≪ 未来エステを考える 19 ≫
身体を再生する「ソマチッド」に迫る――その9
千島学説を続けます。
第7原理 進化の基盤は共存共栄。進化論の盲点・・・弱肉強食思想は行き過ぎ
千島博士は、進化のもっとも大きな力は「自然界は共生でなりたっていることだ」と指摘しています。
人間は単独では生きられません。
一人で山ごもりしたとしても、衣服や塩ひとつとっても、個人で全て無から有を産み出すことはできないのです。
衣服も誰かが作っており、塩も他の人が精製しており、それを頂いています。また、他の動植物から食糧として摂取しています。
人間社会は、つまるところ、お互いに助け合って生きているのです。
これと同じで、生物の進化も、種の違う生物との助け合い、総合扶助で成り立っています。
生物界を見渡しても、まったくほかの種の助けなしで生きている生物はいないのです。
ダーウィンの進化論は、弱肉強食を根拠にしていますが、今ではこの説に異を唱える学者は少なくありません。
ダーウィンの進化論は、弱肉強食を根拠にしていますが、今ではこの説に異を唱える学者は少なくありません。
腹を満たした猛獣は、必要以上の殺戮は行わないし、弱者もそれを知っているかの如く お互いに共存しています。
また、「サルから人間は進化した」とされる考え方にも、今では多くの反論があります。
化学的には親和力、物理的には同性電化をもつ分子の同性反発、異性索引の法則にしたがうものから、細胞のように同性、異性の区別なく、ただただ集合しようとする衝動にかられるものをも含め、すべての物質は精神をもっているといいます。
化学的には親和力、物理的には同性電化をもつ分子の同性反発、異性索引の法則にしたがうものから、細胞のように同性、異性の区別なく、ただただ集合しようとする衝動にかられるものをも含め、すべての物質は精神をもっているといいます。
もちろん、陰と陽の電気的単純なものから、高度に進化した人間の精神的エネルギーに至るまで、その程度は異なっています、根本には共生があるのです。
そしてこれは「親和力、または愛」という力によるものとなるのです。
ところで、フィルヒョウが細胞理論を発表してまもなく、メンデルとモルガンが遺伝理論を発表しました。
ところで、フィルヒョウが細胞理論を発表してまもなく、メンデルとモルガンが遺伝理論を発表しました。
メンデルの遺伝の法則は有名なので、誰もが知っています。
「細胞核に染色体があり、その染色体のなかに遺伝子があって、それによって遺伝の基本的なパターンがあらかじめ決定されている」
というものです。
というものです。
この考え方は当然、一つの細胞がまったく同じ二つの細胞に分裂し、それを繰り返すことで細胞は増殖する、その遺伝を決定づけるのが遺伝子であるから、元の遺伝子が変わらないかぎり、変わった形質が途中から発生することはないという結論になるのです。
これが現在の医学・生物学の定説になっており、この固定観念が医療や治療現場での矛盾をはらんでいます。
ガンやリューマチなどの難病は、本質的に遺伝子があり、この遺伝子が発現してしまうことで発病する。
つまり、遺伝だから「どうしようもない」、「治らない」という考えが医学の常識になっています。
この固定観念が医学理論の根底にあるのです。
だが、生命の源は細胞そのものにあるのではなく、細胞を新生させる血液、ホルモンや酵素、神経伝達化学物質など、細胞よりはるかに微小な超ミクロ物質のなかに存在し、それらがたえず変化と流動を繰り返しながら、細胞を維持していると考えると、まったくアプローチが異なってくることになります。
親とはまったく異なる形質を受け継ぐ子供が生まれたり、同じ人間でも一代でさまざまな形質を持つケースが多発します。
だが、現在の遺伝学・医学は、そういった異なる形質が出現するたびに、ド・ヴリースの『突然変異説』を持ち出してきて、因果関係を明らかにしない(できない)ことで、対処してしてきたのです。
□ 生物と無生物を区別する必要はない。自然は連続している。
□ 生物と無生物を区別する必要はない。自然は連続している。
人間のからだは外界とははっきり区別できると考えるのが普通です。
しかし外気は鼻の穴から気管を通して、肺の膜でガス交換を行っています。
そこで酸素と二酸化炭素が出入りし、この壁が外部と内部の境界となって人間は自然とつながっています。
消化器においても、口と肛門を通して外界に開いています。
人間は穴のあいた竹輪のようなもので、消化器の内側は外部環境であるといえるのです。
その消化器のなかにつまっている食物は、腸の膜を通じて内部環境である血液とつながっています。
その食物が消化されたもの(食物モレラ)は、腸と絨毛とのはっきりした境をもたず、連続して移行しています。
この発見が“腸管造血説”となったのです。
このように すべては連続しています。
生物と無生物も連続している。生物と無生物との区分は、人間が勝手に決めたものにすぎないのです。
現代生物学の定義からすれば、細菌やアメーバはどうにか生物の仲間にはいるが、ウイルスやリケッチア(発疹チフスやつつがむしの病の病原体)などは生物とはいえないことになります。
それらは、生物と無生物の限界領域にあるものともいえます。
人間が勝手に区分したために、居所を無くしてしまったのです。
本来、自然界は区切りなく連続してつながっているのです。
自然界にはなにひとつ、孤立し、他とつながりをもたないものはないのです。
生物の起源は、無機物が有機物になる時点で、そこから発展して生物に進化するのです。
ダ-ウインの『進化論』を否定する千島博士は、無生物が生物になる可能性を説いたのです。
第8原理 生命弁証法・・・生命現象を正しく観察するための科学方法論
細胞は、気圧、温度、光、湿度などによる異常な刺激や、飢餓や断食による栄養分の極端な不足など、体内における環境条件が激変したり、細胞だけを人体から切り離し、そこに強い光線を照射して顕微鏡下で観察するといった不自然な状況におかれると、それこそ不自然な、平常時にはありえない現象を示すことがあります。
例えば、生命体が危機に瀕すると、自然と自己保存の原理が働いて、一時的に細胞分裂が起こることが確認されています。
しかし、これは異常事態における、いわば生命存続に関わる状況下で示される現象とでもいうべきもので、本来の細胞形成(増殖)の姿ではないのです。
千島学説は、このような点を十分に理解したうえで、全て綿密な観察結果から得られており、実際の観察データから革新的な結論(学説)を打ち出していったのです。
千島博士は、「生命の形態はアシンメトリ-(非対称性)である」と言いました。
千島博士は、「生命の形態はアシンメトリ-(非対称性)である」と言いました。
生命力とは動きであり、動きがあることは、すなわちアシンメトリ-(非対称性)となることを指摘したのです。
が、その後―――
千島博士の理論が、原子レベルで証明されたことになります。
自然界における左と右は対称的にみえて、実はすべて非対称性であります。
人間のからだの内部、外部をみても近似的な意味での左右相称で、あきらかに形も機能も非対称性であるのです。
顔にしても、必ず左右に少しづつゆがみのあることを知っています。
原子という極微の世界から、地球、天体、宇宙空間といった極大の世界に至るまで、自然はわずかに非対称性であることが分かってきたのです。
千島博士は
「真の美は少し不相称を含んだ相称である。不調和の調和である。完全なる調和は死に通ずる。動きがないからである」
「人間は直線を好むが、自然は曲線を好む」と言っています。
そして、「生命現象は波動と螺旋運動としてとらえるべきである」という結論に至っています。
自然や生命の現象は、決して直線的に進むのではなく、寄せては返す波のように、月が満ちては欠け、昼と夜が繰り返すように必ず波動をもっています。
その繰り返しは同じ円上をまわるのではなく、螺旋を描きひろがっていく、というのです。
もう少し千島博士の考え方を、考察すると――
もう少し千島博士の考え方を、考察すると――
□ 細胞が分裂する映像を、我われは幾度も目にしてきたが、それについてはどのように千島博士は捉えていたのか?
⇒ 細胞の研究では、生きた身体のなかの自然な状態で観察する必要がある。実際の研究では、組織から切り出した標本、つまり死んだ細胞で行なわれている。
たとえ細胞を培養器で培養し、温度も一定に保ち、できるだけ自然に近い環境をつくりだしたとしても、この操作そのものが、もうすでに全体とのつながりを切るという不自然をおかしており、細胞の真の姿や働きに対しても その時点で悪影響を与えていることになる。
さらに、光学顕微鏡や電子顕微鏡で、不自然な強い光線や電子を当てて観察するので、細胞は光や電気にはきわめて鋭敏な反応を示してしまう。
その反応は自然の状態では決して起こさない反応となる。つまり、自然状態を乱さないで、細胞の微視的な世界を観察することはできないことになる。
このように言うのです。
このことは、生きた細胞が分裂していく様子を、位相顕微鏡で映像化しても、それは反自然的な条件化においてのものです。
自然な状態でも分裂を起こすかというと そうではないのです。
細胞が分裂する事実を否定しているのではなくて、リンゲル氏液を使い、強い光線をあたえたなかで分裂が進んだからといって、生体内の自然な状態でも、細胞分裂によって増殖すると考えるのは、間違いであるといっているのです。
この第8原理生命弁証法は 容量の関係で 次回に続けます。
2014年7月10日記