生命体エナジー浄化の会ブログ

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陸軍中野学校の果たした役割を追う 2

《 陸軍中野学校の果たした役割をを追う 2 》

大東亜交流圏その2(序章2)

 

日本では、「太平洋戦争」については、「大東亜戦争」と表現してきました。

しかし、日本に駐留したGHQによって、「大東亜戦争」という表現は禁じられました。

日本が掲げた「大東亜共栄圏」に関わるからです。

 

それだけではなく、駐留GHQは、日本の古来から伝わる伝統文化を破壊するために、実に7000冊の「焚書(ふんしょ)」をしています。

 

焚書」とは、支配者にとって都合の悪い書物を焼き払うことです。

教科書にも、駐留軍にとって都合の悪い個所は、墨で消されました。

 

すべて日本の古来から学んできた伝統文化を、徹底的に排除して教育改革を行いました。

 

日本は、「大東亜戦争」として、日本だけでなくアジアの諸国の「大東亜共栄圏」という構想を持っていました。

 

欧米諸国に、アジアの諸国は植民地化されて、様々な搾取をされていました。

白人種からすると、黒人も黄色人種も人ではない、動物並みに見られていたのです。

 

インドも英国の植民地にされて、住民は家畜のように扱われていました。

中国の「清」も英国にアヘン戦争で、川の水が血で真っ赤に染まるほどに殺戮されて、香港が英国に支配下になり、莫大な賠償金を支払わされていました。

 

アジアの諸国では、唯一日本とタイだけが独立を守っていました。

日米戦争前のアジア

英国、フランス、オランダ、米国の植民地となっていました。

 

見てわかる通り、英国の植民地はインドのみならず、清(中国の一部)からパキスタン西アジアにかけて、広大な面積を支配していました。

 

歴史的には―――

 

スペイン、ポルトガルの海洋帝国がアジアに進出してきて、アジア諸国を植民地化していきましたが、彼らの侵略する手段はーーー

 

まず、宣教師を送り込んで、地元にキリスト教を布教して、住民を虜にして、支配者に反旗を翻らせて、植民地にすることでした。

 

日本もこれと同じで、1549年年に種子島にフランシスコ・ザビエルが流れついて、それが「鉄砲伝来」とされています。

 

日本では、初めて目にするその鉄砲の複製品を造り、鉄砲が伝来してから25年の間で、織田信長の頃には、鉄砲の保有数は世界でも有数の国の一つになっています。

 

日本とは―――新しいものを取り入れて、それを進化・開発する技術は世界一といわれる技能が高い国なのです。

 

フランシスコ・ザビエルが来日して、キリスト教を布教しますが、これはポルトガルが日本を植民地化するための手段の一つでした。

 

キリスト教が九州に広まり、キリシタン大名が出現してきますが、この多くは奴隷貿易に関わっていました。

 

鉄砲の火薬の原料などの購入費として、日本人女性の多くが奴隷として連れ去られました(火薬一樽で、女性50人が奴隷船に詰め込まれました)。

 

「隣人を愛せよ」と謳うキリスト教の宣教師は、奴隷貿易に加担していました。

これを知った豊臣秀吉は、連れ去られた奴隷を買い戻し、南蛮貿易を禁じます。

 

徳川家康も、スペイン、ポルトガルキリスト教を布教させて、為政者に反目させて、内部から崩壊する意図を見抜いて、「伴天連禁止令」を行います。

 

キリスト教禁止や島原の乱の背景には、このような裏の歴史がありました。

表の歴史だけを論じても、その背後にある問題は気が付かないものです。

 

常夏の観光地であるハワイも、同じようなことが行われました。

ハワイは、米国の50番目の州となっていますが、米国の州になる前には、ハワイには王国がありました、

 

太平洋のど真ん中にあるハワイ諸島は、イギリス人の探検家に発見され、植民地支配を目論む欧米との交流が始まりました。

 

このことに危機感を感じたカメハメハ大王は、近隣諸島を統一してハワイ王国を築きました。1810年のことです。

 

カメハメハ大王は、欧米からの侵略に対抗するために、国内を整備して、軍備を整え、白人からもたらされた病気、伝染病を治療する施設も造りました。

 

しかし、米国のスパイ組織の手が浸透を始めます。

カメハメハ大王崩御すると、スパイ組織は現地人の中に入り込み、住民を洗脳していきます。

 

そして、王国の内部に入り込み、反乱を起こさせます。

クーデターでハワイ王国は滅びます。

 

こうして、あっという間にハワイ王国は100年間の歴史の幕が閉じられて、米国の支配下に置かれてしまったのです。

 

この米国のスパイ組織とは、「キリスト教の宣教師」です。

「布教」という仮面を被り、ハワイに入り込んでクーデターを引き起こしていたのです。

 

このような可能性も日本にはありましたが―――

 

この鎖国政策が、他の東洋の大東亜諸国が、欧米に植民地化されていった状況から日本は回避できたことにもなりました。

 

この鎖国政策を破って、日本人を海外に目覚めさせたのが米国です。

ペリーが来航して、江戸幕府を脅かしました。

 

幕府は慌てて、1年後に返事をするとして、その後開国することになりますが、「不平等条約」を結んだことに攘夷派の志士たちは、幕府打倒を宣言します。

 

ここに「安政の大獄」が始まりました。

吉田松陰や橋本佐内など、多くの有能の志士たちが命を落としています。

 

しかし、ペリー来航の折に、直接交渉役に起用された林復斎(ふくさい)の偉業は、あまり語られていません。

 

最初にペリーが浦賀に来た時、米国のクジラ捕獲の船の補給と乗組員の遭難の際の救助を願いたい。

これは国際条項のひとつである、と言っていました。

 

2度目の来日のときには、交渉役の林復斎(ふくさい)は、一歩も怯むことがなく、堂々と渡り合ったという記録が残っています。

 

それは―――

ペリーは来航すると、「天皇を祝して・・・」と大砲を打ちます。

さらに「江戸幕府を祝して・・・」と大砲を打ちます。

もう一度「米国を祝して・・・」と大砲を打ちました。

 

あきらかに、米国の最新式の大砲の凄さを見せつけて、東洋のこのような小さな国など、いつでもすぐに亡ぼせるのだぞ―――と脅かしたのです。

 

しかも、日本の近海に50隻、米国にも50隻の船が待機していて、いつでも日本を制圧できると脅していたのです。

 

しかし、林復斎(ふくさい)は全く動ずることはなく、淡々と交渉を続けます。

 

ペリーは、「まず捕鯨船への燃料、水の補給をしていただきたい」と言ったことには、

林復斎は「それについては了承した。これは国際法に従う」と述べました。

 

ペリーは、「幕府は外国船を打ち払う」と言ったのに対して、「これは以前の話である。今はそのようなことはない」と伝えます。

 

しかし・・・

「開国というのは、別の話であって、ここでの論外の話であるので、これは了承するわけにはいかない。

さきほど、貴殿は燃料、水の補給をしていただきたいと言ったのであるから、話はこれ以外には譲ることはできないのは、理の当然のことである」

 

さらにペリーは、「日本の港を最低でも8か所開港してもらいたい」というのには、

「燃料、水の補給をすることは了承したのであるから、下田と函館の2か所以外に認めることはできない」と断固として突っぱねます。

 

さらに、上陸してからの行動範囲にも制限を設けて、勝手に日本の国内を移動することは禁じています。

 

このように答えると、ペリーは押し黙ったまま、しばらく沈思黙考して、

「開港して、貿易できるようにしていただきたい」と切り返してきましたが、

 

これにも林復斎は「否。今回の交渉は、難破船の救助と燃料、水の補給に限る」と答えて、完全にペリーを沈黙させたのです。

 

ペリーはその後の1カ月に及ぶ交渉を通して、「英国、フランスが日本に攻め込んできたら、わが米国は日本を助ける」とまで言ったのです。

 

ペリーは、最終目標である「日本の開国」は果たせませんでしたが、この交渉のことを記していて、「日本人は、驚くほど勤勉で教養が高いものであった」と述べています。

 

そして・・・・「日本は、将来米国の強力なライバルとなるだろう・・・」と述べていました。

 

それからおよそ80年後に、再びペリー来航のように、ダグラス・マッカーサー元帥が、駐留軍GHQの最高司令官としてやってきました。

 

ダグラス・マッカーサーとは、彼の伝記を読むとまさに天才でした。

士官学校での成績は、平均93点だったかの歴代最高の成績を残していました。

 

このマッカーサーは、太平洋戦争が始まるとフィリピンの戦いで日本軍に敗れます。

日本軍など、「サルのような野蛮な民族に、負けるはずはない!」となめていましたが、驚異的な日本軍の攻撃にさらされて、ほうほうの体で逃げ出していました。

 

このときの有名な言葉が、「アイ・シャル・リターン(必ず戻ってくる)」です。

 

なぜ日本軍は強いのか。

当初予想していたよりも、日本軍ははるかに強かったのです。

 

黄色人種で、チビで、小さな島国なのに、なぜこれほど強いのか・・・・?

 

進駐軍の最高司令官であるダグラス・マッカーサーは、フィリピンで日本軍に手痛い目にあっています。

 

アメリカ最強と言われた米第一海兵師団を統率して、日本軍のいるフィリピンに向かいましたが、壊滅状態に追い込まれました。

 

その一つ、ベリリュ―島を守る日本軍は1万人でした。

しかも、日本軍の95%は民間人でした。軍人ではありません。

 

ベリリュ―島に襲来した米軍は、6万人でした。

「こんな小さな島、3日もあれば片付く」と、米第一海兵師団のルパータス少将は息巻いていました。

 

しかし―――米軍最強と言われた米第一海兵師団は、歴史上最大の死者を出して壊滅状態になりました。

「200人の優秀なアメリカ兵を失って、殺したジャップは、たった50人だと!」

「500人の間違いじゃないのか? 本土の奴らに報告できないだろう!」

司令官が叫ぶほどであったといいます。

 

このベリリュ―島に来た日本軍は、当初現地の住民に怖がられていました。

しかし、日本の兵隊は優しく(ほとんどが民間人)、地元民と交流を深めていきます。

 

戦争が悪化して、日本軍が後退し始めた頃、現地の民間人も「我々も戦いに参加したい。ともにアメリカ軍と戦いたい!」と申し出ます。

 

この訴えをジーっと聞いていた日本の司令官は、

「お前らと、帝国軍人が一緒になど戦えるわけがない」と切り捨てます。

 

現地の民間人は、あれほど一緒に交流して、歌まで共に歌ったのに「裏切られた・・・」と屈辱の思いを持って、島を離れることになりました。

 

島民が島を離れるときに、一斉に日本軍の守備隊が浜辺に出てきて、全員が手を振っていました・・・・。

 

玉砕覚悟の日本軍は、その後3か月間も米軍の攻撃を耐え忍び、全員が玉砕。

島民は全員は無事でした。

 

守備隊長は、日本軍が玉砕する可能性を知っていました。

地元民全員を他の島へと移して、誰一人として犠牲者を出しませんでした。

 

最後の沖縄戦では、日本の敗戦はもはや誰の目にも明らかでした。

米国の艦船全てを集結させて、艦砲射撃を行い、陸地が変わってしまうほどの攻撃を行った後に、沖縄に上陸してきました。

 

その当時、さすがの米国も3年以上に及ぶ戦争のために、経費を使い果たしてきていました。

早く戦争を終わらせる必要に迫られていました。

 

簡単に沖縄などは1か月もあれば占領できる、と考えていましたが、なんと3か月もの期間を要していました。

 

これでいざ本土に向けて進行することになれば、一体どれほどの犠牲を強いられるのか―――最終手段として、「原爆投下」は止む無しの意見が大半を占めます。

 

本来、戦争とは民間人を巻き込まずに、軍人同士の戦いが世界の共通認識です。

しかし、

民間人を対象としての殺戮が、許されるはずはありません。

だが、米軍は民間人を無差別に爆撃していました。

 

米国は、「原爆投下」を決行します。

民間人の無差別の大虐殺を決行しました。

そして、終戦を迎えました。

 

一部の日本の軍人には、本土決戦を真剣に考えていました。

米軍が本土に上陸してきたら、徹底的に戦い抜く覚悟を持っていました。

 

しかし、天皇陛下が、直接ラジオ放送で

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・」と言ったことから、反乱を目論んでした軍人たちも観念して、反撃を断念したのです。

 

天皇陛下が自ら終戦を宣言したことで、本土決戦を諦めたのです。

 

進駐軍GHQマッカーサーは、

日本軍が異常に強いのは、「天皇制」と「その教育」にあるとして、

 

まず、日本人からこれら2つの精神的な支柱を取り去ることを画策します。

勝者の米英、中国、ロシアも皆が、戦争責任の第一として天皇処刑を考えていました。

 

しかし、進駐軍GHQマッカーサーの元には、日本国中から

「もしも、天皇陛下様に何かあったら、我々日本人は、未来永劫 決して許すことはない・・・」

と、多くの国民からの手紙が届けられました。

 

当然、日本の代表者達は、「天皇陛下様だけは、決して処罰をされないように」

「もしものことがあれば、再び我々は立ち上がり、日本国中の全ての人民が、最後の最後まで、戦いを続けることになる!」

と、異口同音に発言していました。

 

これでマッカーサーは、天皇の存在は認めるが、天皇統帥権は剝奪して、「象徴」となる憲法改正に踏み切りました。

 

戦後、日本に駐留したGHQによって、日本の教育界は破壊されました。

 

古来から伝わってきた日本の文化の良きところも悪しきところも、強い日本人の背後を支える優れた伝統文化も、「強い日本を二度と見たくない!」という進駐軍GHQ思いから、日本の教育界から多くの人物を追放しました。

 

公職追放」により、日本の文化を教える教職員の12万人が追放されました。

そして、反日左翼の教職員が教育界に入ってきたのです。

 

日本の伝統教育を破壊して、日の丸掲揚に反対する「日教組」も、これを契機として教育界に入ってきました。

こうして、古き良き伝統の日本文化を、GHQは破壊してきました。

 

教職員から日本の伝統文化を重んじる識者・教員を追放して、GHQの言いなりになる指導者・教員に入れ替えたのです。

 

さらに、GHQは7000冊の焚書をしています。

ありとあらゆる日本の文化遺産を潰しにかかったのです。

 

私は、戦後に生まれました。

日本人に流れている本質的な価値観を否定するような教育も受けてきました。

 

子供の頃に、ジープに乗っていた米兵に手を振ったら、「母親と一緒に乗れ!送ってやる」と言われたことがありました。

母親は、懸命に「ノー、ノー」と断っていましたが、私は憧れだったアメリカ人のジープに乗りたかった記憶があります。

 

進駐軍GHQは、徹底的に日本を貶める策を、日本人に植え込みました。

その最たるものが、「東京裁判」です。

 

東京裁判」の中で、日本は戦争責任を問われ、戦勝国は善で、敗戦国は悪のレッテルを張られましたが、いまだに「東京裁判」の影響が色濃く残っています。

 

それは、日本の戦争は「侵略戦争」であるとされたことです。

日本は、他のアジアの国々に侵略したので、日本が悪いとされた教育を、戦後受けています。

 

侵略戦争」であるから、日本人は侵略した国々に償う必要がある―――このように教え込まれました。

 

いまだに中国も韓国も、日本の英霊の鎮まる靖国神社の参拝を非難し続けています。

何かにつけて、反日の態度をとることで、韓国では政権の支持が高まります。

 

しかし、これについては元韓国の朴(パク)チョンヒ大統領は

「日本が韓国を併合したことで、日本の本土を同じ教育受けることができた。

そのおかげで、私は大統領にまでなれた。

 

その当時、韓国は、ソ連か中国か日本かの国を選ばなくてはならない状況下にあったが、日本を選んだことはよかったと思う・・・」

このように述べています。

 

日本が韓国を併合したことは、世界が認証していましたし、日本の本土とまったく同じ教育を受けさせたのです。

 

植民地化ではなかったのです。

欧米は、アジアの国々を植民地化しましたが、教育をすることもなく、搾取することが目的でした。

 

共に国を発展させようなどとは、まったく思っていませんでした。

 

また、現在の韓国の尹錫悦大統領は慶応大での講演で、日本が第2次大戦後、自国の経済発展にとどまらず、途上国に対する世界最大の援助国の一つとして「国際社会でも責任と貢献を果たしてきた」と述べています。

 

日本の戦後の歩みを肯定的に評価したことは、以前までの対日批判外交の政権とは一味違います。期待が出来そうです(ただ、韓国の国内では当然反発があります)。

 

ところで、戦前までは「八紘一宇(はっこういちう)」という文字があり、わが国では当たり前のように使われていました。

 

戦後GHQによって、この文字の使用は禁じられましたので、今では知ることが少ない文字となっています。

 

これは―――

世界に平和をもたらすことを基本とした、日本・満州支那のつながりを持って、大東亜(アジア)の新秩序を建設する大東亜共栄圏の精神を意味しています。

 

この大東亜共栄圏の精神をもって、多くのアジアの国々を統治して、白人の植民地からの解放をしました。

 

その統治は、白人の「搾取する統治」とは全く違っていました。

 

東京裁判で、日本は「侵略国家」とみなされてしまいましたが、それは違います。

戦勝国によって、教育界に植え込まれた事実と反するものです。

 

ミャンマー

バー・モウ(元首相)

「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させた国はない」

 

マレーシア

ガザリー・シャフィー(元外務大臣

「日本がどんな悪事を働いたと言うのか。
大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。
わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。

私はまだ若かったが、あの時は、神の軍隊がやってきたと思っていた。
日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ」

 

インド

ハビプル・ラーマン(元インド国民軍大佐)

ビルマインドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配が一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない」

 

これらは、ほんの一例です。

 

多くのアジアの国々は、日本が白人国家と戦い、敗れはしたが、それが契機となって独立できたことに感謝こそしれ、決して日本が「侵略戦争」をしたなどとは思っていないことは、明らかなのです。

 

しかし、自民党が政権の座を追われて、社会党村山富市氏が首相になったとき、護憲派の巨頭土井たか子氏(社会民主党党首)と共にアジアの諸国を回り、日本が「侵略戦争」をしたとして、謝罪をしたことがありました。

 

そのときに、マレーシアの首相であった親日派のマハティール氏に

「あの戦争で、アジアの諸国が白人支配から脱却して独立ができました。日本人として謝罪などする必要はありませんよ」と窘(たしなめ)られたことがありました。

 

まさに日本の外交史に残る「恥晒し」でした。


もうひとつ、最近サウジアラビアとイランの国交が、中国の仲介で回復するニュースがありました。

アメリカの外交が遅れをとる結果となりました。

 

そのときに、日本の皇室のことを思い出していました。

というのは―――

 

サウジアラビアの重要な国家安全保障の需要なポストについているスルタン王子が、

「自分は通常、外国の大使には会わないが、日本は例外である。

なぜなら、日本の皇室を尊敬しているからだ」こう語っています。

さらに王子は私は日本の皇室を心から尊敬している」とまで言っています。

 

このとき、日本の大使には、「水面下で、イランと交渉を始めている」とまで明かしています。

日本の皇室への尊敬というだけで、当時重要であったイランとの秘密交渉を明かしたのです。

 

さらに、中東 クウェートのザバハ首長は

天皇陛下は稀にみる名君である。」
「その態度と振る舞いは国家元首の鑑(かがみ)だ。」と繰り返し述べ、
日本の皇室の在り方に深い敬意を示されたと言います。

 

さらに、スペイン・フェリペ国王は2017年に

「私が特にお伝えしたいことは、天皇・皇后両陛下への深い敬愛と憧憬です。」


ルクセンブルク・アンリ大公は

「陛下は、この変わらぬ”日本の魂”を体現され、国境を超えた尊敬を集めておられます。」と天皇に対して、深い敬意を示されています。

 

また、英国の故エリザベス女王の60年式典のときには、世界から多くの要人が招かれました。

ヨーロッパの多くの王室も招かれましたが、エリザベス女王の隣の席には、日本の天皇皇后陛下様のお席が用意されていました。

 

世界の王室要人の中でも、日本の皇族は「別格」となっていたのです。

世界で最も古く伝統がある「日本の皇族」を、尊敬していたからです。

 

今日紹介した世界中の国々が天皇、そして皇室を尊敬している例はほんの一部にすぎません。

日本の皇室が世界中から尊敬され、憧れの的であるという事実は日本人として、誇らしいものです。

 

どうして日本の皇室がここまで尊敬を集めるのか?

 

中東の国王から、欧州の貴族、アジア諸国まで、尊敬を集めるのにはある理由があるのです。
それは、世界中どこを探しても日本の皇室にしかないもので、世界の歴史を振り返っても、日本皇室にしかないものと言えます。

 

2700年に渡る日本の皇室は、支配者が変わろうが何であろうが、厳然として「天皇」として残ってきました。

 

世界の歴史では、新たな支配者が出現するたびに、それまでの支配者の歴史も遺物を消し去ってきました。

 

世界の歴史においても類をみない長い歴史と伝統と、なによりも世界平和を祈って、日々神々に祈りを捧げる儀式を執り行う代表者の揺るぎない立場は、世界でも日本の皇室だけに存続するものです。

 

天皇陛下とは、日本人を代表して、日々「世界平和を祈る儀式」を執り行っているのです。

つまり、人類を代表して、真摯に世界の平和と安寧を祈る代表者なのです。


戦後この重要な事実をアメリカの戦略により日本人は知ることが、できなくなってしまっています。

なぜ、アメリカは天皇に関する知識を日本人から奪ったのか。それは、天皇を中心とした戦前の日本はあまりに強かったからです。


「強い愛国心」「国家に対する滅私奉公の精神」「日本人としての誇り」


アメリカはそのような日本の強さを恐れていたのです。

そして、その得体のしれない日本の強さの根源は「天皇」であるとして、アメリカは日本人と天皇の繋がりを断ったのです。

 

今、日本では、「皇室なんて、必要ではない」「皇室に税金を使うな」

このように叫ぶ輩がいます。

しかし、日本の皇室は世界でも例を見ない歴史と伝統を誇り、他国が羨んで止まないものです。
世界中の国々がうらやむ皇室を、なぜこのように批判するのか?


それは、現代の日本人が皇室に対して、あまりに無知だからです。

戦後の日本人は、天皇について学校で習いません。それは、アメリカが教育改革という名の下に、天皇についての教育を禁止したからです。


天皇を中心とした日本の強さを恐れたアメリカは、日本が二度とアメリカの脅威とならないように、アメリカは日本人から「天皇」に関する知識と理解を奪ったからです。

マッカーサーは、戦後日本人をキリスト教徒にしようとして、大量の宣教師を日本に送り込んできました。

 

しかし、思ったように日本人にはキリスト教は布教しませんでした。

 

世界の歴史は、宗教戦争の歴史であるかのように、キリスト教イスラム教は対立を続けていて、キリスト教カソリックプロテスタントとに別れていて、イスラム教でもシーア派スンニ派の国家がるように、対立を繰り返しています。

 

ヒンズー教もまた同じです。

しかし、日本人は、純粋のクリスチャンではないのに、クリスマスを祝い、神社の鳥居も潜ります。

 

お寺の寺院にも参拝します。

神道は、八百万の神が万物に宿るとして、あらゆるものに神性・佛性を認めます。

 

しかし、世界の大半の宗教は一神教で、自分のところのもの以外は、一切認めない立場をとりますので、対立が生まれます。

 

このようなことから、世界統一する宗教は「日本の神道」であるとする考え方があります。

逆に、神道以外にはあらゆる宗教を認める立場のものはないのです。

 

ですから、将来の世界の宗教は、日本の神道的な立場のものが推薦されているのです。

 

では、陸軍中野学校が果たした大いなる役割とは、どのようなものであったのか、

「八紘一宇(はっこういちう)」の精神を、アジアの大東亜共栄圏にもたらすことも、その教育の中に打ち込まれていました。

 

今シリーズでは、このようなことにも触れていきたいと思います。

 

                   つづく

 

            2023年3月21日記