めてさまよう生活を続けていました。
5人の残留日本兵がいましたが、その後二人が投降し、二人が力尽きて、残った横井正一氏が一人となり、地元民に発見されて、取り押さえられました。
そして、「恥ずかしながら・・・帰ってきました」の名言で日本に帰国しました。
実に28年間もの残留生活でした。
日本では、「戦死」扱いとなっていました。
横井正一氏は、軍事教育を受けていますので、「生きて日本に戻ることはない」と決意していました(その当時の記憶は残っていました)。
今でも覚えていますが、当時の福田総理に、慰労金として「10万円」もらいましたが、「これで一生楽に生活できる・・・」と喜んだと伝わっています(出征当時の貨幣価値のままでしたので、10万円は大金でした)。
横井正一氏は、グアム島で、地元民が「残留日本兵」だと気づき、素手で殴りつけて失神させて、家族を殺した「残留日本兵」を殺そうとして、銃の引き金に指をかけました。
しかし、仲間に止められて、「生きたまま」取り押さえられました。
このとき横井正一氏は、57歳となっていました。
日本国中が、28年間もの長きに渡って残留していたことに驚き、感動を日本国中に与えたのは、多くの方の記憶に残っていました。
そんな日本国中を感動させた横井正一氏に続き、フィリピンのルバング島には、さらに残留日本兵がいるのではないか・・・と世間で騒いでいました。
そんなある日(1974年)、実際にフィリピンのルバング島に渡った冒険家鈴木紀夫氏が、テントを張って「戦争は終わっています。出てきてください」と表示したところ、暗くなった夜に男が銃を持って現れました。
それ以前に、この冒険家鈴木紀夫氏はその男と接触していて、「上官の命令がない限り、投降することはできない!」と語っていて、
それで、かっての上官であった人物が「命令書」を持って示すことで、ようやくこの男―――小野田残留日本兵(元少尉)は、自らに課した上官の命令を受けて、投降を決意しました(最初は、戦争が終わっていることを、まったく信用しませんでした)。
というのも、陸軍中将から―――
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。一人でも残っている間は、部下の兵隊を使って頑張ってくれ。重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん!」
このように、日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けていました。
なぜなら、小野田寛郎元残留日本兵は、陸軍中野学校の出身者だったからです。
陸軍中野学校とは、簡単に言うと、「スパイの養成機関」です。
「諜報活動」に従事する専門家の集団です。
戦国時代でいえば、甲賀、伊賀の忍者集団のような養成機関です。
表立って活動することはなく、すべて裏の活動をする専門家養成機関です。
小野田寛郎元残留日本兵は、情報将校としてルバング島に派遣される前に、日本軍の上層部が秘匿している―――もし日本が占領されても、連合国と戦い続ける計画があったことを伝えられていました。
また、小野田元少尉は派遣前に、自分の母親から短刀を受け取っています。
その時、母親には、
「敵の捕虜になる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください・・・」と言われています。
この母親あっての、その子供の覚悟が伺い知れます。
小野田元少尉は、「残置諜者」および「遊撃指揮」の任務を与えられて、フィリピンのルバング島に渡り、飛行場の破壊などの命令を受けていましたが、米軍の圧倒的な砲撃に晒されて、ジャングルに逃げ込んでいました。
終戦後、幾度も「敗戦通告」と「投降通告」を行いましたが、その呼びかけに応ずることはなく、フィリピンは戦後、米国から独立しましたが、米軍はフィリピンに留まっていました。
これを小野田元少尉は、フィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈して、その後も持久戦により、米軍のレーダーサイトへの襲撃や狙撃を繰り返していました。
終戦後も、実に計百数十回もの戦闘を展開していました。
横井正一氏は民間人であり、特別な訓練も受けずにグアム島に派遣された、町の洋服屋でした。
はっきり言って、「敵前逃亡」して、ジャングルで生きながらえていた人物です。
しかし、
小野田元少尉は、「残置諜者」および「遊撃指揮」の任務を与えられた陸軍中野学校の出身者です。
英語も話せるし、諜報活動のエキスパートです。
ですから、生き残った後でも、果敢に活動を継続していて、「祖国のために・・・」との強い思いから、米軍のいる飛行場にも忍び込んで破壊工作を実践していたのです。
その当時の評論家が、小野田元少尉を評して、様々な見解を述べていましたが、
その中でも
「小野田さんは、日本のために闘うという大きな使命を与えられて、これこそが、29年間もの長きに渡って生き残ってきた背景ではないか」
という評論家が、一人だけいました。
小野田元少尉は、その評論家の見解が、「最も自分の胸に響く!」と言っていました。
諜報活動は、表に出ることはありませんが、「祖国のため」「日本の未来のため」「天皇のために、力の限りを尽くす・・・」という、この世で与えられた使命を全うすることで、常に大きな使命感・感動を持って生きていた―――というのが、その実相のようでした。
そこで、今回はそのような人物を育んだ「陸軍中野学校」に焦点を当てて、「陸軍中野学校」が果たした役割を、追っていきたいと思います。
というのは―――
小野田元少尉は、陸軍中野学校二股分校の出身です。
それも在籍期間は、わずか「3か月」しかいませんでした。
それなのに・・・・29年間も闘争を継続して、上官の命令がない限り投降はしない、という強烈な決意を持続し続けた背景に、陸軍中野学校の教育の凄さを見せつけられました。
これだけの短期間で、人を激変させるその教育内容の凄さに、多くの方の関心が寄せられました。
しかし―――「中野は語らず」という言葉あるように、陸軍中野学校の出身者は、戦後になっても、ほとんど語ることはなかったといいます。
ときどき、「あのおじいさんは、元陸軍中野学校出身者だったのよ・・・」ということを聞くことがありましたが、そのことは世間には広まりませんでした。
思い起こせば―――私の母の同僚に、元陸軍中野学校出身者がいたといいます。
しかし、彼はほとんどそのことについては語らなかったといいます。
ただ、私の母が窮地にあったときに、上司に向けて一通の手紙を書いてくれたといいます。
これを読んだその上司は、このような方を手助けすることこそが、我々に与えられた責務である、といって、話はトントン拍子に進んだといいます。
今では、どのような手紙をしたためたのか知る由もありませんが、人の魂を揺さぶる内容であったのではないかと思われます。
陸軍中野学校では、人を凋落する術(すべ)から何まで、様々な技能の訓練を受けていたといいます。
大昔に、市川雷蔵が主役で「陸軍中野学校シリーズ」の映画がありました。
大日本帝国陸軍中野学校として、1966年に第1作が放映されました。
私は、映画館ではなくて、その後のテレビ放映されたときに観た記憶がありました。
スパイ映画でしたので、子供の頃は『週刊少年サンデー』などで掲載される忍者系の話に興味をそそられていました。
その延長線上にある「スパイ」のやり方など、今では子供だましですが、真剣に「尾行の方法」や、机の下に隠れていて、人の会話を盗み聞きすることなどをやっていた記憶があります。
このような諜報活動は、実際の対外国政策には必須のものとなります。
陸軍中野学校が設立される以前には、格好のモデルがありました。
ドイツ皇ヴェルヘルム二世に「この男一人で、20万の兵力に匹敵する」といわしめた成果をあげた武人がいます。
明石元二郎です。
画像(明石元二郎)
明石元二郎といっても、多くの方は初めて耳にするかもしれませんが、日露戦争での活躍は目覚ましく、日本の決定的な危機を救った人物といってもいいかもしれません。
参謀次長の長岡外史は、
「明石の活躍は、陸軍10個師団に相当する」
といわしめましたし、ドイツ皇帝ヴェルヘルム二世も
「明石一人で、満州の日本軍20万に匹敵する」と言っていました。
どういうことなのか―――
裏の顔はロシアで諜報活動を行うスパイでした。
ロシア国内で反乱分子の活動を支えて、ロシアの国力をそいでいく破壊活動を行っていました。
彼は、参謀本部より渡された100万円、現在の数百億円で、様々な工作活動を行ったのです。
日本は、「清国」と日清戦争を戦い、圧倒的な勢いで勝利を収め、「眠れる獅子」と恐れられていた「清国」を叩き潰し、療養半島を手に入れました。
勝利に酔いしれて、日本国中が浮かれ上がっていると、大国ロシアとの戦争が避けられない状況になってきました。
しかし、ロシアと日本とでは、その国力に雲泥の差があります。
まともに戦っては、まず勝てる相手ではありませんでした。
それ以前に、ロシアの国内状況を詳細に分析する必要があり、そのためにロシア国内の状況を実際に見聞して、その弱点も見出していました。
〇 まず、ロシアの上流階級の先制横暴と退廃がありました。
上流階級の人間が、庶民を困窮させて、政治も退廃していました。
〇 社会底辺の労働者や農民たちには、不平不満が鬱積している。
〇 ポーランドやバルト三国、フィンランドなど、ロシアの支配下に置かれて国家、民族などの不満が爆発寸前で、独立運動勃発の状況にある
このような状況を把握していましたので、明石元二郎はロシア国内外に入り込み、様々な工作を行ったのです。
独立運動の活動家に、大きな軍資金や武器を調達して、反乱を起こすようにしむけました。
反乱を目論む団体を団結させて、反乱軍、独立運動団体として、反乱を引きおこしたのです。
反政府の独立運動家を一堂に集めて、結束させました。
彼の諜報活動を物語るエピソードがあります。
ロシア国内に潜入して、政府関係者のパーティに潜り込みました。
そのパーティでロシア人将校とドイツ人将校がいましたので、近づきました。
すると、ドイツ人将校が彼に「フランス語が話せるか?」と聞いてきました。
明石は、「フランス語がやっとです・・・」とたどたどしい言葉で返すと、
油断した二人の将校はドイツ語で話を始めました。
しかし、明石元二郎はフランス語はもとより、ロシア語、ドイツ語、英語を完全にマスターしており、機密情報を得たことがありました。
一方で、日露戦争では、東洋のバルチック艦隊を完膚なきまでに壊滅させた「日本海海戦」で、東郷平八郎が英雄になりました。
また、旅順の要塞攻撃を指揮した乃木大将も、国民的な英雄になりました。
乃木希典の名は、敗戦の将を手厚くもてなした武士道精神が、世界から称賛されました。
難攻不落と云われた旅順要塞を陥落させて、乃木大将は多くの兵を失ったことに、痛く傷ついていました。
それに気づいた明治天皇から、ねぎらいの言葉を頂きましたが、その明治天皇が崩御したときに、乃木希典は妻と共に自害して殉死をしております。
この報が世界に流れると、「サムライが義を貫いた」「日本の美学、武士道だ」と世界から感動と称賛されたのです。
というのは、旅順で降参したロシア兵士は、そのプライドを傷つけないように丁寧に扱ったのです。
乃木自身も、日露戦争で自分の弟と息子の二人を失っています。
だが、
捕虜となったロシア兵たちは、ポースマス条約(和平条約)ができるまで、九州の地に収容されていました。
和平条約が調印されて、祖国に帰れるとなったのですが、捕虜の多くは帰国を拒否していたのです。
祖国に帰るよりも居心地がよかったようなのです。
このようなあり方を見せた男こそ乃木希典で、世界から武士道精神として称賛されたのです。
私は、歴史小説家の司馬遼太郎の本を読んでいましたので、乃木希典は「愚将」のイメージが付いていましたが、実際には名将だったことを、後から知りました。
しかし、ほとんどの日本人は、明石元二郎については知りません。
ドイツの「日露戦争全史」では、
「東郷はロシア艦隊を撃破したが、明石はロシアの心臓部に攻撃を加えた」
と記しています。
どういうことなのか―――
日本は、ロシア相手に「日本海海戦」で劇的な勝利を上げて、旅順の難攻不落の要塞を撃破しました。
しかし、ロシアの国力は、日本との力の差は大きく離れていました。
そのまま日露戦争を戦い続けていれば、日本の敗戦は必定でした。
そうなれば、日本はロシアの属国となって、その後の日本の繁栄はあり得ませんでした。
しかし、明石元二郎のロシア国内やポーランドやバルト三国、フィンランドなどの反政府勢力の革命的な戦いが勃発していて、極東の日本に兵力を差し向ける余裕はありませんでした。
ロシア国内では、暴動や武装蜂起が頻発していて、これらの工作が「ロシア革命」の引き金となっていました。
そこでロシアは仕方なく米国大統領の仲介を受け入れて、日本との終戦調停を行ったのです。
つまり、明石元二郎の背後での活躍が、ロシアの敗戦を許諾させたのです。
このことは、白人社会が、白人以外の人種に敗れた世界初の快挙となりました。
アジアの多くの国々は、白人の植民地にされて、骨の髄までしゃぶられていました。
黒人種はもとより黄色人種も、白人種にはとうてい敵わないと思われていたのが、日本人が白人の巨大な国家を打ち破り、黄色人種でも白人国家を打ち破れるという事実が、世界を席巻したのです。
そして―――陸軍中野学校の出身者は、社会一般にはあまり知られていない活躍の場がありました。
もう少し序章を続けてから、本論の「陸軍中野学校出身者の活躍」に迫っていきたいと思います。
つづく
2023年3月14日記