《 阿波の国から讃岐の国象頭山を巡る旅 6 》
灌頂ヶ滝―立岩神社―金毘羅宮―象頭山―弥谷寺―大麻神社―大水上神社-妙見宮―善通寺
奥社から象頭山へ
今回の旅の目的は、「象頭山」という我が国の「天狗界系の総本山」と目されるエリアに行き、そのエナジー体との「邂逅(かいこう)」を果たすことでした。
少なくとも私一人は、そのためにだけでやって来ています。
それは―――本ブログ「歴史を考える」で「天狗界、仙界、真言密教会を考証する」の中で、「天狗小僧寅吉」についての書物を読んでいるときに、幾度となく「天狗界」「山人界」の本拠地として、四国の「象頭山」が出てきたことに由来します。
江戸時代に「天狗界」「山人界」で修行をして、俗界に戻ってきた「天狗小僧寅吉」について、平田篤胤(あつたね)が残した文献『仙境異聞』が有名で、
その中に「天狗界」「山人界」について、詳細に語られていて、今の時代に読めば荒唐無稽とも思えるほどの内容でした。
師匠とともに、世界各地を見て回り、挙句は「月」や他の天体までも観察したことが述べられています(それは、当然幽体離脱してのものと思われます)。
師匠は寅吉に、「武術一般の修行の仕方」「書き方」「神道に関わるもろもろの事柄―例えば、祈祷呪禁(きとうじゅきん)のやり方、符字(ふじ)の記し方、弊(へい)の切り方、易占い以外の占い方、仏教諸宗派の経文ほか、ありとあらゆるものを教えてくれました。
「天狗小僧寅吉」は、平田篤胤(あつたね)の家に来ると、様々な不思議な現象を開示します。
それを記したのは国学者で高名な平田篤胤(あつたね)ですから、虚言を述べるはずもなく、そこには真実が語られていると思われますので、そのような世界が実際に存在するのである、と思わざるを得ないものでした。
そのために、実際に茨木県の「岩間山」まで行き、我々はその現地での痕跡に触れて、感動してきました。
その『仙境異聞』の中で、幾度も「象頭山」に寅吉の師が、当番となって「象頭山」に行くことが語られていました。
それで、四国の「象頭山」が「天狗界」「山人界」の総本山であることを知り、「いつかは行かねば!」となって、今回の旅の目的となっていたのです。
さて―――
「象頭山」に行くには、金毘羅宮(金刀比羅宮)の奥社から、つづく途を行くことになります。
ですが―――
案内板に従って行きますと、とても「途」と言えるところではなく、ほとんど進むことができないほどの状況でした。
「これでは・・・・とても、無理だ!」となって、引き返しました。
こうなれば、一度麓に戻って、平地から別のルートで「象頭山」を目指さなくてならないーーーというところまで、考えました。
そのとき、カネゴンが奥社の関係者にルートを聞きに行き、もう一段下に「象頭山」に行くルートがあることを教わりました。
助かりました。
確かに・・・・そのルートの下に、わずかながら歩ける途があり、そこを進むことができました。
そこには、このような標識もありました。
途中から、このような正常な「途」となりました。
途中に讃岐の街並みが見える風光明媚な個所を通ります。
山容はそれほど険しくはなく、誰でも進むことができます。
その途は、このようになっています。
途中で休憩を取りながら進みます。
多くの方が通るところではないですので、サンダルなどでは危険なルートです。
しかし、私は当然のように「サンダル愛用者」として押し通しています。
カネゴンの後方に見えるようなルートです。
高齢者が行くには、少しきつかもしれません(私も高齢者ですが・・・・)。
もし雨天でしたら、少し滑る可能性があります。
慎重に進みました。
そして―――
「龍王社」の標識の在るところまできました。
左「金毘羅宮奥社」 右「山頂広場」
この画像には、「山頂広場」の標識の上に「生首(なまくび)」が載っています。
アジャリンコ、コジャリンコの娘である「リトル・コジャリンコ」です。
ここに「上代噴気孔 遺跡」
「龍王池」とあります。
昔は、ここに地下水が吹きあがる噴気孔があったのかもしれません。
ここが、我々が目指した「象頭山」の天狗界・山界の総本山のある地です。
特に何も反応しない「地」でした。
予想外の反応に、我々は静まり返っていましたが・・・・・
ここで、いきなりカネゴンの両肩に、ズシリと何かが載ってきました。
「何かが・・・両肩に載った!」カネゴンが叫びます。
元々カネゴンは、過去生で役小角(えんのおずね)という修験道の開祖の従者の一人であった、との反応を示す人物です。
修験道系の天狗界・山界に通じる過去生があるのです。
そのために―――
「象頭山龍王大天狗」が、「よく来た!」と歓迎したのかも・・・・我々はそのように解釈しました。
ここには、何かが反応している・・・・という意識を持ちますと・・・・やはり、反応が異なってきます。
これが「龍王社」です。
しかし、
天狗界・山界の総本山とするには・・・・・何か物足りない・・・・正直、そのような思いがありました。
そこで―――次元を変えました。
これが最高次元にしたときの画像です。
もの凄い高波動次元になりました。
20体を超える「大天狗」系のエナジー体が浮き上がりました。
この次元にセットすると、我々は全員の体軸が乱れました。
この高波動次元には、受け入れてもらえないからです。
長時間と留まれば、徐々にその高波動エナジーに同調していくのでしょうが・・・・そんな余裕はありません。
「龍王社」の超絶の高波動を、持参のブレスレットに吸引して、感謝の意を捧げました。
ここに、5体ぐらいの「天狗界のエナジー体」が、ジーっと我々の動向を見ていました。
「監視されている!」
気づいていましたが、何か粗相をしてしまうとマイナスの凶事が引き起こされる可能性があるので、ただただ感謝の念だけを捧げていました。
ここには、「象頭山」ではなく「琴平山」(524M)となっています。
丸金のマークがあります。
これは「金刀比羅宮」を示すものです。
大麻山(おおさやま)の広場に向かって進みました。
途はなだらかです。
さらに緩やかな斜面を進みます。
山頂広場までの標識です。
ブタクサの花のようです。
秋の花粉症のメインです。
すると―――
驚きました。
電波塔(中継塔)があります。
それも3か所に建てられています。
以前に本ブログで紹介した西日本の最高峰「石鎚山」に登ったときに、西日本の第2の最高峰「剣山」(つるぎさん)にも行きました。
その「剣山」(つるぎさん)の山頂には、電波塔が建っていて、山頂付近には電磁波の影響でマイナス波動が覆っていました。
「剣山」には、日本のお宝伝説が残っている地ですから、残念でなりませんでした。
この山の山頂には、電波塔がある・・・・のか・・・。
この電磁波を生じるエリアでは、自然の生態系が崩されます。
あらゆる生物の生息に影響します。
このような電波塔は、必要なことは理解できますが、自然遺産の観点からみると、大きなマイナス波動を生み出します。
このような電波塔は、20世紀に入ってから建てられたものと思われます。
これでは・・・・・「象頭山」の天狗界・山界の靈的な世界のエナジー体は、少なからず痛手を被っているのでは・・・・、と思われました。
「大麻山(おおさやま)」613.3Mとあります。
香川県では、最高峰となります。
ここは―――
隣接する象頭山(538M)と共に、瀬戸内海国立公園、名勝、天然記念物に指定されています。
ここに一等三角点があります。
公園の休憩所で昼飯を摂りました。
ここで、選択を迫られました。
〇 このまま元の途を引き返して、金毘羅宮まで戻り、ホテルに帰る(その後、クルマで出直す)
〇 このまま下り、古墳を見ながら、麓からバスに乗りホテルに帰る(その後、クルマで出直す)
我々は、
このまま途を下り、古墳群を見て「麓に行く」ことにしました。
しかし、これが大変なことになろうとは、この時点ではまったく思っていませんでした。
この後、我々は車道を歩いて下っていきました。
そして、「古墳群」の一つである「野田院古墳」(のたのいんこふん)に到着しました。
これが―――「野田院古墳」(のたのいんこふん)です。
ここまでは、バスが登ってきます。
しかし、バス停の表示では、ほとんどバスが来ることはないものでした。
この古墳のエリアは、大麻山の405Mのところです。
実は・・・・この後、麓まで延々と歩き通していくことになりました。
古墳を見降ろすテラスがあり、このように整備されています。
どうやら現在の古墳は、復元された平成の積み石です。
この辺りには5か所もの古墳群が点在していて、「石岡古墳群」と呼ばれています。
その中でも最も古いこの「野田院古墳」(のたのいんこふん)は、3世紀後半に造られもののようで、このように復元・改修されてしまうと、あまり有難みが湧きません。
この図を見て、ここが「前方後円墳」であることが判りました。
「前方後円墳」である「後円墳」のエリアの先に、瀬戸内海や讃岐の街並みが見えています。
眺望の案内板には、
「石鎚山(西日本最高峰)」から、「瀬戸大橋」までが表示されています。
この辺りの解説版があります。
このような表示がありますと、初めて来る我々のような旅行者には有難いです。
この図を見ると、当時に前方後円墳が造られて状況が理解しやすいです。
その作業工程までもが、詳しく解説されています。
この古墳の発掘現場の当時の画像が載っています。
これほどに荒れた現場であれば、改修して復元してくれなければ、一般観光客では寄り付けないことが判りました。
ありがたいことです。
そして、麓(ふもと)を目指して道を下りますが、いくら歩いてもなかなか麓まで辿り着けないほど歩きました(50分近く歩きました)。
U字状に曲がりくねった道を、ただただ歩きました。
これほど歩くのであれば、
「金毘羅宮」まで象頭山から引き返していけばよかった・・・・、と心から思いました。
こうして―――長い下り道を降りてきて、ようやく麓まで到着しました。
しかし、
バス停がありません。
そこで民家の方に尋ねると、はるかかなたにバス停があることを教えてくれました。
そこまで歩きバス停の時刻表を見ると、かなり到着までの時間があります。
すると―――
バス停に軽トラが止まり、先ほど道を尋ねた地元の方でした。
その方が、2往復してくれて、我々を運んでくれました。
こうして、無事にホテルまで戻ることができました。
その方は、四国(讃岐)では「お遍路さんを助けることは、昔から当然のようにやっている・・・・」とおっしゃっていました。
その日の夜、我々はこの方の民家を訪ねて、お礼を兼ねて「お酒」の差し入れをしました。
四国八十八か所を巡る「お遍路の人」は、地元の方々の「御援助」を頂きながら、昔から無事に旅の目的を達成していたのだろうと―――思われました。
つづく
2024年8月27日記