《 日光を探索する 1 》
神橋と東照宮その1
「日光」には、以前から幾度も訪れていますが、「パワースポット探索」として、それをメインに尋ねたことはありませんでした。
そこで、「パワースポット探索会」のメンバーで、2021年11月16日に日光に行きました。
浅草の東武日光線の改札に集合して、5人で4人用の特別室に乗り込み、日光の駅前に到着します。
ここで、自転車を借りて、全て自転車で各地を回るつもりでしたが、駅前にある貸自転車の借り方がよく判りません。
そんなことをしているよりも、直接貸自転車の店を調べると近くに存在しますので、そこで電動機付き自転車をレンタルします。
まず、初めに「神橋(しんきょう)」に行きました。
日光の神社仏閣を回るには、最初に訪れて挨拶をしなくてはならないところです。
ここは「神橋」の入り口です。
日光二荒山神社の神域に属しています。
外からでも見えますが、中に入るには「有料」となります。
「なで石」とあります。
この石を、心を込めて撫でることで、「心が丸く豊かになり、夢がかなう」と云われています。
当然ですが、多くの方が「この石」を撫でますので、霊的な垢がこびりついていますので、我々は誰一人として、撫でませんでした。
この先に「神橋」があります。
これが「神橋」です。
朱塗りの綺麗な橋です。
この橋の先には、東昭宮への参道があります。
その昔は、この橋を渡れるのは、将軍とそのお供、山伏しか渡れませんでした。
一般人は、この橋を渡れないので、そばにあった「仮橋」を渡っていたものと思われます。
この神橋の真ん中に立つと、遠く日光の連山、「男体山」「女峰山」とその子供である「太郎山」を目にすることができるように思います。
定かではありませんが、見えるとすると、左側に「男体山」、右側に「女峰山」その中心のさらに奥に「太郎山」となります。
「太郎山」(2368m)は、修験道の聖地で、昔から多くの山伏が参拝していました。
我々は、神橋で遠くに見える連山に向けて、感謝の祈りを捧げました。
「今回の日光での探索が、我らにとって実りある旅になりますように・・・・」
心を込めて祈りました。
「橋姫明神(はしひめみょうじん)」とあります。
「縁結びの神」とされています。
ここには、「開運、良縁、橋渡しの神」とあります。
日光二荒山神社で結構式を挙げますと、この神橋で「渡り初め」を行うようです。
しかし、
何も感じないし、有難くも何ともなく、運気がアップする気配もありません。
当然、我々は無視して素通りしました。
神橋の全体像です。
大谷川(だいやがわ)に架かる橋で、日光参拝では必ず目にする橋です。
この川は、中禅寺湖から華厳の滝を落下して、ここに流れてきます。
この神橋は、「日本三大奇橋」の一つにする場合があります。
「錦帯橋」「猿橋」「愛本橋」を指しますが、「愛本橋」の代わりに「神橋」を入れる場合もあるようです。
この橋で、日光の参拝を祈願して、東照宮への参拝が開始されます。
この「神橋」を掛けるには、平安時代から鎌倉時代にかけて、日光を開山した勝道上人が7歳の頃に男体山を目指すも、この川を渡ることができずに難儀したといいます。
このとき、護摩を焚いて神仏への加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて、2匹の蛇を投げて橋として、川を渡ることを助けたといいます。
この伝説の由来は、仏教徒と日光の先住民(マタギ)との融和が図られたものと解釈されています。
この橋の架かる大谷川の「水神」を祀る先住民(マタギ)が、後から来た仏教徒を受け容れたとされています。
そして、この「神橋」は、川の神(水神)を祀る祭場であったといいます。
こうして―――我々は、「神橋」での日光へのご挨拶を済ませて、いよいよ「東照宮」に向かいました。
東照宮に入る石鳥居をくぐります。
この石鳥居は、高さが9Mもあります。
中に入ると―――
すぐに「五重塔」があります。
慶安3年(1650)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。
その後1815年落雷のために焼失しましたが、文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公によって再建されました。
前回来た時には、多数の「オーブ」が見られましたが、今回はそれほど多くの「オーブ」は映り込みませんでした。
階段を上って中に踏み込みますが、小学生の集団が多く、中は混んでいました。
「三神庫(さんじんこ)」です。
「上神庫」「中神庫」「下神庫」を総称して「三神庫(さんじんこ)」と言います。
お祭りに使用される馬具や装束類が収められています。
「神厩舎・三猿」です。
ここは、ご神馬をつなぐ厩(うまや)です。
昔から「猿が馬を守る」とされています。
ここの長押上には、猿の彫刻が8面あります。
その猿の彫刻に、人間の一生が風刺されています。
ここの真ん中に「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の有名な三猿があります。
この三猿は、「純真で周囲の影響を受けやすい幼いうちには、良いものだけを与えるのがよい。 良いものを身につけておけば、悪いものに対しても、正しい判断や行動ができる」という教訓です。
ここの「猿」も、面白い姿で描かれています。
左側のお猿は、お尻を丸見せにしています。
この猿は、希望をもって空を見上げる青年期のイメージです。
この鳥居の先に、東照宮で最も有名な「陽明門」があります。
一般の庶民は、ここまでしか踏み込むことが出来ませんでした。
この鳥居の先に「陽明門」を見るためには―――
この石畳の上に立つことが必要となります。
此処に立つと、鳥居の先に「陽明門」が正面に見ることができますし、「陽明門」が発する良好なエナジーを吸引することができます。
葵の紋が入った鳥居の先に、日本で最も華麗で美しい「陽明門」が目に入りますが、そのままでは、参拝者の多くの邪気が一緒に入ってきますので、
一度、これらの「邪気」をクリーンにしてから、自分の眉間にある「印堂」とつなぎます。
そうすると、「陽明門」が発する良好な「気」が身体に入ってきます。
※この画像の「陽明門」の邪気は、払っています。
「輪蔵」というようです。
波動は、それほどではないです。
「陽明門」に入る前の階段の上の建物は、良好な波動です。
オランダから奉納された銅製の「燈籠」です。
このあと、いよいよ「陽明門」に入ります。
日本一華麗・絢爛な「門」です。
多数の「オーブ」が浮き上がっています。
「陽明門」は、江戸時代当時の彫刻の最高技術を結集して造られました。
彫刻の数は、「508」もあります。
いつまで見ていても見飽きないので、「日暮らしの門」とも言われています。
「陽明門」の両サイドにも、華麗な彫刻がされた壁面が連なります。
すべて一枚の板から彫られた彫刻で、これほど豪華なものは、今後は残せないのでは・・・・とさえ思わせます。
「陽明門」は、「隋神門」ですので、本殿を守る「隋神像」が左右に鎮座しています。
仏教系であれば「仁王門」になりますが、神道系ですので、「隋神門」となります。
この「隋神門」など、日光東照宮には明智光秀の家紋が様々な形で据えられています。
なぜ、明智光秀の家紋があるのか―――
本ブログ「歴史上の裏の人物を考える その2,3」(明智光秀の正体1,2)の中で、私は次のような説を唱えています。
〇 明智光秀は、豊臣秀吉との山崎の合戦後に死亡していない(遺体は影武者で、腐敗していたので、本人か否か、定かに分からなかったと言われています)。
徳川家康の庇護をうけていた。というのは―――
〇 家康は、織田信長からの抹殺される可能性があったことにあります(家康の長男は、信長の命で切腹させられている)。
自分の子供を切腹させた信長を、心の底では許していないので、このことから信長は―――いずれ家康は自分に敵対する可能性があると思っていた。
〇 家康最大の難事の一つに、「本能寺の変」の後、明智光秀の軍勢が、堺にいた家康を襲撃することから逃れて、伊賀から三河に帰った時としていますが、
この時は、事前に「深追いはしない」との光秀からの秘密の文面が届いていたといいます。
後にこのことを「家康最大の難事の一つ」としているのは、世間への「自分は本能寺の変」には一切関わっていないというアピールの一つとしてみることができます。
〇 武田信玄、上杉謙信が亡くなり、織田信長には怖いものがいなくなった。
〇 安土城に家康を招いた饗応役に明智光秀を指名するが、その時に家康を亡き者にする旨を受けるが、光秀が固辞をしたので、信長の逆鱗に触れた。
〇 信長は、自分の古くからの臣下を、次々と追放していて、本能寺の変の前にも、明智光秀の領土を取りあげて、秀吉を助けて、自分の領土を奪い取れと命じている。
〇 信長は、天皇が行う元号の改変を自らが行うと宣言していました。
これは、自分は天皇の下にあるのではなく。日本国の統治者(皇帝)に立つことを宣言したことになり、危機感を持った朝廷から明智光秀に、信長討伐の密命がくだった。
(信長の遺体は、朝廷が密かに魂魄を封印する秘密の呪法で、完全に遮断しています)。
〇 信長の魂魄は朝廷が完全に封印したので、以後信長の「霊」は出てこない状況にある(これは朝廷に反旗を向けた平将門も同様です)。
通常であれば、死者の魂は呼び出することができますが、織田信長の霊魂は呼び出すことができません。
〇 日光東照宮を建造し、江戸城の周囲に結界を張り、万全な体制を整えた天海の正体は、明智光秀がときに入れ替わっていた。
〇 その当時の建築学の最高度の知識は、明智光秀以外には存在しなかったと云われています。
〇 江戸城の周囲には盤石な結界を張り巡らせたのも天界です。
江戸城の周囲を、増上寺、上野寛永寺あるいは、深川不動、目黒不動などの不動尊を配置して、さらには江戸城の鬼門の方向に日光の東照宮を配置するなど、江戸城を盤石なものとしています。
〇 天海は僧なのに、家康の軍議にも参加していた。
いくら天台宗の大僧正であっても、一介の僧が軍議に参加するのは釈然としないのです。
〇 春日局(かすがのつぼね:三代将軍家光の乳母で、諸大名はおろか老中までも平身低頭するほど、権勢を誇った)が、天海と会ったときに、深々と頭を下げて、「お久しゅう御座います・・・」と言ったという。
このような説です(ご興味ある方は、そのブログをお読みください)。
ですから、日光東照宮には、明智光秀の家紋などがいくつも配置されているのです。
つづく
2023年4月25日記