生命体エナジー浄化の会ブログ

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陸軍中野学校の果たした役割を追う 4

《 陸軍中野学校の果たした役割を追う 4 》

大東亜交流圏その4

 

 あなたはご存じでしょうか?

戦前、米国で数多くの日本人が強制収容所に入れられていたことを―――

その数、12万人。

 

米国は、その当時の日本人が世界で活躍することを恐れていました。

 

日本の軍人がアジアに進出して、それまでの欧米列強が植民地として支配しを続け、現地からあらゆるものを搾取する体制に警鐘を鳴らし、「大東亜共栄圏」を生み出そうとしていることに危機感を持っていました。

 

同時に、日本は米国の内部からの崩壊も図っていました。

というのは―――

 

米国には、昔から黒人への差別がありました。

 

米国を建国したジュージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンやジェファーソン等がいますが、米国建国の宣言には「人類は皆平等」と謳っていながら、全員が黒人奴隷を所有していました。

 

白人以外は、人類とは見ていなかったのです。

常に黒人は下等な人種として扱われていました。

 

当然、過酷な労働に従事されていて、その不満が鬱積していました。

黒人からすると、日本軍は「神のような軍隊」に映っていました。

 

戦前、日本はこの点に注目して、黒人労働者を煽って、内部からの反乱を画策することを行っていました。

 

日本も日米開戦の前夜、黒人を扇動して反米破壊活動を仕掛けていた日本人、疋田保一(ひきたやすかず)などがいました(彼の名を知る人は、ほぼいません)。

 

彼は、日本から派遣された諜報員(スパイ)です。

 

FBIのフーバー長官は、これを嫌い、日本人の強制収容所送りに奔走しました。

ルーズベルト大統領は、「日本とは戦争をしない」ことを誓約して、大統領になった人物です。

 

米国はモンロー主義(他国に干渉しない)を実施していることから、自分から戦争を仕掛けることはできませんでした。

 

「東洋不干渉論」(ボーダ・カーター著)が、ベストセラーになっていたほどなのです。

 

ですから―――

日本から戦争を仕掛けるように仕向けました。

 

日本への石油の輸出を完全に止めて、アジア諸国からの欧米が植民地化している国からも、石油の供給を全て断ちました。

 

元米国大統領のハーバート・クラーク・フーバーは、「狂人ルーズベルトは、戦争をしたくて仕方がなかった・・・」と「回顧録」に書き残しています。

 

フーバー元大統領は、ルーズベルトを「狂人」としています。

このことは、進駐軍の最高司令長官マッカーサーも同意しているといいます。

 

この「回顧録」は2011年まで公開されませんので、一般には伝わっていません。

また、この回顧録の中で

「米国は原爆を使う必要はなかった!」

と述べています。

 

当時のルーズベルト米国大統領は、日本が真珠湾を攻撃することを事前に知っていました。

 

日本が絶対に承服することのできない「ハルノート」を突き付けて、「これで日本が開戦に踏み切らざるを得ない」として、ハワイの真珠湾に停泊していた空母などは遠ざけていて、日本の真珠湾攻撃を待ち構えていました。

 

当初は、日本軍の攻撃など「たいしてダメージを受けることはない!」と思っていました。

しかし、日本の「水雷」の性能は高く、予想を超えるダメージを受けてしまったのです。

 

日本は、この真珠湾攻撃を仕掛ける直前に、米国に「宣戦布告」の宣告をするつもりでした。

ところが、当時の大使館員の手違いで、その報告が遅れます。

 

これによって、「いきなり、戦争を仕掛けてきた!」「(卑怯にもいきなり攻めてくる日本の攻撃を忘れてはならない)リメンバー・パールハーバー」として、米国民を卑劣な日本人を、絶対に許してはならない―――このようにして、日米開戦の火ぶたが切られました。

 

米国は、多民族国家です。

挙国一致に導くために、スローガンが必要で、「リメンバー・パールハーバー」もメキシコに攻め落とされた「アラモ砦を忘れるな!」と国民を煽るのです。

 

ハワイの真珠湾に行くと、記念館があり、「日本人が卑劣にも奇襲攻撃を仕掛けてきた!」とされています。

 

しかしながら―――日本軍の参謀本部の本来の能力は、かなり優秀で、世界でも高いものだったのです。

 

「この戦争は、日本が勝つ!」と、太平洋戦争(大東亜戦争)の直前に、このような結論を出していました。

この結論を出していた組織は、「秋丸機関」です。

 

「秋丸機関」とは、陸軍中野学校の設立に関わった岩畔大佐の意を受けて、秋丸次朗中佐が率いたもので、「秋丸機関」と呼ばれていました。

 

「秋丸機関」では、経済戦力を詳細に分析して、最弱点を把握して、国際的な変動の中で総力戦を経済面から研究して、戦略を立てたものです。

 

「秋丸機関」が出した戦争戦略の結論は、大きく以下の2つです。

 

  • 米国と戦争をしてはいけない
  • 弱点をつけば、イギリスは陥落する

 

この戦略は、実践的で合理的なものでした。

 

後に英国のチャーチル当時の首相は、

「定石通りに行っていたら、あの戦争(太平洋戦争)は、日本が勝っていた」

と述べているのです。

 

さらにまた、米国のスティムソン陸軍長官でさえ、

「日本は、定石通りに行えば、戦争に勝っていた」

と述べているのです。

 

どういうことなのか―――

 

英国にとって、生命線であるインド洋を短期で攻略して英国を屈服させれば、米国民は戦意を消失して、絶対に開戦には至らなかったので、日本は講和に持ち込むことができた・・・というのです。

 

米国内では、他国からの干渉もされなければ、米国からも一切の干渉はしないーーーというモンロー主義が国民に徹底されていました。

 

ですから、東洋でのこと、満州国を日本が支配しても、満州支那とロシアが対日戦争で負けて明け渡したのであるから、米国が干渉する必要はないとの世論が大勢を占めていました。

 

ですから、国際資本家――米国を陰で操作する人物にとっては、欧米が支配するアジアの植民地を解放しようとする「大東亜共栄圏」の構想を掲げる日本の存在は、大きな障害でした。

 

ですから、日本人を強制的に収容所送りにして、「イエローモンキー」の日本人を徹底的に叩いたのです。

 

ところが―――海軍司令長官の山本五十六は、真珠湾に奇襲攻撃を掛けます。

 

山本五十六元帥は、米国の底力を見知っていますので、「対米戦争には絶対に反対」としていました。

 

日本の海軍は、暴走する日本の陸軍を制止していた、といわれてますが、事実は全く逆であったようなのです。

 

最終通告であるハルノートを、ルーベルト大統領が突き付けてきたので、米国の主力艦隊がいるハワイの真珠湾を奇襲して、初戦で勝利して、米国民の戦意を消失させて、あとは講和条約に持ち込もうと考えたのです。

 

しかし、これは山本五十六の独断専行の勇み足であった―――と云われているのです。

背後にユダヤ系シンジケートがいたことが判っています。

 

私は映画「山本五十六」(主演:三船敏郎)も観ていますし、当時の日本人の英雄の一人であることも聞いています。

 

米国は、山本五十六が飛び立つ飛行機のルートの無線を傍受して、撃墜しました。

 

私の母も、山本五十六の死の報が国民にもたらされたときには、深い悲しみに襲われたといいます。

 

では、日本が定石どおりに戦争を行っていたら―――日本は勝っていたというのは、どういうことなのか。

 

事実、開戦後日本軍は、英国が支配するシンガポールをあっという間に陥落させています。

 

日本軍が、マレー半島から太平洋戦争(大東亜戦争)を開始したのは、1941年12月8日午前1時半(日本時間)です、

これは、海軍司令長官の山本五十六真珠湾を奇襲する1時間20分前です。

 

マレー半島に日本軍が侵攻した最初であり、上陸作戦を開始しました。

 

マレー作戦には、『マレーの虎』といわれた山下奉文(後に大将)がいて、

前進⇒突破⇒追撃⇒結集を繰り返す戦法で、イギリス軍を撃破しました。

 

ジャングルでは自転車を活用して、イギリス軍を翻弄して、さらに巨費を投じたシンガポール要塞に迫り、シンガポール要塞にあった巨砲は、海側を向いて設置されていたので、マレー半島から上陸して攻めてくる日本兵には役に立ちませんでした。

 

山下奉文は、シンガポールの市街地を防衛線とされると、軍備が不足して、しかも英国本土からの軍隊とオーストラリア軍および現地人で、日本の3倍の勢力があることから、短期決戦を指揮して、イギリス軍は降伏しました。

 

山下の戦法を、イギリス首相のチャーチルは、

「密林によってイギリス軍を恐怖に陥れ、主要道路を叩き落とし、側面からの攻撃で気力を失わせる戦法で、日本軍はマレー半島で勝利した」

と述べています。

 

この第一報を聞いて、日本では提灯行列のお祭り騒ぎになったといいます。

チャーチルはこの敗戦に衝撃を受けて、「帝国史上最悪の災害と最大の降伏」と後々まで悔やむこととなったといいます。

 

このように、石油資源確保のために、日本がアジアの諸国に侵攻して、植民地支配から救う行動が先行していれば、「定石通り行っていれば、日本は戦争に勝っていた」となっていたのかもしれません。

 

米国の世論は、ルーズベルト大統領に戦争することを許さなかったからです。

が、しかし―――

 

戦争をしたくて仕方がなかったルーズベルト大統領の思惑通りに、日本軍は真珠湾に奇襲を掛けてしまったのです。

 

ある意味、山本五十六元帥は「日本を取り返しのつかない亡国へ導いた大犯罪者」かもしれません。

 

さて―――陸軍中野学校に話を戻します。

 

陸軍中野学校では、謀略の方法などの教えるところですが、他の諸国の裏で暗躍するスパイ組織とは、決定的に違っているところがあります。

 

それは―――「謀略は誠なり」ということです。

どういうことなのか―――

 

「5、15事件」の被告・吉原正己教官は、東大の平泉澄教授に弟子入りして、皇国史観を学んだ後、陸軍中野学校に招かれて、「国体学」を担当しました。

 

そして、楠木正成楠公社を建設して、学生はここで毎朝参拝しました。

 

楠木正成は、南朝後醍醐天皇を助けて、「建武の新政(親政)」を実現させた功労者です。

今の天皇家の家系は、江戸時代までは「北朝」となっていましたが、明治維新のときに、南朝の後裔である大室寅之介が入れ替わって、明治天皇となりました。

 

これについては、本ブログの「歴史を考えるシリーズ」に「写真分析から裏の歴史を考える」の連載の中で、

 

長州は南朝の後裔を代々秘密裏に匿っていて、桂小五郎木戸孝允)が西郷隆盛に、我々は南朝の御正系をお立てして「王政復古」するのだ、と打ち明けたというのです。

 

のことを知った西郷隆盛は、南朝の忠臣菊池氏の子孫だったから、これに深く感銘、ただちに尊皇討幕の薩長連合が成立したのだということを描いています(坂本龍馬薩長成立の立役者の説の背後に、このことがあったようです)。

 

また、吉田松陰は 徳川光圀に始まる「大日本史」の編纂に関わる「水戸学」の尊王思想に大きな影響を受けています。

 

水戸学では 朝敵とされた足利尊氏を認めず、南朝が正統であると唱えていました。

それ故、吉田松陰南朝正統説をもって、南朝を擁立するように指導したようなのです。

 

このような背景があって、陸軍中野学校の学生たちは、「南北朝史」「神皇正統記」「水戸学」「講孟剳記(こうもうさっき):吉田松陰が野山獄中で囚人たちに教えたもの」

などを学びました。

 

特に忠君愛国のモデルとして、「楠公精神」(楠木正成天皇の臣下として、国のために闘うという精神を涵養するもの)を学びました。

 

そして、学生が任務遂行上守るべき信条として、団結強化のために、

「誠」の心を鍛錬し、「条理極まる所 これ誠なり」としたのです。

 

そして、軍人勅諭五か条の精神(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)で締めくくられていました。

 

このようなことを、陸軍中野学校では徹底的に指導、教育されていたのです。

ですから、「謀略は誠なり」という他の諸国に謀略組織とは、決定的な相違があったのです。

 

ここで、吉田松陰が野山獄中で囚人たちに教えたとされる「講孟剳記(こうもうさっき)」について触れておきます。

 

吉田松陰は、囚われの身となっていましたが、囚人たちを指導して、各人が講師となり松陰もまた、生徒となって囚人が得意とする分野の講義に耳を傾けました。

 

このときの獄中で用いたものが「講孟剳記(こうもうさっき)」です。

その中に

孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という言葉は、この確信の支えとなっています。

 

「誠心」は高い極限の形であり、強く人に訴える力を発揮すると確信していて、その確信をまず身の回りの人々へ伝播・実践したのが、まさに「講孟」であったのです。

吉田松陰は、「全章の主意は、この一節にある。またこの一節は人心を正しくするというこの言葉に帰着する。まさしく孟子が終身みずからに課したものもここにあった。」と言います。

 

また、「そもそもこの章は、むかし禹(う)が洪水を治め、周公が夷狄(いてき)を征服し猛獣を駆逐して百姓を安らかにし、孔子が『春秋』を完成した事蹟に、孟子がみずからを対比しているところである。」と言うのです。

そして、

「今日もっとも憂うべきものは、人心の不正ではなかろうか」と提起して、

「そもそもこの人心が正しくない場合には、洪水を治めたり、猛獣を駆逐したり、夷狄を征服したり、逆臣を誅殺したりすることなど、どうしてできるはずがあろうか。

 

天地は暗黒と化し、人道は絶滅してしまうのだ。まことに思うだに恐ろしいことで注意すべきことである。」

と締め括っています。

吉田松陰は、天才でした。

9歳のときに、萩の明倫館の兵学師範に就任して、11歳で藩主・毛利慶親仁御前講義をしています。

 

その出来栄えが見事であったので、山鹿流兵学を修めていたことから、13歳で長州軍を率いて、西洋艦隊撃滅演習を行っています。

 

その後、江戸に出て佐久間象山などから西洋兵学も学んでいます。

 

吉田松陰は、有名な「松下村塾」を叔父から引き継ぎ、わずか2年間で「討幕派の志士」が国を動かし、薩摩藩土佐藩とともに明治維新を達成する原動力になりました。

 

塾生に、久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文入江九一品川弥二郎などがいます。

山縣有朋桂小五郎木戸孝允)などは、明倫館時代の弟子です。

 

吉田松陰は、陽明学の「知行合一」(知っているだけでは役に立たない。実行してこそ実学となる)を徹底的に実践した人物です。

 

塾生達は、あまりにも過激な言論を「実行する」と主張する松陰に、「これは、とても無理だ」と思っていましたが、本当に明治維新を断行できた結果、その主張の先見の明に感服していました。

 

初代総理大臣の伊藤博文は、松陰の斬首された首のない亡骸を泣きながら運んだという逸話や、塾生の一人で奇兵隊を指揮した高杉晋作の神がかった活躍など、歴史に残る活躍がありました。

 

高杉晋作は、第二次長州征伐(四境戦争)で九州に上陸して、幕府軍を破り、徳川幕府の権威の失墜をもたらし、大政奉還に繋がっています。

 

吉田松陰は、「一君万民論(いっくんばんみんろん)」を唱えています。

これは、

ただ一人の君主(つまり天皇)にのみ生来の権威・権限を認め、その他の臣下・人民の間には、一切の差別・身分差を認めない思想・主張です。

 

このことが、日本軍の強さの根源にあり、「天皇陛下万歳!」の皇国史観にも通じていたものと思います。

 

このような教えを、塾生たちに薫陶し、実際に徳川幕府を倒して、明治維新を断行する大きな立役者となりましたが、松下村塾での指導では、たったの「2年間」でしかなかったのです。

 

そのような「実学」が、陸軍中野学校でもとられていたたからこそ、短期間で世界情勢をも動かす人物が排出したのだと思います。

 

 

では、「謀略」の最高史書である「孫子の兵法」では、どうなのか―――

「兵は詭道(きどう)なり」と訓えています。

 

「詭道(きどう)」とは、人を欺くやり方で、不正な手段を用いることです。

「謀略は誠なり」という陸軍中野学校の教えとは相反するものです。

 

日露戦争において、ロシア領土内で反戦、革命の工作に当たった明石元二郎は、日露戦争で日本が勝利すると、革命の戦士とともにロシア領土内に留まることを日本軍に打診しています。

 

明石元二郎が死を覚悟して戦ったからこそ、相手のロシアの革命派や不平等諸派の人物たちの心に届き、明石元二郎の「誠」を信じてくれたものと思われます。

 

それほど、誠心誠意をもって裏工作に従事して、「誠」の精神をもって接していたことが伺えます。

 

陸軍中野学校での、もう一つの教えの特徴は、

「個人の地位や名誉、そして命もいらない、国のためであれば『埋め草』になれる」

というものでした。

 

これは、陸軍中野学校で唄われていた愛唱歌

「いらぬは手柄 浮雲のごとき意気に感ぜし人生こそは 神よ与えよ万難我に」

とあります。

 

これを見たときに、西郷隆盛の「遺訓集」が思い起こされました。

 

※「遺訓集と」は、旧幕府軍会津藩庄内藩など)が新政府軍との戦い敗れたとき、西郷の計らいで温情のある措置をされたことに感激して、元庄内藩士たちが西郷隆盛の話を伺ってまとめたものです。

 

その中に、

 

「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は 仕末に困るものなり。

この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

とあります。

 

まさに、国のためであれば『埋め草』になれる覚悟が、この歌から見えてきます。

 

参謀本部は、実際に陸軍中野学校の卒業生の中では、通常の駐在武官は3年ほどで交代するのを、永続的に外国に駐在する(骨を埋める)要員を育成しようとしていたともいわれています。

 

イギリスの場合、秘密諜報員は家族ぐるみで外国に移り住み、二代、三代と常駐するシステムがあります。

一生を通じて、子孫に受け継がせていきます。

 

実例がありました。

日本にいた秘密諜報員は、代々洋服屋を営み、秘密情報を本国にもたらしていました。

それが発覚したのは、戦後です。

その洋服屋の二代目が、イギリスの駐日大使になったのです。

 

現在の日本の防衛駐在官や外交官は、定期的に交代します。

世界を見聞するにはいいのですが、一つの国に深い交友関係のネットワークを築けないことになります。

 

さて―――陸軍中野学校のもう一つの教えの特徴は、

「民族解放の戦士」を養成することでした。

これは、欧米の白人たちがアジアに進出して来て、各国を占領して植民地化した政策から、日本が解放する「大東亜共栄圏」を具体化するものでした。

 

このことが諜報・謀略の目的とされたことは、南方作戦の「大義・聖戦」の旗印になるものでした。

 

さらに―――陸軍中野学校のもう一つの教えの特徴は、

「万難を排して生き残り、諜報任務を遂行せよ」というものでした。

 

これは、「戦陣訓」の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」というものとは、真逆です。

 

「生き残れ。絶対に死ぬな!

生き残って、獲得したインテリジェンスを報告して、己の責任を果たせ。

潔く死ぬことよりも、生き抜いて責務を果たすことが先だ。

死ぬのは簡単だが、死んだらすべてが終わってしまうからだ」

 

ルバング島で29年間も生存していて、その間破壊工作を継続して小野田元少尉の生きざまを見てきた日本人は、たった3か月しか陸軍中野学校分校で訓練を受けただけのこの人物が、

 

白人支配からの民族解放の戦士となり、「聖戦」を戦っているにだという至高の責務を担って、「生き残って」獲得したインテリジェンスを報告して、己の責任を果たそうとしていた生き様を、実際に我々は目にしていたのです。

 

 

実際に、陸軍中野学校の卒業生たちは、「大東亜共栄圏」の白人支配、植民地支配から解放するために、「誠」の精神をもって対峙していました。

 

そのために、終戦後でも、そのまま現地に残って、その国の植民地支配から解放される運動を継続していた人物が数多くいたのです。

 

次の画像は、インドネシア各地にある「英霊墓地」です。

英霊墓地

 

ここにはインドネシア独立戦争の兵士の墓地です。

独立の英雄として、インドネシアで最高の栄誉とされています。

 

この中に、インドネシア独立戦争の功労者として、多くの日本人が埋葬されています。

日本では、ほとんど知られていませんが、第二次大戦の敗戦後もインドネシアに残って、インドネシア独立のために戦い、命を失った日本人が眠っています。

 

一人や二人ではありません、その数、1000人。

インドネシアだけではありません。

 

ミャンマーベトナム、マレーシア、シンガポール:::など、日本はアジア独立のために、欧米を相手に戦いました。

 

各地に眠る日本人兵士たちは、英雄として高く評価されているのです。

だがしかし、

いまだに日本人はアジアに侵略した「悪い国」とされています。

 

東京裁判や戦後の歪んだ教育の影響で、このように刷り込まれています。

 

ヒットラースターリンなど、数多くの人民を殺戮していますが、圧倒的な数の人を殺したのは、「文化大革命」のもとで6000万人を殺している毛沢東です。

 

この人類史に残る大虐殺をした毛沢東を、今でも中国ではその顔写真を飾っています。

 

その国の政治家は、いまだに日本人政治家が英霊を眠る靖国神社を参拝したというだけで、日本に猛烈な抗議をかけてきます。

 

日本はアジアに侵略して、悪いことをしたと、いまだに言い続けて、政治に利用しています。

また、日本の政治家の多くも、それを受け容れていることが残念でなりません。

 

 

                    つづく

 

            2023年5月3日記