《 日光を探索する 3 》
輪王寺その2
輪王寺には、本堂に「三仏堂」があり、今回の日光山の旅では、最も興味を持っているところでした。
輪王寺は、天台宗の寺院ですが、明治初年の神仏分離令以降は、東照宮と二荒山神社の二つの神社と輪王寺の寺院を合わせて、「二社一寺」と称されて、これらを総称して「日光山」と呼んでいます。
「日光山」は輪王寺の山号ですが、日光にある山中の寺院群の総称にもなっています。
神仏習合の信仰が行われていましたので、輪王寺に属する建物が数か所に点在していますので、「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については現在も、東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるのか――と、決着を見ていないといいます。
これらは全て、日光の社寺として「世界遺産」に登録されています。
東照宮は徳川家康を神として祀る神社で、江戸時代の創建ですが、輪王寺の創建は奈良時代にまでさかのぼります。
山岳信仰の社寺として創建されたものです。
「日光山輪王寺」とあります。
ここから入ります。
大きく「本堂」と書かれた扁額があります。
「本堂」の「本」という文字に、何となく違和感を感じましたが、次元を変えると、素晴らしい反応を示します。
この本堂は「三仏堂」とも呼ばれていて、東日本最大の木造建築となっています。
現在の本堂は、3代将軍の徳川家光の寄進により、正保2年(1645年)に竣工しています。
築380年にもなる建造物ですが、今でも かなりしっかりとした建造物です。
「日光山輪王寺」は、奈良時代の僧・勝道上人の開創と伝承されていますが、寺伝によると―――
766年に勝道上人と弟子の一行が日光山の麓に辿りつき、千手観音を祀る一寺を建てたのが始まりとされています。
その後、勝道上人は隣接する土地に、男体山(二荒山)の神を祀ります。
その後勝道上人は、御神体山である男体山(2486M)の頭頂に成功します。
「観音菩薩」の住居とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んで、この山を二荒山(ふたらさん)と名付け、
後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるといいます。
男体山の山頂からは、奈良時代にさかのぼる仏具などが出土していますので、ここが「山岳信仰の聖地」であったことが裏付けられています。
開祖の勝道上人の像のすぐ近くに―――
このような像がありました。
本堂の「三仏堂」は、正面から拝むだけでなく、横の通路から下に降りるようになっているので、ここから進んでもらいます。
そして、いよいよそちらに向かいます。
ここに、「三仏」が鎮座しています。
ここに「三体の本尊」が祀られています。
これは・・・・凄いです。
ホントに、凄いです。
この御神体の「本尊」は、
手前の右側は――千手観音で、「男体山」に相当する御神体で、「大己貴命(おおなむちのみこと)です。
本尊の高さは3M25センチ・総高7Mです。
隣の中心は―――阿弥陀如来で、「女峰山」に相当する御神体で、「田心姫命(たごりひめのみこと)です。
本尊の高さは3M・総高7Mです。
左側は――馬頭観音で、「太郎山」に相当する御神体で、「味耜高彦根命(あじすきたかひここねのみこと)」です。
本尊の高さは3M・総高7M44センチです。
三体ともに金色の仏像で、巨大なものですが、いつ頃に制作されたものなのか、という来歴が不明なので、文化財には指定されていません。
この三体とも「生きています」。
つまり、この仏像には真剣に拝むことをお薦めします。
どういうことなのか―――
多くの方は、この三体の 仏像のいずれかに、自分に最も相性のよいものがありそうです。
私は、左側にある「馬頭観音」に最もマッチします。
いずれか判らない場合には、真ん中にある「阿弥陀如来」像がいいようです。
この「阿弥陀如来」像は、誰でも身体の「霊体」を整えて、「肉体」を正常にしていただけるように思います。
「阿弥陀如来」です。
この「阿弥陀如来」像の真下に立ちますと、「阿弥陀如来」に自分がジーっと」見つめられている状態になります。
完全に目が合います。
「目を合わせた位置」で、自分の体調の悪いところに意識を持っていき、そこを治していただけるようにお祈りしますと―――
その願いを叶えてくれるように思われます。
試してみました。
イメージで、体調の悪い方を、この「阿弥陀如来」像の「目」の中に投入すると・・・・
身体が整いました。
さらに試しました。
パーキンソンを発症し、徐々に身体が弱ってきて、自力歩行が難しくなってきた方がいます。
その方を、イメージで「阿弥陀如来」像の「目」の中に投入して、三日間ほどその中に置いてみました。
すると―――明らかに、身体は整ってきました。
パーキンソンですので、脳の「黒質」にストレスがありましたが、そのストレスも抜けてきたように思われました。
これは「馬頭観音」です。
「馬頭観音」とは、観音様ですが、忿怒の相となっていますので、密教では「不動明王」や「軍荼利明王」などの「明王」系に属する場合もあります(馬頭明王とも呼ばれます)。
ヒンズー教では、最高神のヴィシュニュの異名でもあり、「無知・煩悩を排除して、諸悪を毀壊する菩薩としています。
この輪王寺の「馬頭観音」は、「三面八臂」で、憤怒相と柔和相の両面を持っています。
「三面」というよりも、頭頂に馬の首が載っています。
さらに、「手」は8本あり、正面は「馬口印」を組んでいます。
この「馬口印(まこういん)」を組んで、「オン アミリトドハバ ウン ハッタ」の真言を唱えますと、
(馬口印」とは、合掌印の人差し指と薬指を曲げた「印」です)
一瞬で、人に溜まった「邪気」を弾き飛ばすことができそうです。
馬頭観音の印
私には、この「馬頭観音」がマッチしますので、「印」を組んで、「オン アミリトドハバ ウン ハッタ」の真言を唱えることで、一瞬で、ホントに一瞬で浄化が可能なようです。
このようなことから―――
この三体の仏像の中で、どれが自分に最も適しているのかが解れば、その法力がより一層強くなるように思われますので、参考までに「真言」と「印」を載せておきます。
「千手観音菩薩」(千手千顔観世音菩薩)
千手観音菩薩の真言は、「オン・バサラタラマ・キリーク・ソワカ」です、
この時に組む「印」は、次のものです。
千手観音の印
「阿弥陀如来」
御真言は「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」です。
この時に組む「印」は、次のものです。
定印
「阿弥陀如来」には、いくつもの印相がありますが、これは瞑想に入っているときのもので、もっともマッチすると思います。
世界史でも他に類をみない、250年も続く泰安の世を築いた徳川幕府の基礎を築いた人物です。
天台宗の僧侶ですが、江戸城を取り囲む周囲に、盤石の「結界」を張り巡らし、ここ日光にも、江戸城の鬼門の方角に東照宮を建造して、徳川家康を「神」として祀り、
自らもこの論王寺の貫主(住職)となっています。
「大師」の称号は朝廷から賜りますが、朝廷から「大師」の称号を受けた最後の人物が天海大僧正です。
三仏のある左側に、「日光山祈願所」があります。
ここ日光山では、「山」―「神」―「仏」が一体のものとして信仰されています。
そのために―――
それぞれ、「男体山―女峰山―太郎山」の山岳信仰の修験道も、信仰形態に組み込まれているのです。
このような「如来像」がありました。
詳しいことは判りません。
別のコーナーに三体の仏像がありました。
中心には「大日如来」が収まり、「観音菩薩」と「不動明王」が左右に鎮座しています。
ですが、
残念ながら、三体とも「生きてはいません」でした。
「毘沙門天」です。
残念ながら、この像も「生きてはいません」でした。
この後、本堂(三仏堂)を出て、その後ろにある「護摩堂」に向かいます。
通常の寺院では、これほど大規模な「護摩堂」はめったにお目にかかれません。
中に入ると、「護摩焚き」は行われていませんでした。
その時間に立ち会わなければ、「護摩焚き」は受けられません。
過去に多くの「護摩焚き」を見てきましたが、不思議なほど、そこにある仏像に神的なエナジーが乗り移って、「生きてくる」反応を目撃しています。
このことから、「護摩焚き」の凄さは実感しているのですが、何もない状態では、堂内の仏像には、どれ一つをみても反応しているのはありませんでした。
実は、この翌年にも「秘仏御開帳」があり、「鎮将夜叉尊」の秘仏を見るために輪王寺に行っています。
この時には、少し待っていると「護摩焚き」が始まり、それを一部始終見ていました。
その時に、大護摩堂の中にある全ての仏像に神的なエナジーが行き渡り、
全ての像が「生きている」反応を示していました。
参考までに、大護摩堂の像の配置をここで示します。
まず、正面の手前に、「5大明王が並びます」
右から「金剛夜叉明王」「降三世明王」、中心に「不動明王」、そして「軍荼利明王」「大威徳明王」です。
その背後に、「七福神:が並び、その左右に、「十二天の火天、日天など(右)」
そして、その中心の「秘仏」に、「鎮将夜叉尊」を中心にして、その左右を慈眼大師(秘仏)、慈恵大師(秘仏)の三体が並んでいます。
この三体は「秘仏」ですので、扉は閉じられています。
今回の日光に足を運んだのは、この論王寺の三仏を見ることがメインでした。
噂に違わず「いいものを見させていただいた・・・・」と、満足感を持って次の「二荒山神社:に向かいました。
つづく
2023年5月30日記