《 世界の覇権国家であったスペインが日本を侵略できなかった理由 》
アジアの国々は,欧米諸国に侵略によって「植民地化」され、「奴隷のように扱われ」様々な「物資などを搾取」されていました。
アジアの国で「植民地化」されなかった国は、「タイ」と「日本」だけです。
「タイ国」は、ヨーロッパ列強の緩衝地帯として生き残りましたが、純粋に他国に侵略されずに皇統を守り続けたのは「日本」だけです。
ただ、大東亜戦争(太平洋戦争)で米国に屈して、GHQの進駐軍が入り、徹底的に日本の文化を破壊して、「二度と強い日本をみたくない!」として、日本人を骨抜きにしました。
学校教育から変えられて、正しい日本の姿を知らずに多くの日本人が育っています。
戦後派の私自身もそうです。
多くの日本の根底にある文化を破壊して、多大な書籍を「焚書」(ふんしょ)にして、日本人として伝統的な文化をも変えてしまいました。
しかし、歴史を戻しますと、日本が侵略される危機に陥ったことが過去にもありました。
その一つが―――
戦国時代を統一した織田信長から豊臣秀吉となり、その天下人の秀吉が亡くなると、「将軍」の称号は空白のままでした。
そして、徳川家康率いる「東軍」と、秀吉恩顧の大名である石田三成率いる「西軍」(総大将は毛利輝元)の東西の激突を迎える「関ヶ原合戦」がありました。
このとき、東西の両陣営の外に、もう一つ「別の勢力」がありました。
この「別の勢力」は、歴史上から消されています。
教科書にも載っていません。
だから・・・・大多数の方は、そこに誰が存在していたのか、知ることはありませんでした。
その「第3の勢力」とは、スペインの宣教師の集団です。
伴天連(バテレン)と云われたキリスト教の宣教師ですが、その実態はスペイン国のスパイ達です。
その当時、スペインは世界の覇権国家であり、「太陽の沈まぬ国」と称えられた繁栄を誇っていました。
世界史のなかでルネサンスや産業革命とならび大きな転換点といわれているのが、15世紀末にはじまる大航海時代です。
1492年のアメリカ大陸発見、1498年のインド航路発見、1522年の世界一周の達成など、新しい世界が次々と開け、猛烈な勢いで世界の勢力地図が塗り替わっていきました。
その中心となったのがスペインであり、ポルトガルでした。
スペインやポルトガルの植民地化政策の第一は、宣教師を送り込んで住民を教化して、地元の支配者に反乱させて、それを機会に本隊が乗り込んで征服する手法をとっていました。
1543年(天文12年)に種子島にポルトガル人の乗った船が漂着して、鉄砲が伝来しました。
それから―――わずか30年後には、日本は世界有数の鉄砲保有国になっています。
日本人は、優れた文化を取り入れる能力が高く、元のベースをも凌駕してしまう才に長けていました。
我々は、日本人は優れた才があり、多くの文化を大陸から入っているものを通して学んできた――――このように思い込んでいます。
しかし、その実態は大きく違っています。
そこで、少し長くなりますが、本ブログ「幕末の天才・小栗上野之介」で載せた文章をもう一度示します。
以下、転載―――
話を古代の日本に向けます。
我々は、中国や朝鮮から文化を取り入れて、日本の国は発展してきた―――このようなイメージで、我々は学校で習いましたし、漢字や稲作などの文化も取り入れてきたので、日本は発展した・・・・と思ってきました。
子供のころに教わったものは、深く人の心の奥底に根付いています。
「古代の日本は、中国や朝鮮半島を経由して、大陸からの文化を取り入れ 発展してきた国だ」と言われていますが、 そうではありません。
世界的な美術史家であり、歴史学の権威の東北大学名誉教授の田中英道氏は、
「古代日本は中国や朝鮮など、 実は海外こそ、日本に憧れ、 多くの人々が渡来人としてやってきたのです」
と言っています。
どういうことなのか―――
正倉院は、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。
その御物には唐や西域、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。
また、多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。
しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。
日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が、日本人の根底にあります。
特に戦後、この見方が浸透しました。
太平洋戦争(大東亜戦争)で日本が敗れて、米国の進駐軍GHQが来て、日本が二度と立ち上がれないように、徹底的に日本の文化を叩き潰したことで、まず日本の教育を根本から変えてしまい、北朝鮮と繋がる組織、日教組の台頭を黙認していました。
そのために、日本の文化は常に西欧諸国よりも遅れていて、古代から日本は中国や朝鮮経由での文化を取り入れていた―――という教育が浸透してきたのです。
その代表例は遣隋使、遣唐使です。
607年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遺唐使の最初の派遣は630年です。日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したということになっています。
我々もそのように教育されてきましたので、そのように思い込んでいます。
しかし、事実はまったく違うのです。
たとえば小野妹子の遺隋使のときですが、
こちらから行っただけでなく、隋からも位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。
唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。
たとえば、669年には2000人あまりの人が来ています。671年にも2000人が来日、という具合です。
ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、30数回も来ています。
いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回も来ているのです。
遺隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。
では、彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。ほかでもありません。
日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。
8世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高まりました。
文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。
鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名ですが、鑑真がなぜこれほどまでに日本に執着したのか。
聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。
鑑真だけではありません。インド人、ベトナム人、ソグド人の僧侶も日本の仏教を学びにきています。
奈良時代、日本も唐もその他の諸国も文化的には対等で、相互に学びあい、物を交流させていたのです。
だから―――遺隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもとなのです。
正確には交流使というべきだと、田中英道氏は指摘しています。
日本に、これほどたくさんの人々が移ってきたというのは、日本の文化が高く評価される水準にあったことを証明しているのです。
では―――
彼らは日本の何に憧れてやってきたのでしょうか?
日本には、上古代から優れた文化・文明があり、それが「神話」ともなっているものが日本の魅力であり、そこに魅了されたといいます。
他国からみると素晴らしいものと映っていたようなのです。
では一体、なぜ日本から「神話」が消えてしまったのか。
初等科「国史」という教科書はなぜ使われなくなってしまったのか?
それは、戦後、GHQによって「焚書」されてしまったからです。
GHQが7年にわたる占領活動で、日本の数々の教科者や本を「焚書」したのは―――
〇 日本の言語空間をコントロールし、 日本をアメリカの都合のいいように扱うこと。
〇 日本の軍部だけにとどまらず、 日本全体を弱体化させること。
これを果たすために、「焚書」を行ない、日本から神話を消したのです。
「十二、十三才くらいまでに 民族の神話を学ばなかった民族は、 例外なく滅んでいる」
歴史学者であるアーノルド・トインビーはこのように語ったと言われています。
確かに、欧米諸国がアジアの大半の国を植民地化して、搾取していましたが、
この植民地政策として、現地語を話させない、支配国の言語に統一する、伝統の文化を学ばせない等々がありました。
アジアの国の中で、欧米諸国からの植民地化をされなかったのは、「日本」と「タイ」だけです。
大きな理由の一つに、言語統一がありました。全国民が、同じ言語を使っていたのです。
しかし、ただ「神話」といわれても、私たち日本人にとっては、馴染みのない少し遠い存在のものと感じると思います。
ましてや、神話を学ばないことで民族が滅ぶと言われても、多くの方はピンとこないかもしれません。
確かに、私たちの使ってきた歴史の教科書に「神話」が載っていることは99%ありませんし、そもそも学校では、神話は空想の出来事に過ぎない、非科学的な絵空事だとして教えられてきました。
そんな「神話」ですが、実は、世界では、常識として扱われているのです。
例えば、世界の人口の約33%を占めるキリスト教徒は、「聖書」に書かれた「神話」によって繋がっています。
紀元前1776年ごろ、何十万もの古代バビロニア人をまとめあげた「ハンムラビ法典」も一種の「神話」です。
北米大陸にあったイギリス植民地の人々が連帯し、アメリカ合衆国をつくりあげる際にも、「独立宣言」という「神話」が重大な役割を果たしました。
このように、世界で常識として扱われてきた「神話」ですが、戦前の日本でも、小学生以上なら誰もが知り、常識として扱われていたという過去があるのです。
では一体、日本では「神話」という常識がどのような役割を果たしたのか。
なぜアメリカが日本から「神話」を消してしまったのか。
それは―――神話に描かれる世界は、日本の皇室――天皇に繋がるからです。
日本人が、当初考えていたよりも はるかに強く、大東亜戦争(太平洋戦争)でも、アメリカでさえあれ以上に戦争を長引かせていては、国が傾く可能性があったからです。
日本人の強さの根本に、日本人一人一人が先祖を辿ると皇室の天皇に繫がるとされていたからで、どの家にも家系図の先祖は、天皇家に何らかの形で接点を持っていたからです。
そのような神話に繫がる「国史」の教育の場を奪う必要があることを、日本人の強さの根源を剝奪する必要があったからなのです。
また、江戸幕府の260年間に及ぶ古臭い政治から、明治政府から近代化されて、日本は飛躍的な発展したという認識を、明治政府がとっていたので、
現在の多くの日本人は、「江戸までの日本は古臭く、遅れていて、間違っていた」といった認識を持っています。
しかしながら―――
江戸の外交は、中世アジアで最も成功していた外交として評価されているのです。
江戸時代の日本は、外交交渉だけで拉致問題を解決し、一方的な侵略への謝罪も勝ち取っているのです。
これがペリー来航の約40年前の外交です。
ペリー来航の40年前に、ロシアは一方的に択捉島に上陸して、略奪を始めました。
江戸幕府はすぐに迎え撃つが、負けてしまいます。
そこでロシア艦隊の艦長を人質にとり、交渉します。
ロシアも島民を人質にとり、交渉が開始されます。
しかし江戸幕府は断固として突っぱねて、ついにロシアは折れて、互いに人質を渡して、ロシア艦隊は帰路に就きました。
たしかに、いくら無事に解放しているとはいえ、他国の人を人質にとることは褒められる行為ではないかもしれません。
ですが、この時の日本はウクライナのように侵攻されていたのです。
今の日本のように、北朝鮮に自国の国民が拉致されようとも、アメリカを始めとする他国に理不尽な要求を突きつけられようとも、無言を貫く姿勢とは全く違う堂々とした日本の姿がそこにはありました。
「よく、日本が植民地化されなかったのは明治の志士たちの力だと言われます。
それはそうでしょうけれど、同時に江戸幕府は堂々とした外交を行ったこと、しかも平和外交を行い、それに成功したという江戸幕府の外交力も、日本の植民地化を防いだ大きな理由の1つではないか考えております」
このような発言する評論家もいます。
しかし、なぜこのような外交がロシアとあったにもかかわらず、私たちは「弱腰な江戸幕府」のことしか教わらなかったのでしょうか?
ペリーが浦賀に来て、「日本と外交したい!1年後にまた来る」と要求してきたときに、幕府の面々は慌てます。
しかし、その難局を見事に治めたのは、江戸幕府であり、その残った記録を読み解く限り、当初は武力で脅そうとしていたペリーですが―――
幕府の役人の対応に打ち勝てず、捕鯨船などの緊急時に「助ける」、また必要な物資を調達することができる。
また、上陸する期間も制限されていて、簡単に日本に上陸して砦を造ることなどできない条項になっていました。
つまり、江戸幕府の外交は、一般に云われているほど、軟弱なものではなかったのです。
では、なぜ?
江戸幕府の外交は、軟弱なものだったと評価されているのか―――
一言で言うと、明治維新、そして欧米を一方的に礼賛する学者やメディアのせいです。
彼らは、「日本が成長できたのは、古臭い日本を捨てて、欧米の技術を取り入れたからだ」「それ以前の江戸はダメだった」と主張します。
しかし、そのような聞こえの良い主張によって、いつしか江戸史は偏ったイメージに塗り替えられてしまいました。
そして、間違った江戸のイメージはいま、大きな問題を生んでいます。
それは―――「欧米に付き従えば、何でも解決できる」という間違った幻想が生まれてしまったことです。
その結果、現在の日本は外交では、腰抜けとしか思えないような醜態を晒してきました。
転載ここまで―――
さて、イエズス会のバテレン集団は、日本に根付いていました。
やがて・・・・それは大きな勢力になり、キリスト教が九州の地域に広まると、バテレン大名が現れてきて、由々しき問題を引き起こしていました。
火薬と日本人女性の人身売買に問題は発展します。
多くの日本人女性が奴隷として売られていき、異国の地で亡くなっています。
これに気が付いた豊臣秀吉は、金を支払い、奴隷となっていた女性達を救います。
そして、「バテレン禁止令」を出します。
天草に残るキリスト教の教会や隠れキシリタンが世界文化遺産になりましたが、その裏には悲惨な過去があったことを忘れてはならないと思います。
それでも当時の世界の覇権国家であったスペインの宣教師たちは、その後も大きな勢力を持っていました。
そのような中で、天下人秀吉が亡くなり、「将軍」が空白のままで豊臣家と徳川家の天下分け目の戦い「関ケ原合戦」が起こります。
その前に、スペイン国王に「イエズス会」から書簡が届きます。
キリスト教宣教師の「イエズス会」とは、その国に乗り込んで植民地化するための集団です。
「日本人は貧しいから、簡単に我々の仲間になってくれる」
「武力で制圧するには、今が絶好の好機である」
と、スペイン国王に報告しています。
それがあって、この第3の勢力である「スペイン宣教師軍団(イエズス会)」は、関ケ原合戦を見届けていました。
1600年10月12日関ケ原の天下分け目の合戦は開始されました。
これをイエズス会のスペインのスパイ集団は見守っていましたが・・・・・
「サムライ」の戦い方は驚くべきもので、槍や鉄砲で打ち合い、それが尽きると素手で殴り倒して、小刀で相手の首をはねる―――という凄まじいものでした。
関ケ原合戦に勝った徳川家康を、スペイン国王に当てた書簡では、「エンペラー(皇帝)」と称していました。
スペインのトップでも「国王」です。
しかし、徳川家康を「国王」のさらに上の地位である「エンペラー(皇帝)」としているのです。
つまり、日本の覇権を持った者を、自分たちのトップである「国王」よりも格上の存在として扱ったのです。
ドン・ロドリゴは、
「メキシコ先住民のように野蛮人ならともかく、理論と理解の能力の高い日本人では、征服することはできない」
としていました。
日本を征服して植民地にすることなど―――到底できない!
さらに―――
「アジアでは、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地であったが、日本が本格的にアジアに進出すると、アジアの全てを植民地化してしまうかもしれない・・・・」
このような報告書を送っています。
そこで―――
家康の近くにキリシタンを置いて、その情報を抜き取ることが大切であるとしていました。
しかも、家康、二代将軍秀忠の代では無理でも、三代先なら可能性があると考えていました。
しかし家康は、側近にイギリス人の三浦按針(ウイリアム・アダムス)を置いて、世界情勢を掴んでいました。
だからスペイン宣教師(エイズス会)の企みも見抜いていました。
それで、スペインに対して
「何かしでかそうとしているようだが、そうはさせない!」
として、キリスト教の「禁教令」を出したのです。
徳川幕府の出した「禁教令」に対して、様々な「キリシタン弾圧」物語がなされ、天草四朗などの英雄伝説も生まれましたが、徳川家康の英断によって、
「禁教令」「鎖国政策」で日本はその後 独自の発展を遂げていきます。
そして―――
德川政権下の「江戸」は、その当時の世界の都市の中でも、トップレベルと云われる水準に達していたのです。
この文化的資産などの貯えがあったので、
「西欧で100年以上かかったか改革を、日本はたったの30年で成し遂げてしまった」
といっています。
つまり―――
日本国の突然の繁栄は、歴史学者で著名な分析家・アーノルド・トインビーは「世界史の奇跡である」とまで言っているのです。
それに対して、日本という国は、その当時の文明も世界水準を超えたものであり、それは当然の帰結であるとして、様々なデータを駆使して、そのことを裏付けている人もいます。
とくに江戸の文化は、世界水準でも当時から抜きん出ていた、というのです。
明治政府は―――それまでの江戸幕府の政策は非文化的なものであり、日本の発展は新政府が行った「明治維新」の政策があったからである。
つまり、江戸幕府の政策では、世界の列強とはまともに対峙できない状況であったが、我々新政府の決断と対処があったから、日本はこうして発展を遂げたのである。
明治政府は、それまでの江戸幕府の政策を否定して、すべて「明治新政府」が行なったことで、現在の日本国の発展があったのである、と主張し続けてきました。
それは違います。
日本という国が、突然世界の中に躍り出たのは、それだけの国力が背後にあったからで、「江戸時代」というのは、世界史からみても260年間も一切の争いのない「平和な時代」であったのが、世界史では「奇跡的なこと」であったのです。
しかも、その「江戸時代」の文化は、世界から比べても、群を抜いて発展する土壌があったことが解るのです。
こうして見てくると―――徳川家康は、世界史の中でも「皇帝」と評される人物であり、明治以後の世界の白人社会の列強の中で、抜きんでた存在として君臨していた、日本の基礎を築いてくれた人物だったかもしれません。
家康については、次の2つの点が挙げられます。
〇 キリスト教を禁止にした、その理由とその裏の実態が教科書には出来てこない
〇 歴史書が明治で変わり、「禁教令」と「鎖国政策」のマイナス面のみが国民に知らされた(260年の長きに渡り、一切の戦争のない時代が続いた世界史の奇跡を成し遂げている)
私の中には、子供の頃に受けた漫画などで、「徳川家康は、狡猾なタヌキ親父であった」という思いと、
德川家に反旗を翻していた「真田十勇士」に感動していた思いとが、複雑に交錯しますが、あらためて家康を「日本の偉人の一人」として再評価する思いが湧いてきています。
2024年11月13日記