生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

丹生川上神社下社登拝 その3

《 丹生川上神社下社登拝 その3 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

石舞台古墳

 

 奈良の飛鳥にある「国営飛鳥歴史公園」に向かいました、

そこには有名な「石舞台古墳」があります。

 

駐車場を降りると、遠くに「国営飛鳥歴史公園」があります。

 

 

300円を支払って、中に入ります。

 

「古墳」は、通常は盛土があって、外部が土で覆われていますが、ここでは盛り土がありません。

そのために、「古墳」を形成する「石」がむき出しになっています。

 

この古墳は、「方墳」というもので、出来た当初は、盛土で覆われていたと思われますが、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。

天井の石の上面が広く、大きく平らで、まるで石舞台のように見える形状から、

この古墳は古くから「石舞台」よ呼ばれています。

 

 

古墳の上には、巨大な石が載っています。

 

墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300tです。

 

古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるといいます。

この巨大古墳が誰の墓なのかは不明です。

 

このような巨大な石を持ってきて、「古墳」を造るとう技術が昔の日本人でも行えたということに、少し誇らしいものがあります。

 

石の総重量は推定2,300tということは、天井石でも77tあるので、これを持ち上げるのはどうやって行ったのか―――

 

以前に、本ブログで

「自分の過去生の全ての記憶を覚えている方がいて、その方はインカ時代の子供の頃に、2人の男性が石を空中に持ち挙げて、それをはめ込んでいた時の記憶があった」ことを記しています。

 

イースター島に行ったときに、まだ岩の中に彫られたままで、その島最大の「モアイ像」を見ましたが、

それが立ったままで彫られているではなく、地面に横たわっている状態だったので、どう考えても、そのモアイ像の下の面を削り取ることは不可能に思えました。

 

空中に浮かせる何らかの技術が必要で、いまでも「どうやってモアイ像が移動できたのかが解明されていない」のが現状です。

 

実際に、多数の丸太を地面に置いて運んだ説も、現実では成功しませんでしたし、大勢でロープで引き、歩かせたという説もありましたが、成功しませんでした。

 

ただ、いまだに反重力を使って運んだのではないか―――という説が、最も有力なものとなっています。

 

古代の人は、「反重力を操れる能力があった」と主張する学者も少なくありません。

現在でも、反重力は実験室レベルで成功しているに過ぎないのです。

 

このことから、エジプトの大ピラミッドの建造でも、この「反重力を操れる能力」を用いていたとの説は、今でも有力です。

 

この「石舞台古墳」は、できた当初は盛土があったはずですから、丸太に石を載せて、ロープで多人数で引っ張って、上から載せて、古墳を造ったと通常は考えられますが、

重さが77トンにもなりますと、簡単にはいかないかもしれません。

 

1933(昭和8)年~35(昭和10)年の発掘調査で、方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されています。

そのことから、築造は7世紀初め頃と推定されています。

また、

その巨石は、3キロ離れたところから切り出されたものです。

古墳時代の昔に、どうやって運んだのかを想像するのも面白いものです。

 

ここからが「入口」になります。

 

上に載った巨石が、まさしく「石舞台」を思わせます。

 

このとき、「古墳の中」に入るのに、少し違和感がありました。

我々は、「歓迎されていない」と認識されました。

 

このことは、超過敏なゾネスや皇子も感知してしました。

 

このまま―――この古墳の石室の中に入り込んでは、正しく状況は掴めなくなるかもしれない・・・・・。

 

こんな思いがあり、まず「この中に入ることのお許しを頂く」ことにしました。

 

この画像は、そのお許しを頂いた後のものです。

これで、

我々を歓迎してくれる―――との反応に変わりました。

 

石舞台古墳の俯瞰図(ネットより)

 

 

 

石室の内部です。

人が立って入れるだけの、十分な大きさがあります。

 

石の隙間から、光が漏れています。

ここに―――

出来上がった当初(7世紀)には、石棺があって、人が埋葬されていたものと思われます。

 

誰の墳墓なのか?

これには諸説あるようですが、最も有力なのは蘇我馬子の墓という説です。

 

というには、この近くに蘇我馬子の邸宅があったからです。

もし悪名高い蘇我馬子であれば、盛土がすべてなくなってしまったことも理解できます。

 

蘇我馬子は、聖徳太子亡き後、太子の子供の山背大王子(やましろおおえのおうじ)とその一族を滅ぼしました。

 

そして、天皇家を凌ぐほどの勢力を持つにいたり、645年中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智天皇(てんじてんのう)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、中国(隋や唐)で政治や文化を学んで帰国した留学生と共に、蘇我氏を滅ぼしました。

 

そして、政治改革に着手したのが、有名な「大化の改新」です。

 

改心の基本方針は―――

1,公地・公民(豪族が支配して所有していた土地・人民)を、国家が直接支配する

2,班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)

戸籍を作り、公地を公民に分け与え、死ぬと国に返還させる

3.国郡制度(全国を国と郡に分ける)

4.租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)の税制

   公民に税や労役を負担させるなどを定めた

 

これによって、「律令国家」の基本が定まりました。

 

さて―――

蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が殺されて、国家としての体制が整いましたが、これは蘇我馬子であろうと推察されるだけで、確定される資料はありません。

 

我々は、「蘇我馬子の墳墓説」に同意しています。

というのは―――

 

2023年7月に、この近くにある「飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)」に行きました。

そのとき、初めて聖徳太子の反応を感知しました。

 

今までに多くの神社、仏閣に行きましたが、聖徳太子の反応を感知したのは、初めてでした。

 

そして―――その近くに、「蘇我入鹿首塚」があり、いまだにそこはマイナス波動で、そのエリアに留まるだけで、体軸が歪んでしまう反応がありました。

 

「大化の改心」で殺された蘇我入鹿は、蘇我馬子の孫にあたります。

 

確かに、そこには「蘇我入鹿首塚」として反応しましたので、「首」が「首塚」に埋められてようですが、その首塚と「石舞台古墳」に埋葬された人物の血縁関係をチェックしました。

 

「血縁関係のある人物」と確認されます。

「血」は、その血縁関係のチェックで、正確に判断されるようです。

 

そこで―――1400年から1500年前にセットして、誰れが埋葬されたのかをチェックしますと、「蘇我馬子」との反応が出てきました。

やはり・・・・従来からの指摘通りの反応でした。

 

さて、古墳の内部に入ると―――体軸が歪みます。

なぜなのか?

 

埋葬された「死者」にとっては、その内部は神聖なエリアです。

その神聖なエリアに、何の関係もない人々が入ってくるのですから、嫌がるのは当然かもしれません。

 

それで、この内部空間はマイナス波動になっているのかもしれません。

 

このときの我々も、一様に軸が乱れました。

そこで―――次元を変えました。

 

次のものは、高波動の次元に変えたものです。

9次元の高波動空間になりました。

それで―――

この画像に映っている人物が、一様に波動が整いました。

 

ついでながら、本ブログで書いていますが、私の住む田園調布の隣の駅である「多摩川駅」の駅前には、大きな古墳があります。

 

公園となっていますが、その周囲の建造物は、ほとんどがマイナス波動です。

その古墳の影響です。

 

その周辺の100から200Mの空間の住居は、全てがマイナス波動で覆われています。

 

田園調布は、今でこそ高級住宅地とされていますが、関東大震災のときに、ほとんど無害だったので、セレブが移り住んできて高級住宅地となったのです(私の住むところは高級住宅地ではありません)。

 

関東大震災では、首都東京の大半の建造物は崩れ落ちました。

それを、ほとんど無害で終わらせたことの背景には、この多摩川駅前の古墳が大地を守っているから―――私は思っています。

 

多摩川駅前の古墳には、誰もが自由に出入りできますが、やはり人が入るのを嫌います。

周囲の住宅街にも悪影響をもたらしていますが、大地はしっかりと守っているようです。

 

そのようなことから、この「石舞台古墳」は―――

人が入るのは嫌がりますが、近隣の大地はしっかりと守護してくれているように思います。

 

本来的に、古墳を建造する場所は、「いやしろち」といわれる大地のエナジー波動が高いエリアに設けられます。

 

「けかれち」という大地の波動が悪く、人や犬,家畜などに病気を招くエリアには、まず造ることはありません。

 

古い神社・仏閣あるいは古い教会なども、大地からの高波動が繋がるようなエリアに建てられています。

 

 

この古墳の中を、次元を変えて高波動空間にしたときの「内部」です。

この空間の中にしばらく留まりますと―――

 

体軸が安定して、整ってくるのが判ると思います。

 

              つづく

 

            2024年2月20日記

 

 

丹生川上神社下社登拝 その2

《 丹生川上神社下社登拝 その2 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

ダンノダイラ磐座

 

 岩尾神社で、巨石群に触れて麓に戻ると、そのまま続いて、「ダンノダイラ」を目指しました。

 

「十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)」です。

「岩尾神社」から下ってくると、その麓の集落にあります。

 

 

 

ここに「案内標識」があります。

それによると―――

「祭神 神代七代(かみよななよ)の神

     国常立神など 7柱

     地神五代の神

     天照大神など 5柱

十二柱神社は 「出雲ムラ」の村

大昔は、神殿がなく「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700Mの嶺の集落地)を拝んだ云々」

このように書かれています。

 

参考までに―――十二柱の神々とは、

神代七代
・国常立神(くにとこたちのかみ)
・国狭槌神(くにのさづちのかみ)
・豊斟淳神(とよくもぬのかみ)
・泥土煮・沙土煮(うひじに・すひじに)の神
・大戸之道・大苫辺(おおとのじ・おおとまべ)の神
・伊邪諾・伊邪冊(いざなぎ・いざなみ)の神
・面足・惶根(おもたる・かしこね)の神

地神五代
天照大神
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
・彦火日出見尊(ひこほほでみのみこと)
・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

 

十二柱神社の鳥居です。

「十二柱」ですから、十二の神々が祀られています。

 

この地には、相撲発祥(諸説あり)の地として知られています。

というのは、

出雲集落のこの地は、日本初の天覧相撲で勝利した 野見宿禰(のみのすくね)を祖とし、境内に五輪塔があります。

 

この地に、野見宿禰(のみのすくね)が住んでいたという伝承があり、昔は古代の「出雲集落のダンノダイラ」に村人が集まり、相撲を取ったと云われています。

 

また、第25代武烈天皇の「泊瀬列城宮跡」伝承地とされています。

 

大和の古道紀行として

野見宿禰(のみのすくね)信仰として、江戸時代は巡業で通る力士一行は、必ず野見宿禰(のみのすくね)の墓に参拝しました。

明治16年ころまでは、信仰のシンボル的存在として宿禰塚があったようです」

とあります。

 

これが「本殿」です。

 

ここは、創建年は不明ですが、大昔は神殿がなく古代の出雲集落にあった「ダンノダイラ」とよばれる磐座(いわくら)を祀っていた、とされています。

 

武烈天皇泊瀬列城宮伝承地」とあります。

 

武烈天皇は、仁徳天皇の皇統が絶えたことに関わるようで、仁徳天皇が聖帝で、武烈天皇は悪性非道な政治を行ったと日本書紀では強調しているようです。

 

日本書紀』における武烈天皇による悪虐非道の記述は、『古事記』には一切見られないといいます。

日本書紀と比較すると、古事記の記事は極めて簡潔なものになっているようです。

 

 

「泊瀬列城宮伝承地」とあります。

 

悪虐非道の名を遺した武烈天皇ですが、この地に「宮」があり住んでいたようです。

武烈天皇には「子」がなくて、応仁天皇の5世の孫を迎え入れたといいます。

 

 

「泊瀬列城宮」の跡地です。

 

日本書紀』による記述では―――

「長じて罪人を罰し、理非を判定する事をお好みになった。法令にお通じになり、日の暮れるまで政治をお執りになって、世に知られずにいる無実の罪は必ずお見抜きになり、それをおはらしになった。

訴訟の審理はまことに当を得ておられた。」

とある一方で、

「また、しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった。さまざな酷刑をご覧にならないことはなく、国内の人民は、みな震え怖れていた。」

ともあります。

思うに―――

 

その当時の民は、武烈天皇を慕うこともなく、多くの方の「呪詛」を受けていたと思われます。

 

そのためなのか―――この地にはマイナス波動が、今でも蠢(うごめ)いています。

画像の後方の「地」には、人が踏み込むと身体が歪みます。

 

不思議なことに、後方にも集落の家屋がありますが、その住人は平常のままでいます。

それは、「十二柱神社」や、これから行くことになる「ダンノダイラ」、あるいは「岩尾神社」の影響が及んでいるのかもしれません。

 

 

「ダンノダイラ」への標識があります。

これより、古代の出雲ムラの集落があったとされる「ダンノダイラ」を目指します。

 

はじめは、緩やかな途を進みます。

 

まだ、この辺りはいいですが、徐々に傾斜がきつくなってきます。

 

かなり傾斜がきつくなり、息が上がってきます。

 

すると―――

ここに「古代の出雲ムラ」とあります。

 

「古代人が畏敬した御神域です。

神の奉斎地です」

このような標識があります。

 

すごい「高波動の地」です。

 

この「地」に長く留まりますと―――身体が溶け込んでいくような感覚に襲われます。

 

この地で、下から上空に向けて画像を撮りました。

高波動です。

 

さらに嶺を進みます。

 

すると―――

「磐座(いわくら)」の標識です。

 

「ダンノダイラ」の東端に、約20メートル立方の巨大な磐座が、下半身を埋もれて鎮坐している。

磐座から南へ30メートル谷越えに、三列の石組み跡がある(昔の拝伏場か)。

 

磐座から東方の峡谷下、約800メートルに乗田神社(ひきたじんじゃ)がある。

 

昔、出雲村の十二柱神社には 本殿がなく、この磐座さんを拝んでいた(地元伝説)」

とあります。

 

これが「磐座(いわくら)」です。

確かに・・・高波動です。

 

この下に住む住民(出雲村)が拝むだけのことはあります。

 

この「磐座(いわくら)」の中に、自分の身体を投入しますと―――

肉体よりも、「霊体」が浄化されます。

 

これからは、さらに一段と「靈主体従」(肉体よりも霊体が優位に働くこと)の世の中になると云われていますので、この「磐座(いわくら)」は多くの方の「霊体」を癒してくれるものと思われます。

 

この御神体の「磐座(いわくら)」は、誰もが踏む込むことを嫌います。

 

ようやく許可を頂いたので、その上に登りました。

すると―――

このように、亀裂が入っていました。

 

その最もパワーがあるエリアに、持参のブレスレットを置いて、「磐座(いわくら)」のパワーを吸引しました。

 

とくに幽体(コーザル体)を整えます。

 

その「磐座(いわくら)」の近くに、別の「磐座」があります。

これも、高波動です。

 

カネゴンが両手を当てて、磐座からパワーを吸引しました。

 

さらに―――

両手だけでなく、自分の額(ひたい)も当てて、全身に磐座のもつパワーを吸引します。

このとき、

「静脈血」の循環促進が見られました。

つまり、「血流」が促進されるような反応が認められます。

 

この磐座も、高いパワーがあります。

 

この磐座からも、持参のブレスレットに高波動を吸引しました。

 

天壇(てんだん)の跡

「ダンノダイラ」中央西寄りにある。

直径20メートルぐらいの土盛りが、5段の円球状になっており、最上段には多くの小石がある。

 

ここは日本式天壇(てんだん)の跡ではないか」

としています。

 

「天壇」とは、中国では天子が帝城の南郊で、冬至の日に、親しく天帝を奉祀した祭壇のことです。

 

つまり―――ここは、古代の祭壇跡だったようです。

 

ここが、天壇(てんだん)の跡です。

 

 

 

我々一行9人は、この「天壇(てんだん)の跡」に立ち、いにしえの古代人に思いを巡らせて、超絶の高波動の「地」に感謝の想いを捧げました。

 

そして―――

一人ずつ「天地結合の印」を結んで、大地(地球)と天(太陽)のエナジーを身体に入れて、体内で結合させます。

 

久々に参加したモリモリも「天地結合の印」を結び、高波動のエナジーを吸引しました。

 

こうして、「岩尾神社」「十二柱神社」「ダンノダイラ」と巡り、次の目的地である「石舞台古墳」を目指しました。

 

            つづく

 

           2024年2月13日記

 

丹生川上神社下社登拝 その1

《 丹生川上神社下社登拝 その1 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

岩尾神社

 

 2022年6月上旬にかけて、前回の「パワースポット探索の会」で行った丹生川上神社「下社」の本殿までの「登拝」ができる日が、年に一度だけあって、

 

事前に申し込みして許可を得た方のみが、それが許されます。

 

この「丹生川上神社下社」では、福井県の「御神島」から繋がる「レイライン」があり、この本殿には、「金龍」「神龍」など、あらゆる「龍神」の反応があり、

 

どうしても、その絶大なパワーの片鱗に触れたいと思い、再び奈良県の「吉野の地」に向かいました。

 

奈良県には、幾多のパワースポットが点在していて、この機会にいくつかのエリアにも訪れました。

 

まず、岩尾神社を訪ねました。

 

「岩尾神社」とあります。

 

「鳥居」には、「結界」はありません。

ですが、その先の参道は、なかなか良好な波動です。

 

期待をもって、この参道に踏み込みます。

 

この参道の入口に「案内板」があります。

そこに―――

「大字吉田の氏神で、神社の名も岩尾(いわお。大きな石の意)と呼ぶように、巨大な二個の自然石をご神体とし、その間に祠を設けて 岩尾大神が祀られています」

このように書かれています。

 

この参道を昇ります。

 

参道の途中に、左右に「狛犬」が置かれていて、これが「結界」となっています。

ここを通過することで、身体が浄化されます。

 

さらに参道を進みます。

参道の傾斜は、かなりきつくなります。

 

そこを昇りきると―――

「拝殿」があります。

 

ここでは「本殿」はなくて、その上にある御神体「岩」が、「本殿」となります。

 

「拝殿」の横に、丸岩があります。

ですが―――

 

これは、それほどのパワーではありません。

 

「拝殿」の後方に、御神体岩があります。

 

ここは、「巨石信仰」の本拠地で、この背後の山の一帯に巨石群あり、ここが聖地のひとつとなっています。

 

この「磐座」(いわくら)は、なかなかの高波動です。

 

拝殿の先に、「神殿」と思われる祠があり、その先に「御神体岩」があります。

 

この左側の「御神体岩」が「男岩」と呼ばれるもので、右側が「女岩」と呼ばれています。

その両者の間が「祭祀場」であったようで、「男岩」には十字のベルトがあります。

 

これが、「御神体岩」を祀る「祠」と思われます。

 

これが「御神体岩」(女岩)です。

ひじょうに大きな「磐座」です。

 

なぜか、「十字のベルト」が岩にあります。

この「磐座」の前には、小さな「祠」があります。

 

我々は、この「御神体岩」に手を当てて、「太陽信仰」(?)と繋がるエナジーを吸引しました。

 

実際に、この「御神体岩」から、「太陽のエナジー」を吸引することができました。

このとき、地面についた両足から、「地球の大地のエナジー」も同時に吸引しています。

 

これだけでは、収まりません。

我々は、この巨大な「御神体岩」の上に回りました。

 

ここの上には―――

やはり、「御神体岩」のエナジーを吸引しやすいところがあり、全員でエナジーを吸引しましたが、どうやら―――

 

ここからは、「太陽」ではなくて、「土星」のエナジーを吸引することになりました。

背後の山には、巨石群が点在していて、その全てを見るのは出来ませんでしたが、多くのスポットに接しました。

 

この「磐座(巨石)」は、「木星エナジー」が反応します。

 

まだまだ、「磐座(巨石)」は点在します。

 

この「磐座(巨石)」には、「火星のエナジー」が反応します。

ということは―――

 

この巨石群には、「太陽系の天体の全て」が反応しているエリアかもしれません。

 

縄文時代(1万2000年前)からの信仰の「聖地」であった、と云われていますが、

確かに、それだけのパワーが反応するエリアであるようです。

 

「神殿」と思われる「祠」が祀っている、右側の「男岩」と左側の「女岩」の上です。

 

巨岩の「女岩」の上に登り、ここに―――

我々が持参したブレスレットに、「太陽のエナジー」を吸引させました。

 

我々は、パワースポットに行く度に「エナジー」を吸引しますので、ブレスレットはその都度 輝きを増していくのが判ります。

 

 

神殿の「祠」の手前が、「男岩」です。

「月のエナジー」が感知されます。

 

「月のエナジー」が感知される「男岩」には、横一文字に溝が彫られています。

どういう意味があるのかは、解りません。

勝手な解釈では、これを「男根」としていたのかもしれません。

 

画像にありませんが、この「男岩」にも「十字のベルト」のようなものがあります。

「太陽祭祀」に関わるものなのか、よく解りません。

 

「男岩」に手を当てて、「月のエナジー」を身体に吸い込んで、陰陽のバランスをとりました。

 

「女岩」から「太陽のエナジー」を吸引していますので、この「男岩」から「月のエナジー」を吸引して、「陰」と「陽」のバランスがとれるようです。

 

こうして、我々は「岩尾神社」から下ってきました。

 

              つづく

 

           2024年2月6日記

 

幕末の天才・小栗上野介を分析する その2

《 幕末の天才・小栗上野介を分析する その2 》

 小栗上野介が世間に注目を浴びたのは、江戸幕府の「金庫番」勘定奉行を務めていた時期があって、

江戸幕府が「恭順」して、日本の統治・政治を朝廷に返す「大政奉還」を決行して、新政府軍とは争いわない決断をしたからで、

 

官軍には「錦の御旗」があり、これに逆らえば「朝敵」となることを恐れて、京都から江戸に攻め上るときにも、途中の「藩」はすべて官軍に従いました。

 

その後、江戸城の「無血開城」を経て、東北から旧幕府軍の残党が残る函館戦争に至るまでに、官軍は会津を蹂躙して、庄内藩を屈服させていきます。

 

その途中の江戸幕府の江戸に迫るときに、小栗上野介が今の群馬県に至る道筋では、悉くしらみつぶしに徹底的に小栗上野介が持ち出したとされる江戸城の「御用金」を探していました。

 

これが、いわば「徳川埋蔵金」伝説です。

この背景を探ります。

 

小栗上野介は、幕府の榎本武揚大鳥圭介、水野忠徳らと、官軍と戦う「徹底抗戦」を主張します。

15代将軍の徳川慶喜は、和睦するか戦うかの両論の構えを取っていました。

 

「箱根の関」と「碓井の関」に目付を派遣して、官軍を迎え撃つ体制の強化を図っています。

実際に、この時点においては「鳥羽・伏見の戦い」に参戦していなかった幕府軍は、多数の予備兵力が温存されています。

 

しかし、徳川慶喜勝海舟の主張する「恭順」の意思を、強く固めていました。

 

小栗上野介は、幕府軍の戦法として―――

「官軍が箱根を降りてきたところで、陸軍で迎撃する。

同時に、榎本武揚率いる幕府軍艦隊を駿河湾に突入させて、艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させる。

そして、

補給路が断たれた官軍を、挟撃して(挟み撃ちにして)殲滅させる」

というものでした。

 

これを後に伝え聞いた軍事の天才・大村益次郎長州藩の軍事参謀・司馬遼太郎の小説「花神」のモデル)は、

「その策が実行されていたら、今頃我々の首はなかったであろう」

と述べています。

 

小栗上野介は、江戸無血開城に反対する勢力として、上野に籠った「彰義隊」の隊長として、残って戦ってくれないかと打診されていますが、

徳川慶喜薩長と戦う意思が無い以上、無名の士で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶したと伝わります。

 

日本が近代化を進めた結果、わずか30年で世界の列強国の一つにまで駆け上りました。

これは、「世界史の奇跡」と云われましたが、

 

「そうではない。近代化を推し進める土壌が、すでに江戸時代にあったからだ」

と、云われています。

 

どういうことなのか―――

 

日本の近代化が進んだ背景には、日本の識字率の高さがありました。

ようするに、

文字が読み書きできる国民の比率が、先進国の欧米に比べても圧倒的勝っていたからです。

 

江戸時代には、市民は「寺子屋」があり、武士には各藩に知識・教養を教える「藩の塾」が必ずあって、大多数の国民は識字率の高さが

あったのです。

 

日露戦争のときに、ロシアの兵隊は文字が読める者が圧倒的に少なく、武器の扱い方や仕様書などが理解できる者が少なく、

「ロシア兵の砲弾は、日本軍のはるか上空を飛んできた」

と証言されています。

 

また、西欧の国々では「言語統一」がされておりませんでした。

例えば―――

フランスの当時の国民は3000万人ですが、フランス語を理解できるのは300万人のみであった、と云われているのです。

 

それに対して、日本人の識字率は90%を超えています。

その当時のパリの市民の識字率は10%程度でした。

 

日本は「日露戦争」で大国のロシアを破り、歴史上はじめて黄色人種の国家が白人種の国家を破った戦いでしたが、

それまで近隣の国々の艦船を一方的に打ち破り、「無敵艦隊」とされたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに打ち破った日本海海戦では、

 

世界で初めて、着弾すると四方に飛び散り大きなダメージを上げる砲弾を、日本軍は用いていました。

ロシアの「無敵艦隊」を壊滅させて、日本軍の完全勝利を勝ち取りました。

 

そのときのロシア兵は、艦を操縦する仕様書・取り扱い方法ですら、十分に理解できない兵員が数多くいたといわれています。

 

では、なぜ日本人の「言語統一」が進んでいたのか―――

 

それは、徳川幕府の政策にありました。

「日本国」は東西の距離は3500キロに及び、ヨーロッパの西欧の諸国に当てはめますと、欧州の大半がその中に含まれてしまいます。

 

その欧州の中には27か国があり、すべての言語が異なります。

公用語でも、23言語がありました。

あの英国ですら5つの言語があります。

 

つまり、ヨーロッパの西欧の諸国に中では、国や地方が異なれば、言語が違うので、お互いの意思疎通が簡単には図れない状態であったのです。

スイスなどでは、地方によって今でもドイツ語、イタリア語、英語に、さらにはスイスの言語と、複雑に入り乱れています。

 

共通した言語があることが、文化・文明の発展のためには不可欠なことで、共通の理解を得られるのに、言語の不統一では近代化を図るのに大変な時間がかかるのです。

 

日本では、「日本語のみ」で話をしても、意思の疎通が図れますが、ヨーロッパの西欧の諸国に中では、共通言語がないので、その当時の文化では、おい互いが理解するのに、それが大きな障害になっていたと思われるのです。

 

日本が近代化をするのに「たった30年」ですが、欧米では約100年間もかかっています。

 

日本国が「言語統一」が進んだのは、「参勤交代」の幕府政策にありました。

大名・各藩の妻子は「江戸に住み」(いわば人質)、藩主は1年ごとに自分の領地に戻りました。

 

各藩の子供は江戸で生まれて、江戸で育ちます。

ですから、江戸の文化は各藩の藩主に受け継がれていき、その文化もまた、各藩に浸透していきます。

 

ですから、日本の全国に江戸の文化、江戸言葉がひろまり、通訳なしで日本全国の市民は交流することができる体制が整えられていきました。

 

このような背景があり、日本国という「単一民族国家」が形成されたことが、近代国家日本として、アジアで植民地化されることもなく、2600年に及ぶ皇国を形成していたのです。

 

アジアの国で植民地とならなかった国は、「日本」と「タイ」だけです。

しかし、

「タイ」は西欧列強の緩衝地帯としての役目があり、純粋に単独国家として成立していたのは「日本」だけなのです。

 

幕末当時に来日していた西欧の文化人の誰もが、江戸の文化に触れて、その素晴らしさを讃えています。

 

スウェーデン医師チェンベリーは

「地球上の民族の中で、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである」

と言っています(この言葉には、白人こそ人類のなかで、最も優秀であるとの見識があるようです)。

 

米国の歴史家スーザン・ハンレーは

「1850年の時点で、住む場所を選ばなくてならないのであれば、私が裕福であればイギリス。

労働者階級でれば、日本に住みたいと思う」

と、言っていました。

 

プロシャ商人のリュートルは

「恐らく日本は、天恵を受けた国である。

地上のパラダイスであろう。人間が欲しいと思うものは、何でもこの国に集まっている」

と語っています。

 

つまり「江戸」は、当時の世界から羨ましいと思われるほどの大都市であったのです。

 

人口でも、ロンドン、パリ、ニューヨークに比肩するもので、

データで見ても、当時の日本は「大国」であったのです。

 

1700年当時の経済規模(GDP)で読み解くと―――

 

英国 107億ドル、オランダ 40億ドル、スペイン 75億ドルです。

だが、当時の日本は 154億ドルなのです。

 

この経済的な規模の大きさがあったから、明治維新となって近代化政策をとってきたときに、わずか30年で世界の列強国のひとつとなったのです。

データは欺むかないのです。

 

日本国には、近代化を成し遂げる土壌が十分に備わっていたのです。

明治政府が―――

「文化の遅れた江戸時代から、近代国家に変貌を遂げたのは、我々明治政府の近代化政策のおかげなのである」

と主張しますが、その背景には江戸時代の抜きんでた文化の蓄積があったことは、否めないのです。

 

我々は、歴史学者から歴史を学んでいます。

その歴史学者は、データに基づいて「歴史を読み解く」ことはありません。

 

歴史の教科書だけで学んでいても、正しくデータを参考にして、歴史を読み解かないと、

前回に載せたように、「遣隋使」「遣唐使」で日本は中国からその多くの文化を学んでいた―――という面でしか、歴史を教えられていないのです。

 

実際には、日本が中国に行くよりも、はるかに多くの人員が、中国、朝鮮から日本に来ていたというデータがあることすら、知らないで歴史学者の教える教科書で学んできたのです。

 

さて、本題の小栗上野介の話に戻ります。

 

小栗上野介は、幕府の命を受けて、安政7年(1860年)に、日米修好通商条約批准のために、米韓で渡米して、地球を一周して帰国しました。

そのとき、実際に目にした米国の文明と日本のとの差が、あまりにも大きいことに衝撃を受けました。

 

造船所では、米国は蒸気エンジンで動かしていましたが、日本では水力の小さな力しかなく、大きな船を造ることができなかったのです。

この国力の差を見せつけられて、「我が国にも大きな造船所を造る必要がある」と確信します。

 

この使節団の一行として米国に渡ったときに、小栗上野介は「代表と間違われた」といいます。

使節団の代表は新見でしたが、その目付(監査役)として同行した小栗を、行く先々で取材を受けたといいます。

 

それほど落ち着いた雰囲気で対応していたことが、このことから伺えます。

 

その当時の日本には、大きな造船所はなくて、大型船はすべて外国に発注して、修理も国外で行っていました。

小栗上野介は、この現状を憂いて、日本にも自力で大型船を造り、修理のできる造船所を造らなくてはならないと決意します。

 

勘定奉行に抜擢されていた小栗上野介は、まず大型の造船所を造る計画をしますが、

米国はその当時、南北戦争の真っ最中で、米国には依頼することができません。

それで、フランスに白刃の矢を立てます。

 

その当時、幕府は海軍力の強化のために、44隻の艦船を諸外国から購入していました。

そのために莫大な金額を支払っていました。

 

どうしても日本で艦船の製造が必要と考えて、まず「製鉄所」を造り、そして「造船所」を造る案を幕府に提出しますが、

幕閣から反発を受けます。

 

しかし、14代将軍徳川家茂はこれを承認します。

「造船所」には、多くの鉄が必要で、鉄鉱石は莫大な埋蔵量が見込まれる上野国でみつかり、横須賀製鐵所(後の横須賀海軍工廠)の建設が開始されます。

 

製鉄所の建設を巡っては、相当の負担が見込まれることから、幕府内では反対意見も多くあったのですが、

フランスへの発注が早く、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には、すでに取りやめるには不可能な状態にあったからである、といわれています。

 

この製鉄所の建設によって、多くの小銃、大砲、弾薬などの兵器が造られました。

 

製鉄所と共に、横須賀の「造船所」を造るには、資金がありませんでした。

これを小栗上野介は、妙案を出して解決します。

 

当時、フランスには生糸の生産に必要な「蚕(かいこ)」が病気に罹っていて、まともな生糸が生産できませんでした。

それで、英国から高い金額で輸入していたのです。

 

その英国は、日本から質の高い生糸を輸入していたのです。

それで、フランスは安く日本から生糸を輸入する独占契約をして、これによって日本に大きな資金が入ることになりました。

 

こうして、横須賀造船所を造る資金にも目途が立ったのです。

 

横須賀造船所を造るにあたり、小栗上野介は、

「この施設が、幕府に代わって新しい政府ができたとしても、日本国にとって必ず必要になる」

という信念があったと云われています。

 

その当時、あの勝海舟ですら反対していて、

「いくら造船所を造って軍艦を造ってみても、動かす人がいなければ無理。500年はかかる」

と言っていました。

 

しかし、東洋一の規模を誇る「横須賀造船所」は完成して、

日本は外国に艦船の発注を依頼しなくても、日本独自で艦船を製造できる糸口となったのです。

 

その後、日本は日中戦争を経て、世界屈指の大国ロシアと戦い、無敵艦隊と云われた「バルチック艦隊」を完全に殲滅させました。

 

日本海海戦で、総指揮を執った東郷平八郎

小栗上野介がいたおかげで、日本はロシアに勝つことができた」

と、「横須賀造船所」がいかに日本の将来を担っていたかを語っていました。

 

明治45年には、自宅に小栗上野介の末裔を招き、

日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所、造船所を造った小栗氏のおかげであることが大きい」

と礼を述べて、「仁義禮智信」の描かれた書を贈っています。

 

また、明治政府の中枢であった大隈重信

「明治以降の近代化は、小栗上野介の模倣でしかない」

と語っていました。

 

明治政府の重鎮は、誰もが小栗上野介の存在の大きさを認めていましたが、歴史上からはその名が消されていました。

教科書にも載せられていません。

 

小栗上野介は、若い時期に「山鹿流兵学」を学んでいて、

「幕府の命運には限りがあるとも、日本の命運には限りがない」

と発言していて、

 

後のこのことは、皇統を尊重する思想と、武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのものであり、

小栗上野介に与えた影響は大きいと分析されています。

 

では、なぜ小栗上野介

「歴史上からその名が消された」のか―――

 

ここからが、本ブログの本題に入ります。

 

今、小栗上野介の名前がマスコミの出てきているのは

徳川埋蔵金」伝説によるものです。

 

1867年、大政奉還によって260年以上続いた江戸幕府が終わりを迎えます。

そんな大政奉還の裏で財政難に喘いでいた明治政府は、幕府御用金を血眼で探していました。

 

幕府御用金とは、江戸時代に幕府が財政上の不足を補うため、町人や農民に納めるよう命じた金銀のことです。

 

しかし、江戸城内のどこを探しても幕府御用金は見つからず、金蔵も空でした。

そこで、明治政府は「幕府側の人間が幕府再興を目論み、軍資金をどこかに埋蔵したのではないか」と、捜査を開始します。

 

幕末に、徳川幕府勘定奉行でもあった小栗上野介は、「徳川埋蔵金」を持ち出して、

自分の領地である上野国(今の群馬県)に持ち帰り、幕府軍が新政府に対して再度立ち上がる日が来たら、その軍費の用立てのために隠していた、とされる「徳川埋蔵金」伝説です。

 

これについては、今までにも幾度となくテレビ番組で「特番」が組まれて、重機を用いて掘り返して来ました。

しかし、

ただの一度も「徳川埋蔵金」を探し当てたことはありませんでした。

 

しかし、「もしかしたら・・・・」と思わせるものは、テレビで放映されているのを観ています。

それは、いざという時の軍資金として、千両箱4つを古い坑道に隠したとされるもので、

 

その内の一つを持ち出した人(すでに故人)がいて、その金を福祉施設などに使っていた方が存在していました。

実際に、金銭は所持していたそうで、信憑性が高いものでした。

 

現在は、その坑道は崩れていて、簡単には掘り出せない状態で、これが本当であれば、あと残りが3つあることになります

(今後の報告が待たれます)。

 

小栗上野介の知行地は、上野国権田村(今の群馬県高崎市)です。

ここは、赤城山と共に「徳川埋蔵金」が埋まっている場所として、よく名前が上がっています。

 

その当時、屋敷の引っ越しでは、襖(ふすま)や欄間(らんま)といった建具も運んだという記録もあることから、相当な量だったと思われます。

このことが、

「小栗が御用金を運んでいた」

という噂を呼んだのではないかと思われます。

 

このとき、小栗上野介が立ち寄ったとされる武蔵国の普門院とう寺院の住職に、埋蔵金のありかを伝えたという伝承があり、その住職が殺されています。

 

戊辰戦争の際には、新政府軍が蔵という蔵に立ち入って、捜索したという記録が残っています。

 

徳川埋蔵金」伝説は、その当時からもあったようで、小栗上野介の屋敷を村人などが襲ったという記録もあるようです。

 

2000人及ぶ世直し勢が包囲したことがありましたが、戦術に勝る小栗は、鉄砲などでこれを退治しています。

 

しかし、このことが大きな反響を呼び、小栗上野介は多数の武器を所持していると噂になりました。

だが、当時の村人の記録によると、水路を整備したり、塾を開くなどして静かな生活を送っていて、農兵の訓練をしていた様子は見られていませんでした。

 

小栗上野介勘定奉行を務めているときに、突然役職を罷免されて、無役になったその1か月後には、群馬県の知行地に引きこもるというのは、あまりにも早すぎます。

 

しかし―――いくら探しても、未だに「徳川埋蔵金」は見つかっていません。

 

そこで―――例によって、小栗上野介(上野忠順)の靈を呼び出して、その真意を確かめました。

 

すると、

〇 徳川幕府の「御用金」(埋蔵金)には、手をつけていない。

〇 江戸城の「御用金」(埋蔵金)は、もうそれほど多くの金銀は残っていなかった。

〇 それでも相当量の金銀はあったはずだから、新政府がそのまま押収したはずである

このように反応します。

 

このことが正しいのであれば、新政府軍(薩長軍)が、徳川幕府の「御用金」(埋蔵金)を持ち出している。

そして、その金銀を自分たちで、いいように使っている―――ということになります。

 

その使い道は、英国の人間に、銃器、艦船などの支払いに充てられた、と考えられのです。

 

明治維新とは、江戸幕府の背後にはフランスがいて、

薩摩藩長州藩土佐藩の背後には、英国がいます。

 

いわば、フランス対英国の代理戦争のような実態があります。

英国のグラバーを代表する商社が、薩長藩に近代式の武器を調達して、維新を行なわせました。

 

このときフランスも、薩摩藩をフランスに寄こすなら、幕府に味方すると言っていました。

しかし、日本国の将来を考えたときに、それは絶対にしてはならないとして、この申し出を断っています。

 

そして―――

英国には、徳川幕府に残る御用金の金・銀を与えて、その援助の報酬としていたと思われます。

 

そのために、「徳川埋蔵金」伝説を利用して、すべての首謀者を「小栗上野介」ひとりに仕立て上げて、逮捕した翌日にろくな取り調べもしないうちに、斬首刑にしたのです。

 

こうして、「小栗上野介」ひとりが「徳川埋蔵金」を隠したことになり、

その本人が、申し開きができないうちに消してしまった、と思われます。

 

だから―――小栗上野介の名前を歴史から消し去ったのです。

 

それでも明治の中頃になって、小栗上野介が残したものが、明治政府の中でも高い評価を得ていて、

東郷平八郎大隈重信などが、小栗上野介に敬意を表する言葉となって世の中に伝わっていったのです。

 

我々は、「徳川埋蔵金」伝説でしか、「小栗上野介」の名前を見ませんが、

彼がいたから、日本国が世界の列強の一つに上り詰めたことになり、

日本国が欧米の植民地になることを免れてきた大きな助けとなったことに感謝の意を表したいと思います。合掌

 

                   了

 

            2024年1月30日記

 

 

幕末の天才・小栗上野介を分析する

《 幕末の天才・小栗上野介を分析する 》

 明治維新は、世界史でも特異に映る現象となっています。

たった30年間で、日本という西欧諸国から見れば、東の最果ての国がたちまち頭角を現して、世界の列強の一国となっていまいました。

 

このことを歴史学者で著名な分析家・アーノルド・トインビーは

「西欧で100年以上かかったか改革を、日本はたったの30年で成し遂げてしまった」

といっています。

つまり―――

日本国の突然の繁栄は、「世界史の奇跡である」とまで言っているのです。

 

それに対して、日本という国は、その当時の文明も世界水準を超えたものであり、それは当然の帰結であるとして、様々なデータを駆使して、そのことを裏付けている人もいます。

とくに江戸の文化は、世界水準でも当時から抜きん出ていた、というのです。

 

明治政府は―――それまでの江戸幕府の政策は非文化的なものであり、日本の発展は新政府が行った「明治維新」の政策があったからである。

 

つまり、江戸幕府の政策では、世界の列強とはまともに対峙できない状況であったが、我々新政府の決断と対処があったから、日本はこうして発展を遂げたのである。

 

明治政府は、それまでの江戸幕府の政策を否定して、すべて「明治新政府」が行なったことで、現在の日本国の発展があったのである、と主張し続けてきました。

 

それは違います。

日本という国が、突然世界の中に躍り出たのは、それだけの国力が背後にあったからで、「江戸時代」というのは、世界史からみても260年間も一切の争いのない「平和な時代」であったのが、世界史では「奇跡的なこと」であったのです。

 

しかも、その「江戸時代」の文化は、世界から比べても、群を抜いて発展する土壌があったことが解るのです。

 

どういうことなのか―――

 

話を古代の日本に向けます。

我々は、中国や朝鮮から文化を取り入れて、日本の国は発展してきた―――このようなイメージで、我々は学校で習いましたし、漢字や稲作などの文化も取り入れてきたので、日本は発展した・・・・と思ってきました。

 

子供のころに教わったものは、深く人の心の奥底に根付いています。

「古代の日本は、中国や朝鮮半島を経由して、大陸からの文化を取り入れ 発展してきた国だ」と言われていますが、 そうではありません。

世界的な美術史家であり、歴史学の権威の東北大学名誉教授の田中英道氏は、

 

「古代日本は中国や朝鮮など、 実は海外こそ、日本に憧れ、 多くの人々が渡来人としてやってきたのです」

と言っています。

 

どういうことなのか―――

 

正倉院は、聖武天皇光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。

その御物には唐や西域、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。

 

また、多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。


しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。

日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が、日本人の根底にあります。

特に戦後、この見方が浸透しました。

 

太平洋戦争(大東亜戦争)で日本が敗れて、米国の進駐軍GHQが来て、日本が二度と立ち上がれないように、徹底的に日本の文化を叩き潰したことで、まず日本の教育を根本から変えてしまい、北朝鮮と繋がる組織、日教組の台頭を黙認していました。

 

そのために、日本の文化は常に西欧諸国よりも遅れていて、古代から日本は中国や朝鮮経由での文化を取り入れていた―――という教育が浸透してきたのです。

 

その代表例は遣隋使、遣唐使です。


607
年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遺唐使の最初の派遣は630年です。日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したということになっています。

 

我々もそのように教育されてきましたので、そのように思い込んでいます。

しかし、事実はまったく違うのです。

たとえば小野妹子の遺隋使のときですが、

こちらから行っただけでなく、隋からも位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。

唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。

たとえば、669年には2000人あまりの人が来ています。671年にも2000人が来日、という具合です。

ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、30数回も来ています。
いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回も来ているのです。

遺隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。


では、彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。ほかでもありません。
日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。

 

8世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高まりました。
文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。

 

鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名ですが、鑑真がなぜこれほどまでに日本に執着したのか。

聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。

鑑真だけではありません。インド人、ベトナム人、ソグド人の僧侶も日本の仏教を学びにきています。

 

奈良時代、日本も唐もその他の諸国も文化的には対等で、相互に学びあい、物を交流させていたのです。

だから―――遺隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもとなのです。


正確には交流使というべきだと、田中英道氏は指摘しています。

日本に、これほどたくさんの人々が移ってきたというのは、日本の文化が高く評価される水準にあったことを証明しているのです。

では―――
彼らは日本の何に憧れてやってきたのでしょうか?

 

日本には、上古代から優れた文化・文明があり、それが「神話」ともなっているものが日本の魅力であり、そこに魅了されたといいます。

他国からみると素晴らしいものと映っていたようなのです。

 

では一体、なぜ日本から「神話」が消えてしまったのか。
初等科「国史」という教科書はなぜ使われなくなってしまったのか?


それは、戦後、GHQによって「焚書」されてしまったからです。

GHQが7年にわたる占領活動で、日本の数々の教科者や本を「焚書」したのは―――


〇 日本の言語空間をコントロールし、 日本をアメリカの都合のいいように扱うこと。
〇 日本の軍部だけにとどまらず、 日本全体を弱体化させること。


これを果たすために、「焚書」を行ない、日本から神話を消したのです。


「十二、十三才くらいまでに 民族の神話を学ばなかった民族は、 例外なく滅んでいる」

歴史学者であるアーノルド・トインビーはこのように語ったと言われています。

 

確かに、欧米諸国がアジアの大半の国を植民地化して、搾取していましたが、

この植民地政策として、現地語を話させない、支配国の言語に統一する、伝統の文化を学ばせない等々がありました。

 

アジアの国の中で、欧米諸国からの植民地化をされなかったのは、「日本」と「タイ」だけです。

大きな理由の一つに、言語統一がありました。全国民が、同じ言語を使っていたのです。

 

しかし、ただ「神話」といわれても、私たち日本人にとっては馴染みのない少し遠い存在のものと感じると思います。

ましてや、神話を学ばないことで民族が滅ぶと言われても、多くの方はピンとこないかもしれません。

 

確かに、私たちの使ってきた歴史の教科書に「神話」が載っていることは99%ありませんし、そもそも学校では、神話は空想の出来事に過ぎない、非科学的な絵空事だとして教えられてきました。

 

そんな「神話」ですが、実は、世界では、常識として扱われているのです。
例えば、世界の人口の約33%を占めるキリスト教徒は、「聖書」に書かれた「神話」によって繋がっています。

 

紀元前1776年ごろ、何十万もの古代バビロニア人をまとめあげた「ハンムラビ法典」も一種の「神話」です。
北米大陸にあったイギリス植民地の人々が連帯し、アメリカ合衆国をつくりあげる際にも、「独立宣言」という「神話」が重大な役割を果たしました。

 

このように、世界で常識として扱われてきた「神話」ですが、戦前の日本でも、小学生以上なら誰もが知り、常識として扱われていたという過去があるのです。

 

では一体、日本では「神話」という常識がどのような役割を果たしたのか。
なぜアメリカが日本から「神話」を消してしまったのか。

 

それは―――神話に描かれる世界は、日本の皇室――天皇に繋がるからです。

日本人が、当初考えていたよりも はるかに強く、大東亜戦争(太平洋戦争)でも、アメリカでさえ あれ以上に戦争を長引かせていては、国が傾く可能性があったからです。

 

日本人の強さの根本に、日本人一人一人が先祖を辿ると皇室の天皇に繫がるとされていたからで、どの家にも家系図の先祖は、天皇家に何らかの形で接点を持っていたからです。

 

そのような神話に繫がる「国史」の教育の場を奪う必要があることを、日本人の強さの根源を剝奪する必要があったからなのです。

 

また、江戸幕府の260年間に及ぶ古臭い政治から、明治政府から近代化されて、日本は飛躍的な発展したという認識を、明治政府がとっていたので、

現在の多くの日本人は、「江戸までの日本は古臭く、遅れていて、間違っていた」といった認識を持っています。

 

しかしながら―――

江戸の外交は、中世アジアで最も成功していた外交として評価されているのです。

江戸時代の日本は、外交交渉だけで拉致問題を解決し、一方的な侵略への謝罪も勝ち取っているのです。
これがペリー来航の約40年前の外交です。

 

ペリー来航の40年前に、ロシアは一方的に択捉島に上陸して、略奪を始めました。

江戸幕府はすぐに迎え撃つが、負けてしまいます。

 

そこでロシア艦隊の艦長を人質にとり、交渉します。

ロシアも島民を人質にとり、交渉が開始されます。

しかし江戸幕府は断固として突っぱねて、ついにロシアは折れて、互いに人質を渡して、ロシア艦隊は帰路に就きました。

 

たしかに、いくら無事に解放しているとはいえ、他国の人を人質にとることは褒められる行為ではないかもしれません。
ですが、この時の日本はウクライナのように侵攻されていたのです。


今の日本のように、北朝鮮に自国の国民が拉致されようとも、アメリカを始めとする他国に理不尽な要求を突きつけられようとも、無言を貫く姿勢とは全く違う堂々とした日本の姿がそこにはありました。

「よく、日本が植民地化されなかったのは明治の志士たちの力だと言われます。
それはそうでしょうけれど、同時に江戸幕府は堂々とした外交を行ったこと、しかも平和外交を行い、それに成功したという江戸幕府の外交力も、日本の植民地化を防いだ大きな理由の1つではないか考えております」

このような発言する評論家もいます。


しかし、なぜこのような外交がロシアとあったにもかかわらず、私たちは「弱腰な江戸幕府」のことしか教わらなかったのでしょうか?

 

ペリーが浦賀に来て、「日本と外交したい!1年後にまた来る」と要求してきたときに、幕府の面々は慌てます。

 

しかし、その難局を見事に治めたのは、江戸幕府であり、その残った記録を読み解く限り、当初は武力で脅そうとしていたペリーですが、幕府の役人の対応に打ち勝てず、捕鯨船などの緊急時に「助ける」、また必要な物資を調達することができる。

また、上陸する期間も制限されていて、簡単に日本に上陸して砦を造ることなどできない条項になっていました。

 

つまり、江戸幕府の外交は、一般に云われているほど、軟弱なものではなかったのです。

では、なぜ? 

江戸幕府の外交は、軟弱なものだったと評価されているのか―――


一言で言うと、明治維新、そして欧米を一方的に礼賛する学者やメディアのせいです。

 

彼らは、「日本が成長できたのは、古臭い日本を捨てて、欧米の技術を取り入れたからだ」「それ以前の江戸はダメだった」と主張します。
しかし、そのような聞こえの良い主張によって、いつしか江戸史は偏ったイメージに塗り替えられてしまいました。

 

そして、間違った江戸のイメージはいま、大きな問題を生んでいます。

それは―――「欧米に付き従えば、何でも解決できる」という間違った幻想が生まれてしまったことです。

その結果、現在の日本は外交では、腰抜けとしか思えないような醜態を晒してきました。

例えば…「もし中国が尖閣を攻めてきても、安保(あんぽ)があるからアメリカが守ってくれる」「憲法9条があるから、戦争は起こらない」「北朝鮮による日本人拉致問題も、アメリカに交渉議題に上げてもらおう」といった、他力本願な発言を平気でしてしまうのです。

このように、日本の政治家は「日本の国益のために何をすればいいのか」
を自分で判断できなくなってしまい、アメリカに付き従うようになってしまいました。

 

日本は江戸のように、「自分のことは自分で守る」という姿勢を忘れてしまったのでしょうか…?敗戦からすでに80年です…このおよそ80年でいかに政治家が平和ボケしてきたかが、今回のウクライナ危機で明るみになり始めています。


もういい加減、日本を否定し、欧米を礼賛する政治家にはこりごりしていませんか?
江戸の例のように、日本は本来高い外交のポテンシャルを持っています。

 

「欧米人が称えた江戸文明の研究・外交編〜知られざる黒船前夜:勝利を重ねた江戸幕府の外交戦略」

というレポートを読みますと、これらのことが納得させられます。

 

前置きが長くなりましたが―――

本題の「小栗上野介(こうずのすけ)」(正式の名称は小栗忠順(ただまさ)。ここでは通称の「上野介」で話を進めます)ですが、

彼は幕末の徳川幕府では、「天才」的な能力を買われて、幕府政治に尽力しました。

 

小栗上野介とはどういう人物だったのか、その概要を紹介します。

 

文政10年(1827年)に幕臣の家系に生まれます。

三河小栗家の12代当主です。

 

知行地として、安政6年(1859年)豊後守、文久3年(1863年)に群馬県の「上野介」に任じられます。

その才をかわれて、「勘定奉行」「江戸町奉行」「外国奉行」を歴任します。

 

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のために、渡米しました。

そして、地球を一周して、帰国しました。

 

その後は勘定奉行」「江戸町奉行」「外国奉行」を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行います。

 

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されます。

それで、領地である上野国群馬県)の権田村(現在の高崎市)に隠遁します。

 

同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出しますが、逮捕されます。

そして、

その翌日、斬首されてしまいます。

 

逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、

勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられていますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていないのです。

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると、小栗の評価は見直されます。

 

大隈重信東郷平八郎など、幕府側から近代化政策を行った人として評価されているのです。

歴史小説家の司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記しています。

―――これが、ざっとみた「小栗上野介」です。

もうすこし、「小栗上野介」について、詳しく述べていきます。

 

 

文政10年(1827年)、旗本・小栗忠高の子として、江戸の駿河台の屋敷に生まれます。

小栗の禄高は2500石でした。

 

坂本竜馬と同じように、幼少の頃は「暗愚」で、悪戯好きで、周囲から「悪童」とされていました。

将来の見込みはない、と思われていましたが、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し始めます。

 

ある藩士は、

小栗上野介は、年僅かに十四歳のころであったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、あたかもその挙動、全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応待つ堂々としてすでに巨人の風あり。

 

未だ十四の少年にてありながら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ、一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世には如何なる人物となられるであろうかと噂しあった」

といいます。

 

「高慢さ」には、小栗上野介について廻るようで、学問の師についたときにも、平気で呼び捨てにする態度を示すので、「やってられない!」といって辞められたエピソードがあります。

 

文武両道に秀でた才を持ちながら、礼節を重んじる態度に欠けていたようで、後年になって、重職につきながらも罷免される一因が、すでに子供の頃にあったのかもしれません。

 

一方で、「容貌柔和、沈黙にして、しかも大胆であり、米国より経済財政の原書を買い入れていた程の賢明なる人材であった」

との評価もありました。

 

8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積昆斎の私塾「見山桜」に入門します。

武術については、島田虎之助に師事します。

 

島田虎之助とは、時代小説にも度々登場する人物で、西郷隆盛(維新軍代表)と幕府軍代表として対峙し、江戸無血開城を成し遂げた維新の英雄である勝海舟の剣の師匠でもあります。

 

坂本竜馬が、勝海舟を暗殺する意思をもって赴いたところ、その慧眼の深さに感動して、その弟子になったという有名な逸話があります。

その勝海舟は、島田虎之助の門人であり、免許皆伝を受けています。

 

勝海舟は、島田虎之助のもとで「禅」にも励んで、深夜の今の飛鳥山公園あたりの杜の中で、座禅を組んで夜明けを迎えることが多々あったことを、自叙伝である『氷川清和』で述べています。

 

島田虎之助は、男谷信友、大石進と並び、「幕末の三剣士」と言われた人物で、

虎之助は、剣術以外にも「儒教」や「禅」を学び、

 

「其れ剣は心なり、心正しからざれば、剣また正しからず。

すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」

と述べています。

 

もう少し、島田虎之助について語っておくと―――

 

文化11年(1814年)に、豊前中津藩士の子として生まれます。

10歳ころから藩の剣術師範に学び、16歳ころには藩内では相手になるものがいないほど上達して、九州一円を武者修行して、その名を九州に轟かせていました。

 

広瀬淡窓などの元でも学問を修め、江戸を目指して出立します。

江戸に出て、当時「日本随一」といわれた 直心影流の男谷信友に試合を挑みます。

 

男谷信友とは、日本人にはそれほど知られていませんが、歴史に残る剣豪であったようで、生涯2勝1敗を貫き通したと語られています。

その凄さの全容はほとんど誰にも知られることがなかった―――と云われる人物で、

 

相手には、必ず1本は取らせるのですが、生涯2本を取った人物はいなかった、とも言われています。

坂本龍馬が千葉道場の免許皆伝で、剣豪の一人でもありましたが、

 

その師の千葉周作は、気合一閃 打ち込むときに床板を踏み抜いた逸話の持ち主です。

その千葉周作が男谷信友に挑んだ時も、やはり「2勝1敗」でした。

 

そのとき男谷信友は、「あれほどまでに鍛錬するには、そうとうの稽古をやってきたのであろう・・・・」と人に語ったと云われています。

それほどの、当時「日本一」と云われた男谷信友に、島田虎之助も挑み、「2勝1敗」でした。

 

虎之助は、その後も続けて直心影流三羽烏と言われた剣豪・井上伝兵衛に挑みます。

しかし、手加減しない井上伝兵衛に、さんざん打ちのめされたのです。

 

すぐに弟子入りを申し出ますが、井上伝兵衛は虎之助のスジの良さを見込んで、男谷信友への入門を勧めたといいます。

しかし、

虎之助は、「すでに手合わせはしましたが、評判ほどのことではありませんでした」

と答えます。

 

すると―――井上伝兵衛は、

「キミは観察が甘い。あの人は、どこまで強いのか底が知れない。

1本取れたのは、キミに花を持たせたにすぎないのだ。

私が紹介状を書いてやるから、もう一度行って来い」

と言われます。

 

紹介状を見た男谷信友は、「では!・・・」

と言って再度立ち合いますが、男谷の眼光に威圧されて、道場の片隅まで追い込まれて、平伏するしかなかったといいます。

 

島田虎之助は、男谷信友の道場で師範代を務め、その後自分の道場を開きます。

この道場に、男谷信友の紹介で勝麟太郎(後の勝海舟)が入門してくるのです。

 

この島田虎之助の弟子であった勝海舟が、幕府軍の代表として、官軍の中に単身で乗り込んで、薩摩屋敷で「江戸無血開城」の誓約を執らせたときに、堂々として西郷隆盛に臆することなく、「江戸無血開城」を成し遂げてことを、国外の専門家は一様に「奇跡」だと述べています。

 

西欧及びアジアの歴史においても、政権が変わる時には、前政権の面々の悉くが、殺されています。

前の政権の座に座っていた人物で、生きながらえた例はほとんどありませんでした。

それが―――德川政権のトップのほとんどは、何も起こりませんでした。

 

ただ、一部の人によって戊辰戦争が行われましたが、新政権となった官軍の最新兵器の前には、まったく太刀打ちできない状態でした。

 

しかしながら、もしも、本ブログの主人公である小栗上野介が、江戸幕府軍の軍略の参謀についていたら―――

官軍は、「明らかに負けていた・・・であろう・・・」と云われているのです。

 

戦略の天才といわれた長州藩大村益次郎が、後にその軍略を聞きつけて、

小栗上野介がいなかったことが、我々に天恵をもたらしてくれた。

彼がいたら・・・・官軍は殲滅していた」

と言ったことが伝わっています。

 

大村益次郎とは、司馬遼太郎の小説「花神」のモデルとなった人物で、靖国神社日本陸軍創始者として銅像が建っています。

 

江戸幕府長州藩に対して攻め込んだ時に(長州征伐)、長州藩の兵の指揮をとり、完膚なきまでに幕府軍を打ちのめし、江戸幕府の衰退を満天下に晒させた人物です。

 

この人物が、江戸幕府軍の軍略を提言していた小栗上野介の存在を知り、

「小栗が幕府軍にいなかったことが、我々の壊滅を救ってくれた・・・」

と語っていたのです。

 

ついでながら―――幕府軍の長州征伐軍に対して、大阪から続く中国道側の要所を指揮したのは、大村益次郎ですが、

もう一方の九州側から長州藩に攻め込もうとする幕府軍もおりました。

 

これを壊滅したのが、民間人を組織して「奇兵隊」を創始した高杉晋作です。

この人物も、吉田松陰の門下生ですが、抜きんでた才能を持っていました。

 

夜間に下関から九州に上陸して、幕府軍の艦船に壊滅的なダメージを与えています。

これに懲りて、九州の大名は 幕府の「長州征伐」の意向に従わなくなってしまいました。

 

高杉晋作とは―――まさに、傑出した人物であったようです。

 

長州藩が「攘夷」を合言葉に、外国船を砲撃したことへの報復として、

イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国の連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されました。

 

高杉晋作は、一度長州藩から脱藩しています。

ですが 脱藩の罪から赦免されて、和議交渉を任されました。時に高杉晋作24歳でした。

 

交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多くの条件とともに「彦島の租借」を要求してきたのです。

 

高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れましたが、この「領土の租借」についてのみ、頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功したのです。

 

これは上海に留学して、清国の見聞を経た高杉が、「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろう、と伊藤博文は自伝で記しています。

 

高杉晋作が、諸外国連合軍の要求に屈服していれば、そこを植民地として、彦島は「香港」になり、下関は「九龍半島」になっていたかもしれません。

 

そうなれば、日本は大変な事態に陥っていたと思われます。

若干24歳の高杉晋作には、あらためて感謝する次第です。

 

さて―――

 

徳川15代将軍の徳川慶喜は、朝廷に政権を返上して、官軍には抵抗しない「恭順」を示しましたが、

「恭順」をせずに、徹底抗戦を主張する派閥もありました。

 

その筆頭に、小栗上野介がおりました。

しかし、「恭順」派の代表格である勝海舟などの意見に、徳川慶喜が従ったことで、小栗上野介は邪魔な存在となり、役職御免となります。

 

これを契機に、小栗上野介群馬県の「上野国(現在の高崎市周辺)」に隠遁してしまいます。

一方で、幕府軍の中で徹底抗戦を主張する榎本武揚などは、遠く北海道の「地」函館で、新たな政権を打ち立てることを目論見ます。

 

大鳥圭介新撰組の生き残りであり、副長・土方歳三などが新政府軍(官軍)と対峙して、敗れ去りました。

 

新政府軍が政権を掴み、斬首刑に処したのは、新撰組隊長であった近藤勇小栗上野介の2名です。

榎本武揚など最後まで官軍に抵抗した人物も、「あの男は、明治の新政府にとって必要な人材だ!」といって、最後まで抵抗した首謀者でしたが、生き残って、その後の明治政府で要職についています。

 

近藤勇は、京都での見回りの役を会津藩から与えられて、多くの幕末の維新の志士を切りましたので、長州藩にしてみれば、恨み骨髄の人物であったので、これは理解できるのです。

 

しかし、小栗上野介が斬首になったのは、未だに明確な根拠がなく、謎のまま残されています。

今回は、このことを探っていきます。

 

さて―――

江戸幕府内でも、抜きんでた能力を持っていた小栗上野介勝海舟(本名・勝麟太郎)ですが、ことごとく意見が対立していたようです。

 

15代将軍の徳川慶喜の命を受けて、官軍のトップである西郷隆盛と対峙したとき、

勝海舟には、いざとなれば江戸に火を放ち、簡単には江戸城を落とせない覚悟を持っていました。

 

また、それなりの手配も完了していました。

しかし、大西郷の「いろいろと事情もあるでしょうが、こちらのことは、おいどんが責任をもって対処いたします」

という言葉に、後に「西郷の赤心に心を打たれた」と回顧しています。

 

「あの男の前では、一切の小細工は通用しない。

自分も、それなりの策もあるし、それをやる覚悟もできていたが、赤心には、赤心を持ってコトを行った・・・・」

と、後に述べています。

 

余談ながら―――

「新政府軍が江戸城に入るときに、中には極度の緊張のあまり、下足を履いたままで上がった者がいたといいます。

そのようなときに、西郷隆盛江戸城の引き渡しの儀のときに、こっくりこっくりと居眠りをしていた・・・・」

と、伝わります。

その度量の大きさが伺えるエピソードです。

 

西郷隆盛が、新政府軍の中枢の一人として、岩倉具視大久保利通、木戸孝充等が外遊しているときに、明治の新政府を率いて、様々な改革を行いましたが、これらのことは西郷だからできたことで、西郷なくしては、簡単には遂行できなかった―――と、云われています。

 

しかし、大久保らが帰国すると、西郷隆盛は韓国を攻めるのではなくて、「自分ひとりが韓国に行く」と主張したとされる「征韓論」に敗れて、さっさと明治政府の新政権中枢の座を降りて、鹿児島に引きこもります。

 

その後、西郷の元に多くの人物が集まり、明治政府もこれを見過ごすことができずに、「西南戦争」が勃発します。

この時、近代的な装備の政府軍に対して、旧式の装備の西郷軍は敗れます。

 

このとき、故郷の鹿児島目指して軍が引き上げるとき、西郷軍に付き従っていた中隊長の増田栄太郎は、同志を集めてこう言ったと伝わります。

 

明治政府に不満を持つ、各地の同志が西郷の薩摩軍を構成していました。

その中の中津からの隊員たちに、

 

「ここまで従ってくれてありがとう。

諸君は、鹿児島が故郷ではない者もいるし、もはやこれ以上の戦いは無意味である。

投降するものを政府軍は処罰しないであろう。

だから、後は自分自身の判断に従って、故郷の中津に帰ってくれ。

 

私?・・・私は、あのお方(西郷どん)に最後まで従って行くつもりだ。

 

私はここに来て、初めて西郷先生に親しく接することができた。

あのお方は、一日接すれば一日の愛を生ずる。

三日接すれば、三日の愛を生ずる。

 

親愛 日に日に高まって、もはや先生の元を離れることはできない。

今は生死を超えて、先生と共に死生を共にするのみである」

このように語ったと伝わります。

 

昔、「男心(おとこごころ)に・・・男が惚れて・・・」という歌がありました。

また、

「士は、己(おのれ)を知る人のために死す」

といって、大義を抱いて死地に赴いた武士(もののふ)も少なくありませんでした。

 

西郷隆盛のような人物の政治家が、今の日本に出てくれたならば・・・・、と常に思っています。

「この人のためならば・・・・死をも厭わない!」

と思えるような人物がいなくても、日本の政治家として誇りに思えるような人物が出てくれることを、願っています。

 

 

本ブログ「写真分析から裏の歴史を考える その5」において、次のように述べています。

 

西郷隆盛には 「西郷南洲翁遺訓」が遺されています。

この編纂は、薩摩人の手によってではなく、旧庄内藩藩士達によって刊行されたものです。

 

庄内藩は明治22年憲法発布に伴い 西郷隆盛西南戦争による賊名が除かれ、正三位を追贈されました。

 翌年1月に旧庄内藩で遺訓集を作成して、4月から6人の藩士達がこの遺訓集を携えて全国を行脚して、広く頒布したと伝えられています。

 

「南洲翁遺訓集」が庄内(現在、山形県鶴岡)から出版されたというのは―――

 

明治維新の前夜、庄内藩は三田の薩摩屋敷を焼き払い、多くの死傷者を出しました。最期まで抵抗した庄内藩の維新後の処理として、どんなひどい目に合わされるかと、心配していました。

 

だが、西郷の慈愛を持った寛大な処置により事なきを得たのです。

それに感謝した藩主が家老を伴い七十数名が、政府の要職を去って鹿児島に引退していた、西郷を訪れて親しく教えを受けたのです。

 

その後も庄内藩士が引き続いて西郷隆盛を訪ね、西郷が生前語られた言葉や教訓を記録した手記を、持ち帰って遺訓集を作成したと伝えられています。                                                 

 

この遺訓集は 41箇条からなりますが、西郷隆盛の「名言」として 今に残っています。

 

  •  命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。

 

この後には 

「されども、かような人は 凡俗の目には見抜くことができない」と言われるので、

 

それでは孟子(古い中国の聖人)の書に 『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものである。

 

もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。

 

そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。

 

また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』 と言っているのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、

 

いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。

 

 これは第30条の遺訓ですが、このような教えがつまっています。

解りやすい 一般的な「名言」を 以下に掲げておきます。

 

  •  道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。

己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

 

  •  人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

 

  •  己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ。

  人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる。 

  •  小人は、己を利することを欲し、 君子は、民を利することを欲する。 
  •  我が家の遺法、人知るや否や、 児孫のために美田を買はず。
  •  幾度か辛酸を経て、志、初めて堅し。 丈夫は、玉砕に及んで、瓦全を愧じる。 
  •  天は人も我も同一に愛し給ふゆえ 我を愛する心をもって人を愛するなり 
  •  事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず
  •  過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたら、それで良い。そのことをさっぱり思いすてて、すぐ一歩前進することだ。 
  •  功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ 
  •  人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。
    だがそこには人間としての「道」がなければならない。 
  •     
  • 功立ち名顕るるにしたがい、いつしか自らを愛する心起こり、恐懼戒慎の意、緩み、驕矜の気、しばらく長じ、その成し得たる事業をたのみ、いやしくも我が事をし遂げんとまずき仕事に陥り、終に敗るるものにて、みな自ら招くなり。ゆえに己に勝ちて、見ず聞かざるところに戒慎するものなり。 
  •  
  •  天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても驕(おご)らない。
  •  
  •  事に当たり、思慮の乏しきを憂うることなかれ
  •  
  •  正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論(へきろん)である。
  •  
  •  万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒(いまし)め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。

 

<続き>然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業はは遂げられ間敷也。

  • (税制は)上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。
  •  
  •  租税を薄くして、民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。
  •  
  •  徳に勤むる者は、これを求めずして、財自(おのず)から生ず。
  •  
  •  断じて行えば鬼神もこれを避ける。

 

さらにもう少し、西郷隆盛について、その時のブログに書いた文を載せておきます。

 

勝海舟は――― 

「(自分が)西郷に及ぶことができぬのは、その大見識と大誠意にある。

おれのひと言を信じて、たった一人で江戸城に乗り込む。

おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをしてあい欺くことができなかった・・・・」

と、述べています。

 

西郷ほど 人々の人望を集め信頼を博した人物は、いないと思われます。

傑出しています。古今東西でも見出し得ないかもしれません。

 

中江兆民が、 維新後のていたらくに接して

「西郷さえいれば、日本はこんなふうにはならなかったろう」と嘆じ、

 

新渡戸稲造が 「日本にリンカーンのような人物はいるのか?」と問われて、

「それが西郷隆盛だ」と 答えた―――といいます。

 

内村鑑三が『代表的日本人』の5人の筆頭に 西郷を挙げています。

「日本の維新革命は西郷の革命であった」と言い、次のように書いています。

 

「内政については木戸や大久保の方が精通しており、革命後の国家の安定を図るには三条や岩倉の方が有能でした。

 しかし必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、天の全能の法にもとづき運動の方向を定める、西郷隆盛の精神であったのです」

 

さらに―――

 

勝海舟は「氷川清話」の中で 坂本龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、勝海舟に次のように語っていたことを述べています。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木(しゅもく)が小さかったのが残念でした」

 西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を「撞木(しゅもく)」に例えているところが、いかにも幕末の風雲児である坂本竜馬の言葉らしいのです。


この龍馬の西郷評を聞いた勝は、

 「評される人も評される人。評する人も評する人」

と語ったと伝えられています。

 

西郷隆盛については、様々な伝が伝わっています。

 

勝海舟は「今までに天下で恐ろしいもの二人見た」と述べています。

それは―――西郷南州(隆盛)と横井小楠(よこい しょうなん)です。

 

氷川清和の中で、

・・・横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だ・・・。

西郷と面会したら、・・・いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいか・・・」

と述べています。

 

はたして、勝海舟の予告通り 「西郷隆盛は官軍の総司令官」として現れてきたのです。

この東征軍の司令官は、名目上は総督である”有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)”と言う事になりますが、実際は、参謀であった西郷隆盛がこの東征軍(官軍)の司令官でした)

 

勝海舟は、西南戦争後にまだ朝敵西郷隆盛に対して世間の目が厳しい時期に、東京葛飾の古刹に西郷隆盛の顕彰碑を私財を投じて建立するなど、西郷に対する敬愛・思慕は大きなものでした。

 

また、西南戦争の原因ともなった西郷の『征韓論』に関しても、「西郷は征韓論など主張していなかった」と論陣を張るなど、 弁護に努め、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う、西郷隆盛の特赦・汚名返上・名誉回復への足掛かりをつくりました。 

 

勝海舟は「江戸無血開城」を成功させて、江戸の町を官軍の総攻撃から救ったことを終生の誇りとして、その相手であった西郷隆盛の顕彰に努めていたのです。

 

このように幕末から明治維新にかけて活躍した勝海舟と、本ブログの主人公である小栗上野介は、二人共に島田虎之介という剣の師匠についていながら、江戸幕府の内部で互いに対立する関係であったようなのです。

 

島田虎之介という剣の師匠は、

すでに述べたように、「剣は心である。心正しからずば、剣もまた正しからず」といっていた幕末の剣豪の一人です。

 

その師の元で剣の道で修行を行っていた二人が、幕末から明治維新にかけて、裏の歴史でその名を残しているのです。

 

                  つづく

 

            2024年1月23記

 

 

吉野路紀行 その7

《 吉野路紀行 その7 》

壺阪寺―金峰山寺吉野神宮丹生川上神社下社―天河弁財天―丹生川上神社中社

丹生川上神社中社

 

丹生川上神社中社」に近づくと、辺りは良好な波動に包まれてきました。

期待が持てそうです。

 

 

 

 

 

「水神社」とあります。

御祭神は

「高龍神」「闇龍神」とあります(龍の字には、難しい漢字が当てられています)。

 

「天然記念物 ツルマンリュウ自生地」の碑があります。

 

説明文によると―――

「本殿裏山に ツルマンリュウ自生地があり、これはヤブコウジ科の植物のことで、希有の存在なので昭和30年に天然記念物に指定された」

とあります。

 

鳥居には、「丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)」とあります。

ここは「中社」ですが、ここでは全て「丹生川上神社」と表記されていて、「中社」の文字はありません。

 

「下社」の神官の方の話では、「上社」「中社」ともすべて独立しているので、お互いに関連はしないと言っていました。

そのような中で、「下社」では、「ことあげしない」と謳っていることが気に入りました。

 

「ことあげしない」とは、宣伝しないとうことで、多くの神社仏閣は自分のところを宣伝したがりますが、そのような姿勢をみせないという文言に感動していました。

 

しかし、ここでは「丹生川上神社」として、「中社」を用いない姿勢に、少し違和感を持っていました。

これには、理由がありました。

 

明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳でしたが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により「宮の平遺跡」が発見されたのです。

その本殿跡の真下から、平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土したといいます。

 

途中奈良・古墳時代にかけての断絶が認められるものの、当神社の祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきたのです。

つまり、この地は日本でも有数の 古代からの祭祀遺跡であったかもしれないのです。

 

時代と共に、この神社もまた変遷します。

明治6年(1873年)に郷社となっていましたが、当時の官幣大社丹生川上神社(現在の下社)の宮司が、下社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官府に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘しました。

 

当神社を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「下社」所轄の神社とするとともに、「下社」を「口の宮」、当神社を「奥の宮」と称したといいます。

 

この説が認められて、明治29年(1896年)に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となったのです。

 

だが、大正(1915)4年 、現在の「中社」のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、「蟻通神社(現丹生川上神社・中社)=丹生川上社説」を唱えたのです。

 

これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、「上社」・「下社」は「中社」に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされたといいます。

 

その際、「上社」の祭神は「罔象女神」から郷社時代と同じ「高龗神」に再び戻されたといいます。

 

大戦後の昭和27年(1952年)には、「上社」・「下社」は「中社」から独立して、現在に至ります。

 

龍神」とあります。

丹生川上神社」は、全てが「龍神」に関わりがあります。

龍神」とは、「水の関わる神」です。

 

そのために、「丹生川上神社」の「上社」「中社」「下社」の「三社巡り」というのがあります。

「三社」を巡り祈願達成しますと、「護霊符」を購入できるようです。

 

日本最古の「龍神を祀る神社」を巡ることで、「水の力」「神の力」が受けられるようです。

 

ここ「上社」では、「水の靈」

中社」では、「神の靈」

「下社」では、「力の靈」

が受けられます。

 

「丹生大神 守り給え 幸へ給え  丹生大神 守り給え 導き給え」 

このようにあります。

 

ここは「拝殿」です。

ここから先へは行けません。

「本殿」はこの上ですが、波動は良好です。

 

主祭神は、「高龗神 (たかおかみのかみ)」です。

高龗神 とは、古くから「祈雨」「止雨」の神とされています。

 

その他に、配神として、「大山祀神」「大雷神」がいます。

 

 

 

「双龍」の描かれた額です。

 

酒の樽には、「水の神様」「丹生(にう)」と書かれています。

 

「本殿」は、ここからしか拝めません。

「本殿」には、主祭神は、「高龗神 (たかおかみのかみ)」エナジーが反応します。

 

また、配神である「大雷神」のエナジーが反応します。

「大山祀神」のエナジーは感知できませんでした。

 

 

「本殿」横の並びのエリアに、このような小さな「祠」があります。

かなりの高波動です。

 

「大盛丸神社 御祭神 龍神大明神」

このように書かれています。

 

龍神大明神」の強いエナジーが感知されます。

 

この小さな「祠」の後ろ―――ここの波動がやたらに高いものでした。

この「祠」の背後には、「石」があり、「龍神大明神」を引き寄せているようなのです。

 

特に、この「石」には、「プレアデス」系の天体のエナジーが同調していました。

 

この「石」に我々のブレスレットを載せて、その「プレアデス」系の天体のエナジーを吸引しました。

同時に、「龍神大明神」のエナジーも吸引しています。

 

さらにその並びのエリアにも、良好な波動の摂社、末社の「祠」があります。

 

「木霊(こだま)神社  御祭神 五十猛命」です。

波動は良好です。

 

 

ここの上の斜面は高波動です。

ここに立ち入ると身体が歪みます。

完全な「ご神域」で、何人たりといえども「立ち入りを許さず!」との想念が伝わってきます。

 

小牟漏岳(おむろがだけ)」として、看板があります。

ここに―――丹生川上神社の背後の山について、「古事記」からの引用文が載せられています。

 

雄略天皇が、ここの背後の山で狩りをされた時のことが、「古事記」にあり、それを引用しています。

 

丹生川上神社の「中社」の前には、川があり、良好な波動です。

画像に収めたら・・・・このように「オーブ」が浮き上がっていました。

 

こうして、「吉野紀行」の全てを終えて、帰京しました。

 

               了

 

         2024年1月17日記

 

 

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