生命体エナジー浄化の会ブログ

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スポーツ選手と呪詛 その2

≪ スポーツ選手と呪詛 その2 ≫
 
11-8-18
 
  
古来より、闘いの場とは―――「戦場」だけでなく、互いの呪詛合戦を行う「霊的な戦場」がありました。
 
これについて―――
 
500年もの長きにわたる秘教の家系を継いできた ある密教僧は、語っています。
 
「人を呪い殺す方法は・・・いくつかあります。
私の先祖も・・・・この呪詛を使って いたようです。
 
しかし、相手を呪い殺すと、そのカルマが子々孫々まで及ぶので、自分の代でカルマを清算するために・・・・自分で入寂(にゅうじゃく:自分の意志で肉体を 死に至らしめること)するのです・・・・」
 
なにやら 恐ろしい話ですが、これは作り話ではないと、思われます。
 
 
北条時代の「元寇」では、朝廷は全国の主だった神社・仏寺に―――元の襲来を食い止めるための秘儀を行う命を発しています。
 
我が国の 全ての神官及び仏教僧が一丸となって、呪詛や祓いなどの秘儀によって、国家レベルで「元」の大艦隊を水際で食い止め、神風(台風)によって、2度にわたる「元寇」から救った―――という裏の歴史があります。
 
京都の東寺には、五大明王の中心に『大元帥明王』が鎮座しています。
 
この大元帥明王は、密教系の寺院においては 国家的なレベルのとき―――国難を回避するため修せられるもので、
 
平将門(たいらのまさかど)の乱』や『元寇』のときに「大元帥明王法」が行われていたことは、その世界においては有名です。
 
この法は、朝廷の命でしか行えない大秘法であり、朝廷の独占でしたが、のちに一部の武将や貴族が行っていた―――と 言われています。
 
註:
大元帥明王法」は、霊仙(れいせん)という密教僧が唐に渡って受法したのですが、唐の皇帝が霊仙を寵愛して、自分を守る護持僧として 帰朝を許されないままに亡くなりました。
 
そこで空海の弟子が渡唐して、わが国に持ち帰り、国が管理する奈良の秋篠寺と朝廷、あるいは京都の法琳寺、醍醐寺でのみ行われた―――といわれています。
 
 
また、源 頼朝は、義経を匿っていた奥州平泉の藤原秀衡を、呪詛を使って呪い殺すことを命じており、実際に 秀衡は急死しています。
 
その秀衡の後を継いだ藤原泰衡に裏切られて、源義経は討たれた―――と、いうことになっています。
 
義経を討った藤原泰衡は、結局 征夷大将軍・源 頼朝にあっけなく滅ぼされてしまい、鎌倉幕府の力が一段と強まっていきます。
 
が、しかし―――
 
武士によって 天皇の権威が揺らいでしまう状況を打破して、朝廷の主権を回復しよう―――としたのが、後鳥羽上皇でした。
 
将軍 実朝(さねとも)を呪殺して、その胤(たね)を抹殺しようとして、幾度も調伏祈祷(ちょうふくきとう)を行っています。
 
そして―――
 
実朝は不可解な暗殺事件で命を落とし、結果的に 将軍家の胤(たね)は滅びました。
 
 
戦国時代では、互いに呪詛を使って、相手の敵将を呪い殺す―――といった裏世界の話は、日常茶飯事であったと思われます。
 
魔界の霊体(エネルギー体)に守られていた織田信長は、霊的バリヤーを強化することもあって、常に臨済宗の禅僧二人がおりました。
 
信長の若い時代は―――教育係であり、また武田信玄の病状まで知らせる情報源でもありました。
 
サポート役に徹しておりましたが・・・・魔王となった信長を、最終的には本能寺の変において抹殺するために、裏世界で画策していたのでは・・・との憶測があります。
 
石上本願寺との戦慄の闘争や、比叡山における 婦女子に至るまでの皆殺しの所業では、強烈な信者達や 仏教徒の『呪詛』を受けていたのは間違いありませんが―――
 
それを払いのけるだけの 背後に潜む魔界のパワーが巨大であった―――と思われますが、結局 光秀に滅ぼされたのですから、霊的世界によって調伏された―――とも、言われております。
 
 
戦国時代といえば、軍神・毘沙門天を信仰する上杉謙信武田信玄の闘いが、思い起こされます。
 
両者の闘いの 霊的背後は―――まさしく呪法合戦であり、互いに相手を調伏するために,あらゆる呪術を用いていたようです。
 
「飯縄(いいづな)の法」とは、戸隠地方に伝わる呪法で、飯縄権現(いたち系の眷属)を使って、相手を呪殺するものです。
 
上杉謙信の兜には、この飯縄権現不動明王と一緒に彫られています。
 
一方、武田信玄もまた、飯縄権現を信仰し、秘法を修めており、その子・勝頼に伝えています。
 
両者は、川中島の戦いでは 雌雄は決しませんでしたが、飯縄権現の眷属を相手にとばし合っていたようで、信玄は上洛を前にして病没し、謙信もまた、上洛のときに、病没しています。
 
信玄の呪法の祈願文に―――「謙信の一族が反乱を起こす」か「病没するように・・・」と、呪詛の念を綴っているのが残されています。
 
ついでに もうひとつ―――
 
1970年(昭和45年)は、わが国の各地で『公害病』が表面化して、水俣病四日市喘息が社会問題となっているときです。
 
企業側は、一切の責任はないと主張することに対して―――
 
『公害企業主を呪殺』するとの旗を手にして、呪殺行脚の祈祷僧団のレポートが、1970年の朝日ジャーナルで報じられています。
 
この祈祷僧団の「公害企業の責任者を 呪詛で呪い殺す」という行為に対して、賛否両論があったようですが、
 
結果―――
 
ある公害企業の場合、1年後に 会社幹部が次々と死に至った・・・とも伝えられています。
 
本質的に、呪詛をかけるということは―――決して 他人に知られてはならない、とされるものです。
 
したがって、全ては水面下で行われるもので、多くの方々は その存在すら気がつかないようです。
 
しかし―――厳然として、今でも存在します。
それを知った上で、はじめて対処ができるのです。
 
つづく