《 阿波の国から讃岐の国象頭山を巡る旅 10 》
灌頂ヶ滝―立岩神社―金毘羅宮―象頭山―弥谷寺―大麻神社―大水上神社-妙見宮―善通寺
善通寺――
屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくさん)、誕生院(たんじょういん)と号しています。
なぜ、「誕生院(たんじょういん)」なのか―――
それは、
今年2024年は、弘法大師空海「お大師様」がお生まれになって1250年になります。
そのために、今年は「50年に一度公開される秘仏」も公開されるといいます。
五岳山善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、
唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺です。
大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。
有名な恵果和尚については、空海が唐に渡り、長安・青龍寺を訪れたときに、数千人もいた弟子に法統を継がせる人物がいない中で、日本から来た留学生の空海に出会い、
「お前を待っていた・・・・・」と語ったことは有名です。
恵果和尚とは、『金剛頂経』と『大日経』の密教を統合した第一人者で、長安・青龍寺で東アジアから集まった弟子に法を授けていました。
15歳の時に霊能力を得たと云われています。
その噂を聞いた時の皇帝代宗は、恵果を宮中に呼ぶと、「その力を示せ」と命じました。
童子は皇帝の過去・現在・未来を答えたといいます。
これに驚嘆した皇帝は、恵果に帰依して、寄進したといいます。
このことから恵果は、三代にわたり「皇帝の師」として仰がれました。
その恵果に死期が迫っていました。
そのようなときに、日本から空海が訪ねてきたのです。
恵果は、すぐさま空海が自らの正嫡に価する法器であることを見抜き、翌日に胎蔵界の「受明灌頂」を授け、さらに金剛界の「受明灌頂」を授け、阿闍梨位に上る「伝法灌頂」を行ったといいます。
そして、恵果は宮中の絵師たちに、両界曼荼羅図や密法具の製作を命じ、自分の付嘱物を空海に与え、「この法をすぐに日本に持ち帰りそれを弘めなさい、それが私への報恩になる」と諭したと云います。
その後、すぐに恵果は自坊の東塔院で没したといいます。
空海に、ぎりぎりのところで恵果のすべてを授けることができたのです。
翌年、遺骸は埋葬され、弟子を代表して空海がその碑文「大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚之碑」を撰したといいます。
空海は師の埋葬を見届け、手配していた曼荼羅ほかの品々も全てできあがった後に、長安を発ち、その法統の全てを日本に持ち帰ったのです。
善通寺は広大な敷地にあります。
真言密教の「高野山金剛峰寺」「京都の東寺」と共に、弘法大師「三大霊場」とされています。
「四国八十八箇所霊場」の第七十五番札所で、「真言宗十八本山」の一番札所でもあります。
空海の父は、豪族でした。
「善通寺」は、お大師様空海の父である佐伯田公(さえきのたぎみ)通称「善通(よしみち)」を開基として創建されたもので、広大な境内は創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれています。
つまり、東西の二院に分かれています。
金堂、五重塔などが建つ「伽藍」は 創建時以来のエリアであり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師様がお生まれになった佐伯家の邸宅跡のエリアです。
この橋を渡って、「善通寺」へと入ります。
橋を渡ると、この門から境内に入ります。
ここが西院の「誕生院」です。
お大師様空海が生まれた「地」となります。
「四国八十八箇所お砂踏み道場」とあります。
どういうことなのか―――調べました。
それは、
四国八十八箇所各霊場寺院の御本尊をお祀りして、各寺院から頂戴した「お砂」を正面に敷き、それを踏みながら礼拝していくことにより、四国八十八箇所霊場を巡拝されるのと同じような功徳を積むことができる、というものです。
この「善通寺」には、四国八十八箇所各霊場寺院の御本尊の仏像の全てを、楠木から造り、「道場」として常設しています。
つまり、常設された「四国八十八箇所お砂踏み道場」に来れば、「四国八十八箇所霊場の全ての御本尊仏像」と対面して、その功徳を受けることができるというものです。
「聖天堂」とあります。
「聖天」様は、私の守護神の一つですから、喜んで中に踏み入りました。
「聖天堂」の内部です。
残念ながら、「聖天」様のエナジーは反応しません。
「オン キリク ギャクウン ソワカ」の御真言にも反応を示しませんでした。
本質的に「聖天」様を祀るのは難しいので、やはり留まってはいないようです。
「南無大師遍照金剛」と、お大師様の御真言が書かれています。
これは「聖霊殿」です。
「聖霊殿」の扁額があります。
中に入りますと―――
このようになっています。
ここも それほどの波動ではありません。
ここの横に「ぼやけ地蔵堂」があります。
子供の頬やけ(あざや火傷の痕)の治療に御利益があったようで、「あざ」や「病気の平癒」の信仰を集めている「お地蔵様」が鎮座する「地蔵堂」です(画像には映っていません)。
その背後に、おびただしい数の地蔵菩薩の石像が並んでいます。
「五百羅漢」です。
どれもこれも「五百羅漢」の「地蔵菩薩の石像」です。
「五百羅漢」とは―――
お釈迦様に従った500人の弟子たちを指します。
あるいは、釈迦の死後に「お経を編纂する会議に集まったメンバー」とも言われています。
これだけ石像が並ぶと・・・・・通常では、マイナス波動の不浄佛霊などが人型の石像に入り込みます。
タッキーがいれば、すぐにタッキーの身体に全ての石像のエナジーを注入して、その反応を見るのが常でした(当然、すぐに浄化します)。
しかし、タッキーがいないので、その代わりにカネゴンを探しました。
が、しかし・・・・いないのです。
どこにも見つかりません。
事前にそのことを察知したカネゴンは、私から隠れていました。
いたら、自分に何かされると判断して、私から身を隠していたのです。
「鐘楼」です。
江戸時代末期に再建されたもので、梵鐘は昭和33年のものです。
「御影堂(みえどう)」です。
「大師堂」でもあります。
「御影」とは、祖師やその姿を指す言葉です。
ここには、秘仏・瞬目大師像を祀っていることから、この堂は「大師堂」ではなく
「御影堂」と呼ばれています。
現在の「御影堂」は、1831年(天保2年)に建立されたもので、奥殿の厨子内には秘仏・瞬目大師(めひきだいし)像が祀られています。
この秘仏は50年に一度しか御開帳しないものですが、今年はお大師様生誕1250年なので、特別御開帳があるということです。
また、「御影堂」の地下には、約100Mの通路があり、これを巡る『戒壇めぐり』は精神修養の道場となっているといいます。お大師様と結縁できるといいます(我々は入りませんでした)。
仁王門の裏側です。
ここには、巨大な「草鞋(わらじ)」があります。
そこに「四国八十八箇所の御遍路」を踏破した草鞋を、ぶら下げておくようです。
「仁王門」の表側には、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の2体の仁王がいます。
これは吽形(うんぎょう)で、口を閉じていて「物事の終わり」を意味しています。
こちらは阿形(あぎょう)の仁王で、口を開けていて「物事の始まり」を意味しています。
「中門」を潜り、東院の「伽藍」へと進みます。
「五重塔」があります。
高さ43Mで、国内の五重の木造塔としては3番目の高さです。
創建以来、幾度も倒壊や焼失に見舞われていて、現在の塔は明治35年に完成した4代目です。
我が国は、いくつもの「五重塔」がありますが、地震大国の日本ではほとんど倒壊しません。
それは―――
「心柱」が一本あって、他の建造物とは繋がっていないので、大地震がきても心柱が揺れるだけで倒壊しないのです。
また、ここの「五重塔」は懸垂工法というもので、中心にある「心柱」は土台から浮いています。
上部で、鎖(くさり)で「心柱」を吊り下げています。
構造上、どのような役割を果たしているかは、まだ解っていないようです。
「五重塔」の内部には、5体の仏像が安置されていて、「心柱」を囲むように配置された4体は拝観ができますが、5階の「厨子」内にある「中尊大日如来像」は非公開です。
ここに「五百羅漢」のような石像が多数置かれています。
妙にリアルなお姿をしています。
これは壮大なもので、「自分にマッチした像」が必ず見つかる―――と思って、それを各自が探しました。
これが、私に最もマッチした石像でした。
何だか・・・・あまりパッとしないものでした。
これらの石像は、全てが奉納されたもののようです。
だから・・・・妙にリアルな表情で、その奉納した関係者の顔つきを示しているのかもしれません。
そのような視点で眺めると、全てがマイナス波動となってきます。
「子授修行大師」像です。
子供を抱えています。とても穏やかな表情が、見ている者にとって安らぎを与えます。
「本堂」(金堂)です。
本尊「薬師如来」とあります。
「薬師如来」の波動なのか、高波動が感知されます。
創建当時の本堂は、永禄元年(1699年)に兵火によって焼失しました。
その後、現在の建物は永禄13年(1700年)上棟されました。
これが―――本尊「薬師如来」です。
高さ3Mもある巨大な仏像で、永禄13年(1700年)に仏師北川運長によって造像されました。
再び「御影堂」です。
その内部です。
「南無大師遍照金剛」の弘法大師空海の「御真言」に反応します。
お大師様の足跡は、全国津々浦々に残りますが、この「地」で生誕されて、真言密教の法統を継ぎ、今も高野山奥の院に眠るエナジーは、日本の各地にそのエナジーのネットワークを形成しているかのように思われます。
いまなを・・・・我が日本国を陰ながら支えていてくれているのであれば、私たちは心から感謝の思いを捧げなければいけないかもしれません。
南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛・・・・・・。
了
2024年10月1日記