生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

箱根深澤銭洗い弁財天と江島神社の探索 その2

《 箱根深澤銭洗弁財天と江島神社の探索 その2 》

江島神社その1

 

 箱根の「銭洗い弁財天」をお参りした後に、江の島に向かいました。

 

若いころには、よく江の島にはドライブで行っていました。

夜になると、急に横浜の「港の見える公園」に行きたくなり、第三京浜に乗り、そのまま江の島から海岸線をドライブすることが多くありました。

 

「江の島(江ノ島)」は、「日本百景」のひとつとなっています。

 

戦後、江の島は藤沢市に鎌倉と共に編入されて、観光開発地として本格化しました。

米国のマイアミ市と姉妹都市提携を結び、「東洋のマイアミビーチ」と触れ込みました。

 

その後、1964年の東京オリンピックでは、ヨットの競技会場となり、人気のピークを迎えます。

 

また、2020年(実施は2021年)の東京オリンピックセーリング会場となりますが、コロナ禍で無観客開催のため、その会場であったあということすら知らない方が多いのが実態です。

 

今の私にとっては、久々の江の島でした。

 

 

江の島が見えてきました。

周囲4キロ、標高60Mの陸繋島です。

 

記憶にある私の子供の頃は、橋があり有料でした(今は無料で渡れます)。

多くの方は、干潮時に歩いて渡っていました。

 

 

江の島に渡る橋の入り口に、このようなものがありました。

昔の江の島桟橋では、ここに有料の料金所がありました。

 

今では、立派な道路が通じています。

クルマ専用道路と、歩行者道路があります。

 

ここから商店街が始まります。

賑やかな町並みには、売店や飲食店が軒を連ねています。

 

名物の「生しらす丼」です。

生しらす」の採れる時期でしたので、名物をいただきました。

 

江島神社」の入り口です。

 

「江の島神社」では、宗像三女神を祀っています。

ここには

辺津宮(へつみや)」、「中津宮(なかつみや)」、「奥津宮(おくつみや)」の三社があって、それぞれが祀られています。

 

中に踏み込みます。



江島神社」は、「日本三大弁財天」のひとつです。

 

弁財天は、本来は仏教の「天部」のものですが、神道でも神仏習合で弁財天が取り入れられています。

 

神道での「日本三大弁財天」は、厳島神社日本三景の宮島にあります)と琵琶湖の竹生島神社と、ここの江島神社です。

 

江戸時代までは、「江島弁天」「江島明神」と呼ばれていました。

 

瑞心門です。

 

この門は、「竜宮城」を模した桜門です。

龍との縁が深く、「天女と五頭龍」の伝説があります。

 

その伝説とは―――

昔、鎌倉の深沢の湖に、5つの頭を持つ五頭龍が暴れまわっていました。

恐れた村人は、子供をいけにえに供えていたので、この地を「子死越(こしごえ)」と呼んでいました。

 

552年に、この「子死越(こしごえ)」に大地震が起きて、地震は10日間も続き、海面に島が湧き出ました。

この島に15人の童女を従えて天女が降臨すると、五頭龍は天女に一目惚れして,求婚します。

 

が、あっさりと断られたので、五頭龍は改心して、結婚することができました。

村にために奉公する時が経つと、五頭龍はどんどん衰弱していき、自分の死期が近いことを知ると、山となって村を守ることを約束して、「瀧口山」に姿を変えました。

 

この湧き出た山が「江の島」で、天女が「弁財天」だと云われています。

 

 

これは童女を従えた天女・弁財天と思われます。

 

さて、江の島は古来より「修業の地」とされてきた歴史があります。

その後、「修業の地」から「参詣地」へと変わってきました。

 

この地は、奈良時代には園の役小角(えんのおずね)が修行した地であり、平安時代には空海、円仁が修行しています。

さらに、鎌倉時代には一遍も岩窟で修業していると伝わります。

 

昔は、参詣者のための宿坊が多くあったといいます。

 

 

 

江島神社 三宮のご案内」とあります。

三宮を総称して、江島神社と称するとあります。

 

 

 

 

手水舎(ちょうずや)です。

手を洗い、口を漱ぎ、身体を整えます。

この階段を上ると、最初の宮(下の宮)があります。

 

辺津宮(へきつみや)」です。

 

御祭神は「田寸津比売命(たぎつきめのみこと)」

土御門天皇 1206年源実朝が創建したといいます。

 

「田寸津比売命(たぎつきめのみこと)」は、水の神様です。

三姉妹の三女になります。

 

残念ながら、そのエナジーは感知できません。

 

 

「泰安殿」です。

 

ここに、日本三大弁財天の「八弁財天」が祀られています。

これは勝運守護の神様で、源頼朝が奉納したと伝わります。

 

また、「妙音弁財天」の音楽・芸能の神様が祀られています。

江の島誕生の際に、天女が従えたという「十五童子」も祀られています。

有料ですので、我々は黙殺しました。

 

中の波動を感知して、拝観料を払ってまで見るものではない、と判断したからです。

 

 

「泰安殿」の弁天堂拝観料は200円です。

ご興味ある方は、どうぞ!

 

「八坂神社」です。

辺津宮(へきつみや)」にあります。

 

建速須佐之男命(たけはやすのみこと)」が祀られています。

江戸時代に「天王社」として祀られて、明治6年に「八坂神社」に改称されて、今は改築されています。

 

御神体は、「建速須佐之男命(たけはやすのみこと)」の木像です。

元は対岸に祀られていましたが、大波で流されて、この御神体を漁師が拾いあげて、ここに祀ったようです。

 

建速須佐之男命(たけはやすのみこと)」のエナジーは感知されません。

この社は、ほとんど注目もされていないようです。

 

せめて、そのご神体の木像が彫られて、魂入れをされた当時の状態にセットしておきます。

これで―――ここの波動が上がりました。

 

 

中津宮(なかつみや)」への案内がありました。

 

 

中津宮(なかつみや)」です。

 

三姉妹の次女になる「市寸島比命(いちしまひめのみこと)」をお祀りしています。

 

芸道上達の徳を持つ神様です。

美人祈願でも有名です。美しくなりたい女性が訪れるところです。

 

中津宮」へ続く参道の両側には、江戸歌舞伎の「市村座」と「中村座」が奉献した一対の石灯籠があります。

 

この「中村座」とは、私が育った文京区の白山にありました。

子供の頃には、祖母が「中村座」が好きなので、一緒に幾度も行っていました。

懐かしい思い出です。

 

「市寸島比命(いちしまひめのみこと)」のエンジーは感知されません。

 

その近くに―――

「水琴窟」とあります。

 

この説明文には

「日本庭園の装飾の一つで、水鉢の水を 地中に埋めた瓶の空間に雫(しずく)として流すと 反響した音を奏でます」

このように書かれています。

 

この水鉢の水を汲んで、雫(しずく)を流してみました。

しかし、今一つピンときません。

 

龍の口から出てくる「水」の波動は、特に良好な反応を示しません。

試しに、その「水」の波動を高めて行いましたが、いまいちの感は拭えませんでした。

 

「水琴の音のご神効」として、次のように書かれています。

 

【癒し効果】

水滴の音が自然の音である為、心地よい感じがもたらされます

【覚醒効果】

眠っている細胞を覚醒させ 活気づける効果をもたらします

【浄化効果】

周囲の周波数を上げます。

場が整うという現象を起こり 活性化され 「スッキリする」「気持ちがよい」と言った心身が浄化されるような感じがします

【運気上昇】

【マイナス要素を除く】

 

そして―――

水琴の音は 自然がもたらす音なので 人が持つ波長を刺激し 

「よく眠れるようになった」等プラス思考になる体験をした方が多くいらっしゃいます

 

この説明文の効験を、そのまま信じ込んで試してみた方が良いかもしれません。

「信じる者は、本当に救われる」からです。

 

しかし―――

震えるほどの感動するエナジーをまだ察知しません。

このままでは・・・・終われない・・・・そう思って、次の「奥津宮」を目指しました。

 

           つづく

 

            2022年6月28日記

 

箱根深澤銭洗い弁財天と江の島神社の探索 その1

《 箱根深澤銭洗弁財天と江の島神社の探索 その1 》

箱根深澤銭洗弁財天

 

 前回パワースポットの探索シリーズで、「沖縄シンポジウムで立ち寄ったパワースポット」「浅草七福神巡り」を紹介しましたが、それ以前に行っていた「箱根深澤銭洗弁財天」などのパワースポットの探索が抜けていました。

 

遅ればせながら、2020年12月28日に尋ねた「箱根銭洗弁財天」と「江の島神社」を紹介します。

 

本シリーズの「箱根のパワースポットを行く その1」で、「阿字ヶ池弁財天社」について書いています。

この時は、本来は「銭洗い弁財天」に行く予定でしたが、レンタカーで行きましたので、目的の弁財天には行くことが出来ませんでした。

 

それで、阿字ヶ池弁財天社」に辿りつき、意外なパワースポットの効力を感知して、十分な満足感を得ることができました。

しかし―――「深澤銭洗弁財天」に行っていないことが、心に引っ掛かっていました。

 

ここは、よく調べますと箱根登山鉄道の駅にあって、その近くを走る国道には、駐車できるスペースがないので、クルマでは行けないことが判りました。

 

それで、改めて小田急線の「箱根湯本駅」の現地に集合することになりました。

パワースポット探索の会のメンバー6人が揃いました。

 

箱根登山鉄道に乗り、最初の駅「塔ノ沢」に着きます。

箱根登山鉄道は、日本一の急こう配の鉄道で知られています。

 

「箱根深澤銭洗弁財天」は、この駅の構内から繋がっているのです。

「塔ノ沢」のホームから、入ることになります。

 

このホームに、入り口があります。

これでは、クルマでは行けないわけです。

 

「深澤銭洗弁財天」とあります。

 

「銭洗い弁財天」という名称は、全国に数多く存在するようです。

自分の「お金」を、そこの水で洗うと、何倍にもなって返ってくるという「金運アップ」の効験がある、と云われています。

 

清浄な「水」で、お金(お札と硬貨)を洗い浄化して、福徳を祈願することで、ご利益があるようです。

 

祭神は、「瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)」で、「水神」や「祓い神」、「龍神」「川神」で、「祓い戸四神」の一柱で、祓い浄める女神です。

 

箱根鉄道は大正8年に開業していますが、ここの塔之沢温泉に宿泊していた相場師の、松井証券創始者の松井房吉の夢枕に白蛇が現れたことがきっかけで、大正15年に小さな社を寄進したことで、ここの「深澤銭洗い弁財天」が創建されました。

 

深澤(深沢)の清流の流れるこの地に、「弁財天を祀るのが最適!」と考えたのだと思います。

 

この松井房吉は、第一次世界大戦後の大正9年3月15日、東京株式市場の株価大暴落(戦後恐慌に突入)の際、日本橋兜町(にほんばしかぶとちょう)でただ一人大儲けをし、巨万の富を構築したといいます。


毎週土曜に塔ノ沢温泉の老舗旅館「福住楼」で、常連の大スター・阪東妻三郎の向こうを張って派手に遊んだという逸話が残っています。

 

中に入ると―――

鳥居を超えて、正面に社殿(本宮)があります。

扁額に「深澤辨財天」とあります。

 

この本宮の社殿の前には、水場があって、「銭洗い」ができるようになっています。

 

ここは、それほどの波動ではないようです。

 

さらにその先に進みますと―――

「火伏観音」があります。

 

観音像と灯篭が置かれています。

その横に―――

「火伏観音」のお堂があります。

 

お堂の中は、扉が閉じられていますのでよく見えません。

波動は、高くないです。

 

さらに、奥へと進みます。

中宮」があります。

 

ここにも「深澤弁才天」とあります。

その隣には、石造りの祠があります。

 

中宮」の中です。

「弁財天」のエナジーを感知します。

石造りの祠の前には、「白蛇」の置物があります。

弁才天なので、「蛇」に関わりがあります。

 

やはり、それほど高い波動ではありません。

「ご挨拶」だけして、ここを通過して、「奥宮」を目指します。

 

ここには、なぜか「蛙の置物」が多く置かれています。

この蛙は少し不気味ですが、他の蛙は ほとんどが可愛らしい置物です。

 

 

奥宮に近づいてきますと―――

いくつかの「鳥居」を通過します。

 

ここからが、本当のパワースポットの領域に踏み込みます。

深澤(深沢)の水が流れています。

 

「水」の波動は良好です。

この「水」は、飲料にしてもいいようです。

 

「鳥居の柱」に、「神に選ばれし者」と刻印されています。

 

「そうか・・・ここを通過できるということは・・・・神に選ばれた者なのか・・・」という気にさせられます。

これを有難く受け取りました。感謝。

 

龍神の口から、水が流れ出ています。

こちらの「水」は、それほどの波動ではありません。

 

ペットボトルなどで汲んで飲むほどではありません。

 

この奥に―――

「奥宮」があります。

 

さすがに、ここの波動は高いです。

洞窟のようになっていて、中に引き込まれそうな感覚を覚えます。

ここに、ご祭神の「瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)」が祀られているようです。

その波動を感知します。

 

白蛇がおりますが、「弁財天」のエナジーはありません。

 

 

瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)」とは、「人の穢れを早川の瀬で浄める」と文献にあり、これは「治水神」の特性であるといわれています。

 

瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)」は、「天照大神」との関連が深く、「天照大神」を男性神とする場合では、その「皇后」であるという説もあります。

 

また、「天照大神」の「荒魂(あらみたま)」であるという説もあります。

伊勢神宮では、内宮に祀られている「天照大神」の「荒魂(あらみたま)」として、「瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)」が祀られています。

 

伊勢神宮では、常に「東」に「天照大神」の正宮が位置し、「西」に「瀬織津姫(せおりつひめ)」の正宮が位置しています。

これは、伊勢神宮の内宮に「天照大神」が祭られて、その「西」にある「荒祭宮」に「瀬織津姫(せおりつひめ)」が祭られているのです。

 

また、「瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)を祭神としている神社も、全国に点在します。

その一つである岩手県遠野市にある「早池峰神社(はやちねじんじゃ)」に、私は行っています(いずれ本ブログで紹介します)。

 

その「水を浄化する」神である「瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)のエナジーを、次の画像でさらに引き出します。

(この波動をコピーして、その上に飲料水を置いておくと、水道水でも浄化できると思います)。

この画像の上に置いた「水」は、浄化できるようです。

 

この「奥宮」の上には、高波動に満ちていました。



ここの波動は良好です。

ただし、「瀬織津姫大神(せおりつひめおおかみ)のエナジーではありません。

 



「奥宮」の鳥居から見た斜面です。

かなり高波動です。

 

この地に「銭洗い弁財天」を祭った意味が解ります。

清浄な「水」でお金を浄めることで、金運がアップするのも分かるように気がします。

 

我々も全員が、全硬貨と一万円札一枚を、深沢の清水に漬けて「運気向上」を願いました。

 

              つづく

 

           2022年6月21日記

 

 

神経切断の背後に潜むもの

《 神経切断の背後に潜むもの 》

 

 私が、人の調整を行うときによく遭遇するのが、「神経切断」です。

 

これは―――

神経の中を走っている「血管」が硬化して、切れてしまうものと思っています。

 

特に女性のクライアントでは、「膀胱の神経切断」がある方は、新規調整者の中では半分以上を占めるように思われます。

 

その原因には、いくつか要因が考えられますが、

まず

〇 尿を我慢する傾向が強いのではないか

と思われます。

 

尿の排泄を過剰に我慢するクセがあると、それが常態化してしまい、常に膀胱の神経組織にはストレスがかかります。

 

その結果、神経組織への過剰なストレスが積み重なって、神経切断」に至るのではないかと思っています。

 

もう一つは、

〇 降圧剤の悪影響で、神経内の血管にコレステロールがつまり、神経が硬くなって切れてしまう

このように、思われます。

 

昔は、「高血圧」というと、収縮期血圧が160mHgを超えた場合でした。

 

それが今では、135mHgを超えると、「高血圧」と診断されて、多くの方が血圧を下げるために、降圧剤を服用するになっています。

 

このために、製薬会社と医師にとっては、大きな収入源となっています。

 

この「降圧剤」は、副作用の温床となっているようです。

多くの方は、「降圧剤」は副作用をもたらす「クスリ」である、という認識が足りないように思われます。

 

とくに「降圧剤」は、服用することでコレステロールの数値が異常に高まることが知られています。

 

コレステロールそのものは、体内でも合成されるので問題はありませんし、昔のように「善玉コレステロール」や「悪玉コレステロール」といった迷信からは解放されてきています。

 

コレステロール」そのものには、今では「善玉」「悪玉」の相違はありません。

 

簡単に言えば、肝臓から出されるコレステロールは「悪玉」であり、肝臓に戻るコレステロールは「善玉」と呼ばれていました。

 

問題となるのは―――

血管の内部に傷がつきますと、血中のコレステロールが溜まり、動脈硬化を引き起こすことなのです。

 

動脈硬化」は、全ての成人病の大元になるものです。

動脈硬化」による「血流不全」が、万病を引き起こします。

 

そして、神経内部を走る血管にも、多量のコレステロールが溜まることで、「神経切断」が引きこされるように思われます。

 

それ以外にも、「神経切断」を引き起こす要因はあるかもしれません。

 

例えば、私はよく「胃の神経切断」に遭遇します。

 

この場合には、感情的なストレスのメンタル・ストレスの多い方は、要注意となるようです。

 

さて―――

 

これらの「神経切断」は、ほとんど医療機関では見出すことができないようです。

それは、「神経切断」はレントゲンやCTあるいは、MRIなどの画像には正確に映らないからです。

 

それ故、新型コロナ・ウイルスで重症化する患者の多くに、「左肺の神経切断」があって、そのために全身にウイルスが蔓延していることに、気が付かないように思われます。

 

「左肺の神経切断」があると―――全身にウイルスが蔓延します。

 

私は、TVで新型コロナ・ウイルスにより重症化する患者の映像を見たことがあります。 

3人の重症化した患者全員が、「左肺の神経切断」がありました。

 

「左肺の神経切断」には、胸骨側(内側)の神経が切断しますので、

〇 その部位の神経の全てを繋ぎます。

〇 全身に反応しているウイルスの全てを除去します。

 

これは、その場で対処はできます。

 

左肺の神経切断があると、左の肺では深く呼吸ができなくなります。

しかし、

全ての神経を繋ぎ、全身に蔓延したウイルスを除去すると、すぐに呼吸が正常にできるようになります。

 

さて―――

 

このように神経切断の要因と、具体的な対処について述べてきましたが、これだけでは、神経切断を引き起こす真の原因には至らないように思います。

 

そこで、神経切断を引き起こす「背後に潜む原因」について、考察しました。

 

以下、私の掴んだ原因についてのものです。

 

これ以外にも、まだまだ何かあるかもしれませんが、一つの解決要因として、参考までにお読みください。

 

これには、過去に私のところで身体の調整をした方で、膀胱の神経切断していた方を選び、その当時の状態にイメージでセットして、ある物質を十分な摂取をしてみました。

 

すると―――イメージの中ですが、神経切断の反応が低下するか、消滅しました。

 

イメージで与えたものは、「ビタミンC」です。

ビタミンCの大量投与で有名なのは、「ノーベル賞」を2回受賞したライナス・ポーリング博士です。

 

ポーリング博士は、大量のビタミンCを摂ることを推奨しました。

 

現在のビタミンC摂取では、一日100mgが基準値とされています。

だが、ポーリング博士は一日に2000mgから3000mgという大量のメガ・ビタミンを推奨しました。

 

これは、私の記憶が正しければ、ゴリラの研究からでした。

ゴリラが一日に摂取するビタミンCの摂取量から、ヒトに当てはめると、3000mgというメガ・ビタミンの量になるのです。

 

これは―――通常の野菜や果物からでは、補給できない量です。

サプリメントからの摂取です。

 

自然界から摂るビタミンCと、化学的に生み出すアスコルビン酸(合成ビタミンC)では、体内に入るとそれほど変わらないので、問題はないとされています。

 

一部では、アスコルビン酸(合成ビタミンC)は、問題があるとされていますが、それほど心配することはないように思います。

 

また、ビタミンCは人体では合成できないので、日々摂取する必要のあるビタミンです。

2000mg程度までなら、多量に摂取しても問題はないといわれています。

 

末期ガンの患者で、死を待つだけの人々に対する1976年の研究では、進行ガン患者100人に、毎日10グラム(1000mg)のビタミンCを与えました。

 

投与しなかった1000人との比較実験では、500日の時点でコントロール群は1000人全員が死亡しましたが、ビタミンC投与群100人中では、11人が生存していました。

 

最終的に、ビタミンC投与群は、コントロール群に比べて300日以上長く生きました。ガンにも有効なようなのです。

 

ビタミンCは、身体の防御力を高めて、多くのプロセスにも関与しています。コラーゲンをサポートし、結合組織を維持するなど、回復に寄与します。

また、植物由来の鉄の吸収をサポートします。

さらに、ビタミンCには強い還元作用もあり、若さを保つのにも必要となるものです。

 

高齢になるほど、白内障になります。

80歳を超えると、ほぼ全員が白内障になるともいわれています。

 

この白内障は、ビタミンCの不足から引き起こされます。

つまり、大多数の高齢者は、ビタミンCが不足しているのかもしれません。

 

ついでながら、今の新型コロナ・ウイルスの防御対処にも、ビタミンCは有効なようです。

 

ストレスのある生活を続けていると、副腎からホルモンが大量に排出されます。

そのような疲労感を持って生活している場合には、

 

〇 ビタミンCは、一日に数回に分けて摂取することをお薦めします。

 

ついでに言いますと、メガ・ビタミンを推奨して、自らも多量のビタミンCを摂取していたポーリング博士は、93歳でガンで亡くなっています。

 

多量のビタミンCを摂るには、ビタミンEの摂取がまた、必要となるようです。

ビタミンEは、若さを保つためにも必要とされています。

 

ビタミンCは水溶性(水に溶けるタイプ)のビタミンで、水溶性の活性酸素(酸素の毒素)から身体を防御します。

ビタミンEは脂溶性(脂に溶けるタイプ)のビタミンで、脂溶性活性酸素(酸素の毒素)から身体を防御します。

 

つまり、ビタミンCとビタミンEの両者を摂ることが、推奨されることになります。

 

 

                  2022年6月14日記

 

 

浅草七福神巡り その4

《 浅草七福神巡り その4 》

今戸神社待乳山聖天

 

 浅草七福神巡りも、残りがあと2か所となりました。

 

次ぎに向かったのは、「今戸神社」です。

「福禄寿」(ふくろくじゅ)をお祀りしています。

 

今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が、奥州討伐のときに、京都の石清水八幡宮を、当地に勧進して祈願したのが始まりです。

その後、関東大震災東京大空襲などで、数々の戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建されてきました。

 

現在の社殿は、昭和46年(1971年)に再建されたものです。

昭和12年(1937年)には、隣接していた白山神社を合祀して「今戸八幡」と呼ばれていたのが、「今戸神社」となっています。

 

現在は、浅草七福神のひとつ「福禄寿」を祀って、現在の賑わいを見せています(「福禄寿」は、浅草七福神に後から加わったものです)。

 

画像で見るように、参拝には「列」ができていました(多くの参拝者がいました)。

 

この神社のしたたかさは、それだけではありません。

この今戸神社が「招き猫発祥の地」と名乗っています。

つまり、「招き猫発祥の地」と名乗って、「縁結び」を強く打ち出しています。

 

そもそも古文献には、今戸神社と「招き猫」に関わるものはない、とされています。

 

今戸神社の「招き猫」の由来は、

「浅草に住んでした老婆が、貧しさのあまりに飼っていた猫を手放しましたが、

夢枕にその猫が現れて、『自分の姿を人形にしたら、福徳を授かる』というのです。

 

その猫の姿を焼き物(今戸焼)にして売ったところ、大評判となった・・・というのです」

これが―――今戸神社の招き猫の発祥の由来です。

 

この由来は、浅草寺浅草神社に由来する記録が残っていて、今戸神社には何ら関係がない、とされています。

つまり―――「招き猫」と「縁結びパワースポット」の、平成なってからのブームに便乗したものとされています。

 

 

今戸神社」とあります。

 

戦前合祀された白山神社の祭神に、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」の夫婦の神を祀っていて、近年になって「縁結びにゆかり」があるとアピールされています。

 残念ながら、有難い波動は何ら反応を示しません。

 

 

これが「福禄寿」です。

かなりの邪気を吸い込んでいます。

 

いろいろな事象を宣伝に使っているのですから、せめて浅草七福神の「福禄寿」だけでも良好な波動を保てるようにしていただきたいものです。

 

ついでに―――

当神社は、新選組の「沖田総司臨終の地」とも主張しています。

 

私は司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで、大きな感銘を受けたことがあります。

主人公の新選組副隊長だった土方歳三が、最後を迎えるシーンで、沖田総司が語りかけてきて回想する場面があります。

 

読後1週間ぐらいは、「燃えよ剣」の感動に酔っていました。

その中で、沖田総司千駄ヶ谷の植木屋で亡くなったとありました(諸説ありますが、これが定説です)。

 

ですが今戸神社は、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきているだけなのです。

それを、沖田総司臨終の地」と主張するのですから、この神社の品格が疑われます(沖田総司の墓まであります)。

 

 

さて―――次に行くのは、私の好きな「聖天」様を祀るお寺です。

御朱印色紙の最後に頂くのが、その色紙の真ん中に入ります。

 

それで、最後に「聖天」様を入れていただきたいので、待乳山聖天(まつちやましょうてん)が、最後の浅草七福神巡りの地としたいと主張して、皆の同意を頂きました。

 

私は、守護神の一つである「聖天」様への思い入れが強いのです。

しかし、考えてみれば、「聖天」は「七福神」の中には入っていません。

 

待乳山聖天(まつちやましょうてん)では、「毘沙門天」をお祀りしています。

したがって、御朱印色紙の真ん中には、「毘沙門天」が入ることになりました。

 

なぜ、「聖天」に思い入れが強いのか?

これについては、本ブログでも書いていますが、もう一度書いておきます。

 

以前福岡の講習会で福岡市に行ったときに、東長寺に案内されたことがあります。

この東長寺は、全体に「結界」が張られていて、近隣の寺院とは明らかに霊格が違っていました。

 

ここの「旧堂」に、「聖天」様が本尊として祀られていました。

「聖天」は個人で祀ることは、ほとんど無理で、よほど霊格の高い寺院でないとできない、と云われています。

 

「触らぬ神に祟りなし」との言葉がありますが、この「神」とは聖天をさす言葉です。

聖天は、穢れを嫌います。

ですから、いい加減な対応では、その祀った本人にも災いをもたらすことになる―――と云われているのです。

 

そのために、通常の寺院でも「聖天」様を祀るのは、避けたいし嫌がられると云われています。

聖天は、「子孫七代の福を、一代でとる」と云われています。

 

紀伊国屋文左衛門パナソニック創業者の松下幸之助などは、「聖天信仰者」でした。

 

一説では、徳川家康も「聖天信仰者」で、あまりに霊力が強いので、「聖天は恐ろしい!」との噂を流して、世間に浸透するのを妨げたともいわれています。

 

真剣に拝んで、誠意を尽くすと、七代先の栄華も一代でもたらすと云われるほど、その霊力は強いとされていますが、聖天は、歓喜天とも呼ばれます。

 

これには、「歓喜天秘法」という七代の運を一代に集める秘術があるといいます。

聖天(歓喜天)の像に油を注ぐなどの秘法で、一般の人ではまず無理なのです。

 

そのために、福岡の東長寺に初めて訪れたときには、「オン・キリク・ギャクウン・ソワカ」の御真言で同調しましたが、すぐに抜けてしまうと思っていましたが、実際にはかなり長い期間、私の身体に同調していました。

 

そのために、翌年訪れたときには、そのお堂に入り(数年後に行きましたが、そのお堂は閉じられていました)、真剣に御真言で同調しましたので、今でも同調していただいて、守護神の一体となっていただいています。

 

その後も、「聖天」とある寺院を訪れると、真剣に御真言とともに拝むようにしています。

 

このような経緯がありますので、待乳山聖天(まつちやましょうてん)を最後にして、御朱印色紙の真ん中に、「聖天」様の文字をいれてもらおうと思ったのです。

 

残念ですが、「毘沙門天」になりました。

毘沙門天」に帰依して有名なのは、上杉謙信です。

 

生涯一度も負けたことがなく、決して卑劣な策を用いず、正攻法で攻めるのですが、あまりにも強く、「軍神」とみなされていました。

もし上杉謙信がいなかったら、もう一方の「軍神」である武田信玄は、天下を掌握してたかもしれないといわれていました。

 

上杉謙信については、本ブログで「謙信は女性であった!」との説を追っています(よろしければお読みください)。

毘沙門天」も軍神であり、金運に絶大な力があるとされています。

 

私は「毘沙門天」も同調して頂いていますので、御朱印色紙の真ん中でも嬉しいのです。

 

 

さっそく境内に踏み込みます。

波動は高くないですが、数体の観音菩薩像が並びます。

 

なかなか立派な境内です。

待乳山聖天(まつちやましょうてん)は、浅草寺聖観音宗)の子院のひとつです。

 

正式には「本龍院(ほんりゅういん)」で、山号は「待乳山(まつちやま)です。

 

本尊は、聖天(歓喜天)」で、この歓喜天は「十一面観音」の化身とされています。

ここに浅草七福神の「毘沙門天」が祀られています。

 

 

本堂に入ります。

 

ここの歴史は古く、595年(推古三年)に、待乳山(まつちやま)の小高い丘に、金龍が出現して(この金龍が浅草寺山号「金龍山」の由来となったと伝わります)、

601年の旱魃の時(推古天皇9年)に、歓喜天(聖天)と十一面観音が安置されたと伝わります。

 

また、平安時代の天安元年(858年)に、慈覚大師が東国巡回のおり、当山に籠り、21日間の修行をして国家安泰、庶民の生活安定を祈願して、十一面観音菩薩像を彫って奉安されたと伝わります。

 

堂内には、「大根」が奉納されています。

 

本堂からは、「大聖歓喜天(聖天)」の波動は伝わってきません。

「十一面観音」の波動も伝わってきません。

 

毘沙門天」の波動は伝わってきます。

 

毘沙門天」の波動は伝わってきますが、「毘沙門天」は通常は公開されていません。

御開帳は毎年年末から1月末までです。

 

この本堂の左側に、「毘沙門天」の波動を感知します。

 

 

大根は、「聖天」のお供え物となりますので、多くの方が大根を奉じています(200円で購入できます)。

 

不思議なのですが、ここでは「聖天(歓喜天)」の波動は感じないのですが、これら「大根」の波動は上昇しています。

不思議に思って、「なぜなのか?」と分析してみました。

 

この大根の上に乗せられたものは、波動は高まっていません。

しかし、その下にある大根は、波動が高くなっています。

 

つまり、我々が訪れたときには、僧侶が拝んでいませんでしたが、お経を唱えて拝んでいると、聖天(歓喜天)の波動に中が包まれて、大根に良好な波動が宿るのかもしれません。

 

試しに、このブログを書いているファミレスの客(体軸がブレて、身体が歪んでいます)に、画像の上にある大根を投入しましたが、まったく反応しませんが、下にある高い波動の大根を投入すると、体軸が整いました。

 

やはり、僧侶がお経を唱えると、その波動が「大根に浸透して、波動が高くなる」ように思われます。

「聖天(歓喜天)」を招聘するお経によって、捧げられた大根が販売されていますので、その大根は購入してもよいかもしれません。

 

本堂の扁額には、「聖天宮」とあります。

 

待乳山歓喜地蔵尊供養会」とあります。

ここでは様々な法要がされています。

毘沙門天(ネットより)

 

この毘沙門天は、年末から1月の期間のみ開帳で、それ以外では見られないようです。

毘沙門天は、聖天(歓喜天)の守り神です。

 

これは、本堂裏手にある「道灌稲荷」です。

江戸を開いた太田道灌が勧請したと伝わるようです。

 

波動は高くありません。

 

 

さて、我々は本堂の裏手に行きました。

この本堂裏手の石畳の上に立ち、「天地結合の印」を作り、ここで全身にエナジーを吸引しました。

 

多くの方は、左手の人差し指を一本の伸ばし、右手の指を下に向けて伸ばして「天上天下唯我独尊の印」を組みますが、

我々は、右手を上に伸ばして、左手を下の伸ばす「天地結合の印」で行います。

 

このとき、伸ばす指は、人差し指が一本となるのか、人差し指と中指の2本になるのかは、その人の反応によって変わります。

 

ともに、上は大宇宙の空間(もしくは太陽から)エナジーを体内に入れて、下からは地球からのエナジーを吸引して、丹田で統合します。

これにより、高い波動が身体に流入してきます。

 

十分に波動が体内に注入されたら完了です。

これを一人一人がやりますので、時間がかかります。

 

境内の全体画像です。

入口近くには、小説家の池波正太郎の碑もあります(この近くで生まれたようです)。

 

こうして、浅草七福神巡りが終了しました。

 

浅草七福神巡りを振り返りますと―――

七福神」ですが、9か所を巡っています。

 

「神巡り」は、「敬愛豊財」「芸道富有」「人望福徳」「有徳蓄財」「勇気授福」「清廉度量」「延命長寿」の七つの幸せが授かるといわれます。

福の神への信仰は、鎌倉時代から「大黒天」「弁財天」「恵比寿天」の三神を合わせて参詣する信仰がありました。

 

室町時代になると、この三神に「毘沙門天」「布袋尊」「「福禄寿」「寿老人」の四神が加わり、「七福神」となりました。

江戸時代になると、文化発祥の地といわれる浅草で、「七福神巡り」が盛んになり、「商売繁盛」「家内安全」という願いが加わり、多くの方が「七福神巡り」を行うようになってきました。

 

その後、太平洋戦争などで一時中断します。

それが復活したのが、昭和52年です。

 

このときに、「福禄寿」「寿老人」が増えて(この2つはダブります)、全部で「九か所巡り」となっています。

 

 

全ての御朱印色紙に、九か所を巡り、七福神が書かれて完了しました。

これが、私のベッドにある御朱印色紙です。

 

このままでは、それほどの波動ではないので、高波動を注入しています。

今回のパワースポット探索の会メンバーの全ての色紙にも、高波動を注入しています。

 

                了

 

           2022年6月6日記

 

 

浅草七福神巡り その3

《 浅草七福神巡り その3 》

吉原神社―石浜神社―橋場不動尊

 

 凰神社を後にして、次に「吉原神社」に向かいました。

「吉原神社」です。

 

有名な「吉原遊郭」のあった地です。

「吉原神社」の鳥居には、「吉原弁財天」とあります。

 

なぜ?浅草なのに、「吉原」の名前があるのか。

「吉原」といえば、私には現在の人形町が思い浮かびます。

 

それは―――「吉原遊郭」が、この地にあったことが発端です。

「吉原遊郭」は、人形町から浅草に移っていました。

 

「吉原遊郭」は、そもそも江戸時代の元和3年(1617年)に、幕府の許可を得て庄司甚右衛門という人物が、江戸市中の此処かしこにあった遊女屋を、日本橋人形町周辺に集めたことに始まります。

 

当時は、日本橋を超えると、あたり一帯は鬱蒼と葦が生い茂る地帯でした。

それで「葦原(あしはら)」と呼ばれていたのが、転じて「吉原」と呼ばれるようになりました。

 

昔は寂しい地帯でしたが、数十年後には多くの男性が集まるようになり、江戸の中心街のようになってしまったので、明暦3年(1655年)に現在地の千束村に移転させられました。

 

現在の人形町周辺にあった吉原遊郭を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と呼んでいます。

 

吉原は、大名から江戸の庶民まで、多くの交流の場であり、文化発信の地でもありました。

 

多くの文学作品や、歌舞伎、浮世絵などの題材ともなっています。

 

遊女の中には、高い教養を身に付けた者もいて、「遊女遊び」をするにも、それなりの心構えと教養が必要でした。

 

遊女の中の最高位の「花魁(おいらん)」には、一般庶民は近づくこともできす、ただ眺めるだけの存在でした。

 

花魁になるには、その候補者の女性を、幼少の頃から徹底的に鍛えあげていて、

古典から、書道、茶道、和歌、三味線、囲碁に至るまで、教養、芸事を仕込まれていました。

 

当然、元手もかかっていますので、花魁を揚げるには、莫大な資金が必要でした。

 

吉原遊郭に遊びに来る人々は、非日常の雰囲気に触れるだけの「素見(ひやかし)」が7割もいたといわれています。

 

昭和33年「売春防止法」の施行により、吉原遊郭の長い歴史に幕が降ろされました。

 

御朱印」をもらうには、人が多いので列に並ばなくてはなりませんでした。

 

「吉原神社」「吉原弁財天」とあります。

本堂は大きなものではありません。

 

「弁財天」の波動も一切ありません(弁財天は、別の吉原弁財天祠にあります)。

「稲荷神」の波動も一切ありません。

身体に感知できる良好な波動は、まったくありませんでした。

 

歴史を辿ると―――

 

この「新吉原」には、遊郭の守護神として、五か所の稲荷社がありました。

吉原遊郭の入口である「大門(おおもん)」の手前に、「玄徳(よしとく)稲荷社」があり、

遊郭内の四隅には、「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九朗助

稲荷社」がありました。

 

その後、明治5年に五つの稲荷社が合祀されます。

その総称として「吉原神社」と名付けられました。

 

その後、関東大震災で焼失します。

さらに「新吉原」隣接の地あった「吉原弁財天」も合祀します。

 

しかし、東京大空襲で焼失して、昭和43年に現社殿が造営されています。

 



吉原観音

 

この観音像は、大正12年(1923年)に東京を襲った関東大震災で、遊女490人が逃げ場を失って亡くなりました。

 

遊女及び遊郭関係者の慰霊を目的に設置されたものです。

その歴史を知ると、何とも暗い気持ちにさせられます。

「吉原弁財天」(琵琶を奏でています)

 

左も「弁財天」で、真ん中の像も「弁財天」です。

「弁財天」は、叡智や学問、あるいは音楽の神とされています。

 

そして、言うまでもなく財運が高まる福徳神、財宝神でもあります。

そこから、「大黒天」「恵比寿天」と共に「弁財天」を含めて、七福神の基になったとされています。

 

室町時代の文献に、「大黒天」「弁財天」「毘沙門天」の三尊を合一した「三面大黒天」を、天台宗の開祖である最澄が祀ったという伝承があります。

 

この「三面大黒天」を秀吉が保持していて、戦場にも持ち込んで拝んでいたと伝わります。

 

「天下人」となった秀吉にあやかり、私もこの故事に倣い、「三面大黒天」を購入していますが、「大黒天」「弁財天」「毘沙門天」の三尊にお入りいただいています。

 

さて―――弁財天ですが、

 

この画像の真ん中の「弁財天」は、「生きていません」。

つまり、ありがたがって拝んでも、この「弁財天」では「金運」は高まらないと思います。

 

ですが―――画像の左側の「弁財天」は、「生きています」。

 

拝むだけの効力がありそうです。

「金運」「財運」を高めたい方は、真剣に拝むといいかもしれません。

 

ただ、この「弁財天」は、扉の隙間からカメラで撮ったもので、通常は扉を開いて公開していないようです。

 

こうして、次の目的地である「石濱神社」(いしはまじんじゃ)に行くことになりました。

「寿老人」をお祀りしていますので、心勇んで向かいました。

 

 

 

石濱神社

 

 

石濱神社の境内です。

 

立派な拝殿があります。

「石濱神社」は、聖武天皇の時代である神亀元年(724年)に鎮守されたもので、源頼朝藤原泰衡を征討する折に、ここで祈願して

 

「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み、大勝して目的を果たしたので、後日、社殿を造営寄進して、神恩に報いたと伝わります。

 

拝殿には、伊勢神宮内宮、下宮と同じ「天照大神」「豊受大神」が祀られています。

 

そのために、関八州の庶民は「お伊勢参り」に行かずとも、この「石濱神社」に詣でることで、「伊勢参り」を済ませることができるようです。

ここに―――

「神排詞(となえことば」として、

祓いたまえ 清め給え(はらいたまえ  きよめたまえ)

 

神(かみ)ながら 守り給え(まもりたまえ)

幸(さきわ)え給え(たまえ)」 

このようにあります。

拝殿には、伊勢神宮内宮、下宮の「天照大神」「豊受大神」が祀られているはずですが、その霊気は反応しません。

 

これでは、「お伊勢参り」の霊験を頂くことはできないかもしれません。

 

寿老人とあります(画像の左)。

「寿老人」は公開していません(扉は閉まっています)。

 

その隣(右)

にあるのが、「宝得大黒天」です。

 

「宝得大黒天」

 

見た目は、人形のように映りました。

歴史を感じさせることもなく、波動も低いものです。

 

手を合わせて、感謝の気持ちを捧げるほどの気持が起きませんでした。

これが本物の「寿老人」です(ネットから)。

毎年新年元旦から、1月の31日までしか公開していません。

※現在は、常時公開されているようです。

 

「長寿延命」「諸病平癒」の神徳があるとされています。

鹿を連れていますが、この鹿は長寿の象徴となっています。

 

1月の公開期間中は、撮影も可能なようですが、通常は高波動の仏像などは「撮影禁止」が多いです。

 

そのような中で撮られたのか、画像の波動は高くありません。

そこで―――「寿老人」本体の中に隠れている神的な高波動を引き出して、次に示します。

神的高波動の本体が浮き上がってきたときの「寿老人」です。

この画像で、「長寿」「延命」をお願いしてください。

 

この画僧であれば、感謝の気持ちを捧げる気持が起きると思います。

扉が閉められていて、公開されていないものです。

 

右から、「寿老人」「妙義八幡神社」「北野天満宮」「江戸神社」とあります。

 

石濱神社には、末社が多くあります。

 

拝殿横には、真先稲荷があり、ここには「招来(おいで)稲荷神社」(左)と、「白狐神」(右)があります。

 

その右隣には―――

「富士遥拝所」もあります。

残念ながら、全ての波動は高いものではありません。

 

期待外れの感を抱きながら、次の浅草七福神の「橋場不動尊」に向かいました。

 

 

橋場不動尊

 

橋場不動尊の創建は、8世紀になります。

760年に、相模の国の大山寺の良弁という僧侶が、不動明王のお告げを賜り、1本の霊木から3体の不動明王の像を造りました。

 

そのうちの一体を大山寺に安置して、一体を自分が持ち、残りの1体を弟子の寂昇に渡しました。

 

その寂昇は、上総の国へ旅に出ます。

その途中で、寂昇は不動明王の夢を見ます。

 

その夢に従い、この地に不動明王の像を安置します。

これが、橋場不動尊のはじまりです。

 

ここに不動明王が祀られています。

 

不動明王の御真言は、いくつもありますが、ここでは

「ノーマーサーマン、ダーバーサラナン、センダーマーカロ、シャーナンソワタヤ、ウンタラターカンマン」 と唱えるようです。

 

ここには、浅草七福神の「布袋尊」が祀られています。

ですが、その本体がどこにあるのか判りませんでした。

不動明王の右隣にあるのが、そうかもしれません(画像が暗くて解りません)。

 

 布袋尊」とは―――

 

常に微笑んでいて、粗衣をまとい、大きな袋を肩にかけて、信仰の厚い人には中の宝物を与えたといいます。

 

住居を定めることもなく諸国を遊行して、超然として過ごしたと云われています。

 

雪の中でも半裸で寝ていましたし、身体が雪に濡れることはなかったといいます。また、

吉凶を予見して、間違えることはなかったといいます。

 

中国では歴史上実在した人物ともいわれ、「弥勒菩薩」の化身であるとも云われています。

 

 

「御授地蔵尊」です。

その前には、「百度石」もあります。

 

地蔵尊は、どこにでもある尊仏で、人には それほどありがたがれませんが、その本体は「国常立大神(くにとこたたちのおおかみ)」です。

 

本来は、高波動なのですが、何も反応しません。

 

布袋尊」です(ネットから)。

 

本体は、よく解かりませんでした。

公開の期間は限定されているようです。

 

この画像の波動も高くないです。

「まあ・・・こんなものかな・・・・」との思いを抱いたまま、次の浅草七福神の神社へと向かいました。

 

             つづく

 

            2022年5月31日記

 

 

浅草七福神巡り その2

《 浅草七福神巡り その2 》

浅草神社―矢先稲荷神社―鳶神社

 

 浅草寺の「大黒天」から、浅草七福神巡りをスタートして、次には浅草寺から徒歩1分ほどの「浅草神社」に向かいました。

 

浅草神社は、通称「三社権現(さんしゃごんげん)、有名な「三社祭り」の舞台です。

 

祭神は、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前武成(ひのくまのたけなり)を主祭神として、もう一柱は、浅草寺を創建した土師真中知(はじのまなかち)としています。

 

郷土神を祀る神社です。

この三人の霊をもって「三社権現」としています。

 

また、東照宮徳川家康)と大国主神を合祀しています。

元は浅草寺の系統でしたが、明治の「神仏分離令」により、別法人となりました。

 

この神社では、「恵比寿神」を祀っています。

 

 

浅草神社社殿の前には、狛犬があります。

残念ながら、この狛犬は、「結界」ではありません。

したがって、この中を通過するだけで、身体が浄化されることはありません。

 

私の中では、まず神社の[鳥居]や「狛犬」に。「結界があるか否か」がその神社の霊格の指標となっています。

 

住職がいない寺院や仏閣でも、清掃の行き届いたところは、自然と「結界」が張られています。

社殿です。

 

社殿は、三代将軍の徳川家光の寄進により、慶安2年(1648年)に建造されました。

 

現在は、拝殿―幣殿―本殿とつながる権現造りで、国の重要文化財に指定されています。

 

拝殿には、入れませんでした。

 

中には、特に高い波動は感知されません。

恵比寿神」の反応もありませんでした。

 

「三社権現」をお祀りしていますが、とくにそれらしいエナジーは感じられることもなく、早々と次の神社に向かいました。

 

この三社神社には、浅草近隣に氏子の町が形成されています。

浅草から駒形、寿町にかけて氏子が多数いて、「浅草三社祭り」のときには、その氏子の大活躍がありました。

 

今は亡くなりましたが、私のクライアントだったある棟梁がいて、「浅草三社祭り」を仕切っていると言っていました。

 

恵比寿神は見られませんでしたの、ネットで拾ったものを示します。

恵比寿神

七福神の中で、唯一日本生まれの「神様」です。

 

次に向かったのは、「矢先神社」です。

「福禄寿」をお祀りしています。

 

矢先稲荷神社です。

「矢」の「先」にある稲荷神社です。

 

この名称は、京都にある「三十三間堂」に倣って、三代将軍の徳川家光が、浅草に造った「浅草三十三間堂」の守護神を祀ったのが起源です。

 

京都にある「三十三間堂」は、将軍家光が「通し矢」という武士の腕を競わせたのが始まりとされています。

 

京都の「三十三間堂」の「通し矢」とは、本堂軒下の長さ121Mを、南から北に矢を射通す競技です。

 

いくつかの種目がありますが、一昼夜に何本射通せるかを競わせる「大矢数」が有名です。

京都の「三十三間堂」。1000体の千手観音像が並ぶ。

この廊下で「通し矢」が行われました。

 

この弓道の競技は、現在も行われています(距離は60M)。

 

しかし、浅草の「三十三間堂」は、火災で焼失して、深川に移転しましたが、

その後の「廃仏毀釈」で、明治5年に廃寺となっています。

 

矢先稲荷神社の創建は、寛永19年(1642年)です。

 

御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。

ご神体は、上野東叡山寛永寺天海大僧正によって寄進されたといいます。

しかし―――このエナジーは、まったく感知されません。

 

「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっていたといいます。

残念なことに、火災によりすべて焼失したようなのです。

 

御利益は、「商売繁盛」「武運長久」を謳っていますが、疑問符がつきます。

残念なことです。

 

さて―――七福神ですが、これがそうです。

「福禄寿」

 

残念ながら、「生きていません」。

「浅草名所七福神」でなければ、これだけでは人は参拝しないかもしれません、

 

多くの方が訪れるので、この空間も邪気っています。

「まあ・・・・仕方ないかな・・・」と思って、次の「浅草名所七福神」に向かいました。

鷲神社(おおとりじんじゃ)です。

 

「酉の市(とりのいち)」で広く知られています。

 

鷲神社(おおとりじんじゃ)の御祭神は、「天日鷲命(あめのひいわしのみこと)」と「日本武尊(やまとたけるのみこと)」です。

 

鷲神社の創始については、つまびらかではありませんが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。

 

天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽器の弦を奏でられました。

 

この天宇受売命(あまのうずめのみこと)の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。

 

その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称したといいます。

 

そして天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、開運、開拓の福神として鎮座されたというのです。

 

ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は―――

 

東征の帰途、ここの松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことから、その日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりとしています。

 

さて―――

 

この「酉の市(とりのいち)」については、

樋口一葉正岡子規岡本かの子、あるいは久保田万太郎などの文人らの文芸作品に登場します。

 

江戸では、「酉の市(とりのいち)」を境に、「冬」に入ることになります。

 

毎年、テレビで「酉の市(とりのいち)」が話題になると、「そうか・・・もう冬なのだ・・・」と時節の移り変わりを感じることになります。

 

鷲神社(おおとりじんじゃ)には、「なでおかめ」というものがあります。

「なでおかめ」です。

 

鷲神社(おおとりじんじゃ)は、「商売繁盛をもたらす神様」ですので、「金運」を高めるために、「鼻」を撫でるとよいと云われています。

 

また、「右の頬」を撫でると、「恋愛が成就する」と云われて、多くの方が撫でていますので、黒ずんでいます。

 

「左の頬」は、「健康によい」とされて、「口を撫でる」と、「災いを防ぐ」といいます。

 

「おでこを撫でる」と、「賢くなる」といわれ、「目を撫でる」と、「先見の明」がつくといわれます。

 

「顎(あご)を時計回りに撫でる」と、「すべて丸く収まる」といわれています。

 

顔中撫でられていますので、鼻だけでなく、左右の頬も、額も、顎も撫でられ続けていますので、このままいくと・・・・「どす黒くなる」のでは、と少し心配です。

 

「なぜ?なでおかめがあるのか」

 

「おかめ」とは、「お多福」ともいわれ、幸福が多く訪れることから、幸せを招く女性の象徴とされています。

 

そのために、「酉の市」の縁起熊手の中に、取り込まれているのです。

 

それは、古事記日本書紀のなかで、天照大御神が「天岩戸(あまのいわと)」に籠ってしまい、世の中に太陽の光が差し込まなくなったときに、

 

天宇津女命(アメノウズメノミコト)が舞いを舞い、八百万の神々が大笑いして、それを天照大御神が「何だ!」と隙間から覗き見たときに、「天岩戸(あまのいわと)」が開けられて、光が戻ったという神話があります(前述しています)。

 

このときに舞った天宇津女命(アメノウズメノミコト)は、「おかめ(お多福)顔」だといわれています。

 

 古来より、わが国では「おかめ(お多福)顔」は美人と称されています。

 

画像がボヤけていて、申し訳ありません。

 

なぜか、もう一枚もボヤけていました。

このときの空間は、あまりよろしくない邪気に包まれていたようです。

この鷲神社(おおとりじんじゃ)の「浅草名所七福神」は、「寿老人」を祀っています。

 

「寿老人」です。

この本体は、見られませんでした。

 

寿老人とは、道教の神仙で、伝説上の人物です。

酒を好み、長寿の神とされています。

 

不死の霊薬の入った瓢箪を持ち、手には長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っています。

 

大きな感動もなく、次の「吉原弁財天」に向かいました。

 

               つづく

 

             2022年5月24日記

 

 

浅草七福神巡り その1

《 浅草七福神巡り その1 》

浅草寺大黒天からはじまる

 

 浅草の「七福神巡り」については、よくテレビで取り上げられていますので、一度は近いので「行ってみよう!」となりました。

 

2021年6月13日に、浅草雷門前に集合となりました。

「パワースポット探索の会」のメンバーが集まります。

 

浅草寺は、幾度となく行っていますが、本堂は人が多く、邪気が常に蔓延していますので、今いち好きになれないところです。

 

常に大勢の人が押し寄せるので、常に本堂前は邪気っています。

敏感の方なら、その邪気が髪の毛にへばりつきますので、身体が歪みます。

「雷門」浅草寺だけでなく、「浅草」を代表するものでもあります。

 

浅草がテレビで放映さえるときには、必ずまずこの「雷門」(かみなりもん)が映ります。

 

正面に向かって、右には「風神像」、左には「雷神像」が安置されていますので、正式には「雷門」(かみなりもん)は、「風雷神門」(ふうらいじんもん)と呼ばれます。

 

慶応元年(1865年)に焼失しましたが、昭和35年(1960年)に、松下幸之助パナソニック創業者)が寄進したものです。

 

この有名な「雷門」の大提灯は、浅草三社祭りの時は、神輿が通れないのと、台風のときには畳まれます。

 

背面の間には、「金龍」「天龍」の像が安置されています。

「風神像」

 

「雷神像」

 

「雷門」の大提灯の下です。彫刻があります。

「金龍」「天龍」でしょうか。

 

「雷門」を通過して、仲見世を250M進むと―――

「宝蔵門」があります。

 

入母屋造りの二重門で、江戸時代には、一年に2度2階部分に昇ることができたといいます。

 

現在は、昭和39年(1964年)に再建されたもので、門の左右には金剛力士像が安置されています。

 

この金剛力士像(仁王)は阿形で、横綱だった「北の湖」がモデルとされています。

この金剛力士像(仁王)は吽形で、関脇だった「明武谷」がモデルとされています。

 

「明武谷」(みょうぶだに)と言われても、知らない方も多いと思います。

当時の幕内の最高身長で、189センチの筋肉質の身体で、外人女性ファンが多く、8頭身でした。

横綱大鵬が、柏戸ともに場所後に横綱に昇進するときに、「明武谷」との三者による優勝決定戦が行われたことがあります。

 

このとき優勝は果たせませんでしたが、殊勲賞、敢闘賞などを多く獲っています。

 

「人間起重機」と呼ばれて、がっぷり四つに組むと、両膝を深く曲げて、相手を釣り挙げて、倒す、外に出すという技がありました。

 

今の相撲では、「釣り出し」「釣り投げ」などの技を使うことは、めったに見られません。懐かしい相撲取りでした。

「小舟町」と書かれた大提灯の下にも、龍神の彫刻があります。

 

この宝蔵門を超えると、正面に本堂が見えてきます。

浅草寺の「本堂」です。

 

ここまで、「雷門」「宝蔵門」を通過してきましたが、高波動の寺院であれば、そこには「結界」が張られていて、そこを通過することで、浄化されることになりますが、浅草寺には浄化作用がありません。

 

「本堂」の内部です。

はっきり言って、有難くも何ともないところです。

 

浅草寺は、正式には「金龍山浅草寺」です。

元は天台宗でしたが、現在は「聖観音宗」としての本山となっています。

 

この中には、絶対秘仏の「聖観音像」が収まっています。

 

絶対秘仏ですので、公開はされていません。

その秘仏はなぜここにあるのか?

 

それは飛鳥時代推古天皇の時代(628年)に遡ります。

宮戸川(現在の隅田川)で魚をしていた漁師の網に仏像がかかります。

 

それが浅草寺本尊の「聖観音像」で、その漁師の主人は出家して、自宅を寺に改装して「聖観音像」を祀りました。これが浅草寺の始まりです。

 

では、なぜ「聖観音像」が川に流れていたのか?

一説によると、上流にある寺が水害に見舞われて、現在の飯能市の成木川に沿った岩井堂の仏像が流されました。

 

岩井堂観音の水害は、浅草寺創建の100年ほど前です。

 

この観音堂に安置されていた「聖観音」が、現在の隅田川に流れついて、網にかかったというのが真相かもしれません。

 

水害にあった寺院や郷の人々は、その後返還するように申し出ますが、これを無視して今に至ります。

 

その後、大化元(645年)に勝海上人が、夢のお告げでこの「聖観音像」を秘仏と認定して、観音堂を建立しました。

 

これによって、武蔵野の国の観音信仰の中心地となります。

 

本堂再建工事の跡から、平安時代には伽藍が建てられていたことが解ってます。

武蔵野の寒村に、多くの出土品のなから立派な観音堂があったことが分ったのです。

 

平安時代のはじめに、延暦寺の円仁:慈覚大師の巡拝により、伽藍の整備が行われて、信者も増えました。

慈覚大師を「中興の開山」としています。

 

鎌倉時代になると、将軍頼朝などが帰依するに及び、多くの名将が篤く信仰しました。

 

江戸時代になると、日光東照宮や上野寛永寺を創建して、江戸城に様々な「結界」を構築して、江戸幕府を霊的に守護した立役者の天界僧正は、ここを江戸幕府の祈願所に制定しました。

 

徳川家康浅草寺に帰依していたのです。

 

これだけの文化と信仰の中心地であったのには、それなりの理由があるはずです。

 

絶対秘仏の片鱗に触れたいと思いました。

わずか5、5センチの非公開の秘仏エナジーに触れたいと思います。

 

絶対秘仏の「聖観音像」のエナジーを、外に引き出したものです。

 

この画像には、絶対秘仏エナジーが繋がっています。

凄いです!ほんとうに凄いです!

 

公開しない理由がわかりました。

あまりにも恐れ多いとの反応が伝わります。

 

西行法師が、伊勢神宮参拝のときに詠んだ歌

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

 

このような心境にさせられました。

 

この画像をコピーしては、波動が落ちます。

この画像の中に、不調な方がいらしたら、投入してみてください。

 

一瞬で、体軸が整います。

初期レベルのガンの反応のある方でも、しばらく留まると「ガン靈」も消失します。試してください。

 

あまりにも凄い反応なので、ネットで調べてみました。

 

それによると―――

 

歴代住職の中には、「この目で確かめようと・・・」した方もいたようですが、扉を開けると、目の前が暗くなり、見えなかった・・・と伝わります。

 

さらに、明治になって「廃仏毀釈」で、政府の役人が強引に扉を開けようとしたところ、一人が転落して死亡。他の一人は逃げた帰った・・・と伝わります。

 

誰一人として、正確に「絶対秘仏」を目撃した者はいないようなのです。

 

年に一度開帳される秘仏は、慈覚大師が天安元年(857年)に造った「御前立ご本尊」で、絶対秘仏ではありません。参考までに―――

石橋

元和4年(1618年)設立。

 

これは、都内最古の橋です。

影向堂(ようこうどう)に入ります。

 

中に入ると、聖観音菩薩(中心)をはじめとして、9尊仏があります。

 

左から、勢至菩薩大日如来不動明王阿弥陀如来

聖観音菩薩(中心)

右へ、千手観音、虚空蔵菩薩文殊菩薩、右端の普賢菩薩は映っていません。

 

残念ながら、「生きている」像は一体もありません。

 

このお堂の正面の左側に、今回の目的となる「大黒天」像があります。

大黒天

 

説明書に

「このお像は、「浅草名所七福神」の一尊として信仰される大黒天である。

別名、「米櫃(こめびつ)大黒」とも言われる。

・・・商売繁盛や福徳の神としてお祀りされる」

このように書かれています。

 

残念ながら、この「大黒天」も「生きていません」。

これは、予想していましたが、スタートからこの反応なので、この先が思いやられる・・・・と思っていました。

 

              つづく

 

            2022年5月17日記