生命体エナジー浄化の会ブログ

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伊勢神宮参拝の旅 6

《 伊勢神宮参拝の旅 6 》

いちべ神社―彦瀧大明神―神明神社―佐美長神社―伊雑宮―上之郷石神―

恵利原の水穴(天の岩戸)-伊勢神宮外宮―金剛證寺奥之院―金剛證寺

朝熊山山頂―伊勢神宮内宮―足神神社

 

金剛証寺奥之院―金剛證寺(その1)

 

 翌日、我々は「金剛證寺奥之院」に来ました。

クルマでは、有料道路を走って、「金剛證寺」のさらに山の上部にある金剛證寺奥之院」に到着します。

 

伊勢地方では、「人が亡くなると、その魂は朝熊山(あさまやま)に昇る」とされていました。

 

そのために、故人の葬儀が行われた後は、宗派を問わずに「奥之院」を訪れて、「卒塔婆」を建てて供養する習わしがあるといいます。

 

これを「岳参り」と呼ぶようです。

 

なぜ「岳」なのか―――

それは、朝熊山(あさまやま)の正式名称は「朝熊ヶ岳」なのです。

だから、「岳参り」と呼ぶのだと思われます。

 

 

朝熊山(あさまやま)の「山岳」は、古来から修験道の山岳の地であったようです。

その名残から、そのような名称がついたのかもしれません。

 

駐車場にクルマを停めます。

 

ここに「沙羅の木」として

祇園精舎の鐘の声 沙羅双樹の花の色(平家物語)」

とあります。

 

「この木は 「天衣菩薩様」のために、献納されたものであります」

このように書かれています。

 

これが、その「天衣菩薩様」です。

「生きている」反応はありません。

 

「極楽門」です。

 

ここに―――

「この門をくぐった者は、仏様の慈悲の請願によって、全て皆 極楽浄土へ往生せしむるという」

とあります。

 

つまり、この「極楽門」の先に供養された魂は、「極楽浄土へ行ける」ということのようです。

 

だから―――伊勢志摩地方の方々は、この金剛証寺奥之院に卒塔婆が建てられて、祀られる、ということのようです。

 

 

ここに「奥之院」の塔婆建立案内図があります。

これによると―――

 

「一番地の一、二」から「八番地」まであります。

 

ここは、最初の「一番地の一」と「一番地の二」です。

そうとうな数の「卒塔婆(塔婆)」があります。

 

先に進みます。

 

参道は、このようになっています。

 

 

ここでは、「卒塔婆」を「塔婆」と呼んでいるようです。

 

伊勢志摩地方の方々は、お亡くなりになると―――この地に「塔婆」を建てられて、その魂を供養されるといいます。

 

そうなると・・・・この先、どれだけの「塔婆」を設置することになるのか・・・・・、少し心配になりました。

 

「塔婆」が建ち並ぶ中を、進んでいきます。

 

途中に、このようなエリアがありました。

その中心には、五輪塔があります。

 

五輪塔は、別名「五輪卒塔婆」とも言われますので、ここもまた「塔婆」の一つだと思われます。

 

石碑の文字が、よく読めませんので、どういうところなのかは 定かではありません。

 

さらに「塔婆」の中を先に進みます。

 

ここにも「五輪塔」があります。

 

ここには「九鬼水軍」の長であった九鬼嘉隆を祀っているようです。

 

というのは、九鬼嘉隆の息子は、出家して金剛証寺の第12世になっているからです。

 

「九鬼水軍」は志摩に本拠がありました。

織田信長に味方して、毛利水軍と戦い、これを打ち破っています。

 

織田信長は、大阪の石山本願寺と長いこと敵対していて、なかなか石山本願寺を征服できないでいました。

 

石山本願寺は、今の大阪城のある「地」にありました。

ここを攻めるのは、容易ではありませんでした。

付近はぬかるんでいて、足場が悪く、背後は大阪湾と繋がっていました。

 

しかも、背後に「毛利水軍」がいて、石山本願寺に物資を運び込んでいたので、屈服させられなかったのです。

 

そこで織田信長は、九鬼水軍の九鬼嘉隆に命じて、かの有名な「鉄鋼船」を造らせました。

 

毛利は、村上水軍を手中にしていて、「信長包囲網」の一角を担う石山本願寺支えていたのです。

 

そこで織田信長は、自分の配下になった九鬼嘉隆に命じて、村上水軍が得意とする「火矢」の攻撃にも堪え得る鉄鋼船を造らせます(一説では6隻ともいわれています)。

 

鉄板に覆われた船は、火矢にもまったく損傷なく、600隻にも及ぶ「毛利水軍村上水軍)」を一網打尽にしています。

 

これが世にいう「木津川口の戦い」です。

この鉄鋼船に乗り込んで中を見たポルトガル人は、その装備の凄さに度肝を抜かれた―――と、記録されています。

 

ここにも何やら・・・・しかし、ここの石碑は詳しくは判りません。

 

 

塔婆の番地を超えた先に、門が見えます。

その手前に―――

延命地蔵菩薩」の像があります。

この延命地蔵菩薩像は、「生きています」。

 

 

水子地蔵尊」があります。

この像は、「生きてはいません」。

 

この背後にも多くの「地蔵菩薩像」があります。

 

ここに「地蔵菩薩の石仏群」があります。

この地蔵菩薩も、「生きてはいません」。

 

何で・・・・地蔵菩薩像が多いのか?

 

それは―――

奥之院の本堂は、「呑海院(どんかいいん)」といって、ここは「延命子安地蔵菩薩」を祀っています。

 

その延命子安地蔵菩薩は、「秘仏」です。

 

その秘仏は、20年に一度しか「御開帳」されないようで、伊勢神宮の20年に一度の「式年遷宮の翌年」となるようです。

 

屋根瓦が面白いので画像を撮りました。

 

 

中をみると、「塔婆」の供養がされている「場」のようです。

ここには―――

地蔵菩薩」様のエナジーが反応します。

 

ここに売店があります。

 

「民あおばあちゃん おみくじ」がありました。

80歳代後半の「民おばあちゃん」がいました。

 

タッキーが、その「おみくじ」を買っていました。

また、

この売店からは、見晴らしがよくて・・・・

志摩の島々と、遠く富士山まで拝めるようです。

かって、一休禅師が

「海を呑む 茶の子の餅か 不二の雪」

と、句を詠んだと伝わります。

 

我々は、売店の椅子に腰かけて、しばらくこの風景を眺めていました。

 

こうして・・・・次の目的地である本日のメインである「金剛證寺」に向かいます。

 

金剛證寺」は、朝熊山(あさまやま)にあります。

この朝熊山には、大正14年(1925年)にケーブルカーが開通していました。

 

それは―――

伊勢神宮の内宮前から、登山バスが運行していて、ケーブルカーに乗って、朝熊山へ登る人が激増したのです。

 

というのは、

 

お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ。朝熊かけねば片参り」

と云われていて、

 

伊勢神宮参拝と、その朝熊(あさま)山にある奥之院となる金剛證寺」を参拝する人が多かったからです。

 

しかし、

第二次大戦中の1944年(昭和19年)には、ケーブルカーが軍の軍需物資として徴収されてしまい、朝熊山への入山も「禁止」とされていまいます。

 

当然、一般人の朝熊山への入山も金剛證寺」の参拝もできなくなり、衰退しました。

 

大戦後も、ケーブルカーは再開されることもなく、廃線となりました。

このために、金剛證寺」も衰退の一途をたどりましたが、「伊勢志摩スカイライン」が開通して、再び復活を果たしています。

 

我々も、「伊勢志摩スカイライン」に戻り、金剛證寺」に向かいました。

「片参り」に終わらせることなく、今回の旅を有意義なものにするためです。

 

金剛證寺」に到着しました。

ここが入口です。

 

そこに―――

3776

「金剛證寺の沿革」が記されています。

 

「本時の草創は寺伝では欽明朝とし、弘法大師の中興としています。

朝熊山は 古くから霊山として あがめられています 云々」

このように書かれています。

 

中興の祖が弘法大師空海ですので、「真言宗」でしたが廃寺となり、その後、臨済宗の禅寺となっています。

 

ここの入口に、「金佛(阿弥陀佛)」があります。

故あって、ここにお祀りされています。

 

この階段を昇ると、「仁王門」があります。

ここの「金剛證寺」を護るための「結界門」です。

 

いよいよ中へと踏み込みます。

 

                  つづく

 

              2025年2月25日記