生命体エナジー浄化の会ブログ

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昭和最後の霊能者・大阿闍梨を求めて その2

《 昭和最後の霊能者・大阿闍梨を求めて その2 》

鏑射寺―越木岩神社

 

鏑射寺(かぶらいじ)その2

 

 鏑射寺のある山は、古来より「御神体山」とされています。

 

聖徳太子の生母である穴穂部間人皇女が生まれた地であるとされ、その縁で聖徳太子がこの地を気に入り、聖徳太子が建立したと伝わります。

 

ここの全てのエリアには、「今空海」と呼ばれた中村公隆大阿闍梨の影響もあってか、

空間の隅々まで 高波動のエナジーが染み渡っています。

 

本ブログでは、今までにも様々な個所で「護摩焚き」について記していますが、

確かに・・・・「護摩焚き」を行いますと、周囲の全てに高波動のエナジーが染み渡ります。

 

そのために―――通常では、「生きている反応はない」仏像であっても、「生きている」という反応に変化することを、幾度となく報告しています。

 

例えば、「根来寺」に行ったときには―――

 

本堂に入りますと、広大な伽藍の中の、全ての仏像が「生きている」との反応を示していました。

 

そのために、「根来寺の伽藍は高波動である」と思いました。

すると、その日は「護摩供養」が行われていて、大勢の人々が護摩堂に参列していました。

 

我々もそこに向かいましたが、外まで人々が溢れていて、護摩堂の中には入れませんでした。

 

その後、境内を廻り、私のどうしても行きたかった高波動の「聖天堂」も巡り、目的を果たしたので、その帰路 もう一度本堂に立ち寄りました。

 

すると―――

 

最初に「生きている」と反応していた 全ての仏像から「生きていない」の波動に変わっていました。

 

護摩焚き」の影響で、そのときにはその周辺の全ての波動が高まりましたが、それが終了すると、元の平凡な波動に戻っていたのです。

 

霊力が高い僧侶が行うと、その高波動の「霊力」が周囲の全ての物体に沈潜しますので、その周囲の波動は高まり、それが維持される―――このように思われます。

 

それで、「今空海」のいらっしゃる鏑射寺の波動は、当然高波動と想定されましたので、境内の他の建造物などを見学することにしました。

 

「神戸十三佛満願霊場 虚空蔵菩薩」とあります。

 

この階段を昇ると「三重塔」があります。

 

我々は、護摩焚き法要が行われた後で、本堂での法要と講話を聴くために、本堂に向かいました。

 

本堂には続々と人々が集まってきます。

そして―――

 

その講話は、中村大阿闍梨の息子(中村公昭現住職)が行いました。

「現在の父は・・・・」と話をしておりました。そして―――講話も終わり、全てが終了しました。

 

その後で―――

本堂の画像を撮らせて頂きました。

ひじょうに大きな「りん」があります。

 

法要の時にも、この心地の良い音が、本堂の内部に響き渡っていました。

 

祭壇の右には、「不動明王」像があります。

高波動です。

 

本尊の中心には、「大日如来像」が鎮座しています。

 

その左側は、「愛染明王(あいぜんみょうおう)」像なのか。

右は、「オン・ロケイジンバラ・キリク・ソワカ」に反応しますので、

「十一面観音菩薩」像と思われます。

 

 

この「不動明王」は、もの凄い波動を発しています。

ズーっと見ていても、見飽きない波動があります。

 

この「不動明王」像の中に入り込みますと、身体に溜まった数多くの煩悩が抜けるように思われます。

 

お試し下さい。

 

中心には「大日如来」像が鎮座してます。

 

真言密教系の最高位の「仏様」ですので、

特に鏑射寺の「本尊」ですので、かなり良好な波動です。

 

祭壇の左側から見たものです。

左手前の「愛染明王」像の波動に注目します。

 

愛染明王(あいぜんみょうおう)」とは―――

愛欲の煩悩を離れて、大欲に変化せしむ、という意味の明王です。

 

一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭には獅子の冠をかぶり、宝瓶の上に咲いたの華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしています。

 

その身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されています。

 

愛染明王信仰は「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われており、さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっています。

 

軍神としての愛染明王への信仰から、上杉謙信の後を継いだ上杉景勝の家臣・直江兼続は「愛」の文字をつけた兜で有名です。

 

直江兼続について、少しふれておきます。

 

直江兼続は、上杉謙信の後を継いだ上杉景勝の忠臣で、その主君は 豊臣秀吉によって、越後から会津120万石に加増移封されています。

 

秀吉の死後、家康が台頭してきて、上杉家を事実上 治めていた直江兼続が、家康に送った「直江状」に家康が激怒。

 

会津に攻め込んだ徳川軍と合戦となり、この時に起った石田三成の西軍と家康の東軍との関ケ原の合戦を誘発しました。

 

しかし、結果は1日で終わり、あっけなく東軍の勝利となりました。

もしも―――ということは、歴史にはありませんが、

 

関ケ原の戦いが通常のように長引くものであれば、会津の上杉軍も家康の居城である江戸を襲っていたかもしれません。

 

また、関ケ原で西軍が敗れたことが奥州に伝わると、上杉軍は最上軍と援軍に駆け付けた伊達政宗の軍との戦いを避けて撤退します。

 

この時の撤退戦の見事さは語り草となっています。

 

直江兼続の戦ぶりは、敵将である最上義光徳川家康にも称賛されていて、

旧日本軍の陸軍参謀本部の『日本戦史』にもとりあげられています。

 

さらにいえば、秀吉の軍師として数多くの武勲をあげた黒田官兵衛は、

 

秀吉自身が最も恐れたほどの「才」を示し、「わしの後を継いで天下を取るのは、黒田官兵衛しかいない・・・」とまで言わしめ、九州小倉に小さな領地を与えられ、隠居同然の状況にありましたが、

 

関ケ原合戦のときに兵を挙げて、九州の周囲を席巻しました。

もし―――関ケ原合戦が長引いていれば、

 

九州から兵を率いて、天下を支配する気持があったとも云われています。

 

もしも・・・・では、時代は語れませんが、この「愛染明王(あいぜんみょうおう)」像には、様々な時代の変遷の感じさせるものがありました。

 

外に出ますと、参拝者が列になっています。

それは、

中村公隆大阿闍梨の奥様がいて、それぞれが挨拶をしていました。

(中央男性の肩口に写る女性が奥様です)

 

本堂の正面です。

その左側には、「さざれ石」も置かれていました。

 

次に、我々は「大師堂」に向かいました。

「大師堂」のある庭園には、綺麗な池があります。

ここに多数の錦鯉がいました。

 

この庭園の池は、よく整備されています。

 

我々が近づきますと、口をパクパク開けた鯉が群がってきます。

 

「大師堂」の入口です。

「弘法」とありますが、「弘法大師-お大師様」のことです。

 

中に入りますと、正面に弘法大師の大きな座像があります。

かなりの高波動です。

 

高野山の奥之院に行きますと、お大師様のエナジーを感知することができますが、

ここの「大師堂」でも、お大師様のエナジーを感知することができます。

 

この像は何なのか。

毘沙門天(ナン・ベイシロバドヤ・ソワカ)で反応します。

 

この厨子は、とてつもなく高い波動を放っています。

 

この右側には、小さな仏像が多数並んでします。

それほど高い波動ではありません。

 

これが厨子の中に納まっている「お大師様」の仏像です。

「黒い弘法大師」様は、かなり厳しい反応を示します。

 

体軸の崩れた性根よろしからぬ輩(やから)には、決して許さないほどの厳しさを持ちます。

しかし、

清く正しく生きている方には、高い温情を示してくれるように反応します。

 

つまり―――

この「黒お大師」様の前に立たせると、その人がどういう人なのかを、一発で反応を示します。

 

因みに、高市総理には高い反応を示しますが、平然として他国(アフリカ人など)の異教徒などを国内に入れようとした(移民) 石破元総理、岸田元総理などは、体軸が歪みます。

 

高い波動の仏像が多数並んでいます。

圧巻です。

 

「三重塔」に向かいます。

階段の上にあります。

 

この中には、「虚空蔵菩薩」像が祀られています。

この像は―――「生きています」。

 

しかし、なぜか強い波動は感じませんでした。

 

「三重塔」の第一層(1階)です。

こじんまりとした造りです。

 

 

次に、我々は最上部のエリアに向かって、赤鳥居の階段を昇って行きました。

 

この赤鳥居の階段は、長く続きます。

京都の伏見稲荷ほどではありませんが、私は伏見稲荷を思い出していました。

 

ようやく山頂近くに来ましたら、参拝を終えた方とすれ違いました。

この方は、かなり体軸がしっかりと整っていました。

 

参拝することの効力が、身体に体現されていました。

 

ここの山頂には、小さな祠があります。

恐らく・・・・これが鏑射山の頂上にあるという「鏑射大権現社」です。

 

もの凄い高波動を放っていました。

 

我々は、いつものように―――

 

この祠に反応する「鏑射大権現」のエナジーを吸引するために、

持参のブレスレットを置いて、高波動エナジーを吸引しました。

 

これで、全ての目的は達成されました。

ただ、残念であったのは、伝説の大阿闍梨の生前のお姿を目にすることはできなかったことでした。

 

我々が鏑射寺を訪れた20日後に、中村公隆大阿闍梨は この世を去りました。

ご冥福をお祈りいたします。

 

                 つづく

 

           2025年12月9日記