生命体エナジー浄化の会ブログ

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写真分析から裏の歴史を考える 6 フルベッキ写真を分析する その4

≪ 写真分析から裏の歴史を考える 6≫
フルベッキ写真を分析する  その4
前回の続きです。
 
西郷は 島津久光とは相いれませんでしたが、久光によって2度も流罪になっています。
 
そのいきさつに触れておきます。
 
ハリスが下田に着任し、黒船の対応に全力を傾注した老中阿部正弘は、あっけなく39歳で病没しました。
 
彦根藩井伊直弼大老になって、日米修好通商条約を、勅許を待たずに強引に締結してしまったときに、西郷は斉彬の極秘の使命をもって江戸詰めを命じられた矢先でした。

黒船の脅しよる不平等な日米修好通商条約の締結など、このままでは日本の危機であると認識していた主君の斉彬と 腹心の部下の西郷は、何を相談していたのか。
 
二人して、朝廷と薩摩藩を組みつなげて、幕政改革を一挙になしとげようと計画していたというのです。
 
西郷はそのための協力要請を、ひそかに松平春獄(越前)、山内容堂(土佐)、伊達宗城宇和島)らに託すため、密書を携えていました。

ところが、井伊大老の打つ手のほうが早かったのです。
 
アメリカとの開国にいちゃもんをつける松平春獄尾張慶勝・水戸(徳川)斉昭をただちに謹慎蟄居させ、斉彬らが次期将軍に画策推挙する一橋慶喜の登城を禁止してしまったのです。
 
おまけに天皇を 井伊大老彦根に移し、京都に藩兵を差し向けようとしているらしいのです。

西郷のほうは、かくなるうえは一刻も早く斉彬の上京出兵を促すしかないと踏み切ったのです。
 
そこで、その旨を薩摩に戻って報告し、自身は先兵隊の頭目として再び上京して、相国寺薩摩藩兵の拠点としたのです。
 
ところが、その直後のこと、斉彬急死の訃報が届いたのです。

計画のすべてが崩れ去ったのです。
師とも親とも敬愛する斉彬の死は、西郷を痛哭断腸に追いこんだのです。

呆然として殉死を心にした西郷でしたが、朝廷側を仕切っていた近衛忠煕(ただひろ)や近衛家の顧問格の清水寺塔頭住職の月照らに、
 
「むしろあなたこそが主君の志を継ぐべきだ」と何度も諌められ、なんとか殉死は踏みとどまったのです。

近衛や月照が言うには、斉彬侯が亡くなったいまや、水戸の斉昭の押し込めを解いて 江戸城に迎える以外はない(斉昭を第二の斉彬に仕立てる以外はない)。
 
それには朝廷の御沙汰を仰いで、斉昭の幕政復帰を推進するしかないだろう---
そう、言うのです。

たしかにすでに梅田雲浜(うんぴん)、頼(らい)三樹三郎(頼山陽の三男)、梁川星巌(やながわせいがん)らの急進的な勤皇派が、秘密裏に動き出していました。
 
吉田松陰も 壮絶なテロ計画を練っていたといわれています。
 
西郷も悲嘆をはねのけ、意を決して事態の刷新に取り組もうとするのですが、周囲の盛り上がりのほどには 心が及ばない状態であったようです。
 
そこへまたもや井伊大老の電光石火の鉄槌が、あたかも大鉈のように下っていきました。安政の大獄が始まったのです。

梅田や頼を捕縛した司直の手は執拗で、西郷にも伸びていきます。
逆上した西郷は、いっそ井伊大老彦根に攻めて戦死するかと思うのですが、事態は前後左右が雁字搦めになっていて、なんらの動きも取れない状態でした。
 
やむなく平野国臣を伴って、月照とともに身を隠しつつ、ひとまず薩摩に帰ろうとします。逃避行です。
 
月照を下関の豪商・白石正一郎の屋敷に身をひそめさせ、西郷は一人で薩摩に戻って月照の庇護を申し出たのです。

しかし薩摩の地は名君斉彬を失って、実権は島津久光の手に移っていました。
 
久光は悪女の名をほしいままにしたお由良が生んだ子で、そのお由良派が 長らく主君の座を虎視眈々と狙っていた人物でした。
 
お由良が 呪詛調伏をしてまでも斉彬を亡きものにしようとしていたのは、有名な話です。むろん西郷は そういう久光を心底嫌っていたのです。

一方、久光のほうは、面と向かって先代藩主お気に入りの西郷を排除できないものの、月照などという坊主は関係がない。とうてい薩摩には入れられないとして、西郷に月照の放逐を厳命したのです。

これで西郷は参ってしまい、心底窮したのです。
すでに月照は下関から薩摩に向かっています。
 
こうなれば月照もろとも死ぬしかないと覚悟して、夜陰の錦江湾に数人で舟を出すと、二人は乗合の者が寝静まるのを待って、ひしと抱き合い入水したのです。
 
このとき月照は絶命し、西郷は間一髪で船頭らに助けられた。戻ってみると税所篤、大久保一蔵(利通)らが西郷を助けたのです。
 
以来、西郷は月照との共死(ともじに)を遂げられなかったことを、ずっと悔いつづけていたといいます。
 
西郷を語るにあたっては、この「未遂の死」のことを、放置してはおけないのです。
 
● 月照と入水して 自分だけが助かって死ねなかったことを、生涯悔いていたと言われますが、どうなのですか?
 
⇒ 西郷の画像からは 「そうである」と反応します。
 「自分だけが生き延びたことを、生涯悔いていた」と いうのです。
 
勤皇僧:月照のいた清水寺に 西郷の詩碑があります。
月照を思う西郷の悔恨がうたわれています。
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 相(あい)約して淵に投じて 後先なし
 豈に図らんや 波上再生の縁
 頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 十有余年の夢
 空しく幽明を隔てて 墓前に哭(こく)す


その後―――西郷の最初の島流しになります。

薩摩藩は、西郷を奄美大島に流したのです。
これは幕府の目から逃れるためでもありました。

奄美大島での流人西郷の日々は、実に3年におよんだのです。
そのあいだ、アイカナ(愛加那)という娘を島妻とし、彼女は菊次郎を産んでいます。
 
西郷は約800冊の書籍を日がな読破し、島の子には手習いをさせたといい、少年期より朱子の『近思録』や王陽明の『伝習録』を読み耽り、「天命」を知識にもっていた西郷でしたので、「朱子学」や 王陽明の「陽明学」の学問に磨きをかけていたようです。
 
 
西郷隆盛の 人望を伝える逸話は多くあります。
 
薩摩藩ではない 他藩の人物に、中津藩士増田栄太郎がいます。
西南戦争末期、延岡に追い詰められた薩摩軍は、絶望的な戦況の中で開いた軍議で、
 
「政府軍の囲み突破して、尾根伝いに鹿児島に戻り、城に籠って西郷隆盛と共に 全員討ち死にしよう」という結論に達したのです。
 
中津藩の義勇隊を率いて西郷軍に従ってきた松田栄太郎は、自分の隊に戻ると、全員を集めて、万策ことごとく尽きたことを告げて、次のように言い渡しました。
 
「隊は解散しよう。薩摩人でもない我われが、薩摩まで行って死ぬことはない。諸君は それぞれ血路を開くなり、名乗り出て 刑に服するなりしてほしい」
 
これに対して 「隊長は、どうするのか?」と問われた増田は
「自分はだけは西郷と行動を共にする」と答えて、その理由を次のように語ったと伝えられています。
 
「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。
一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日の愛生ず。
親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」
 
自分は隊長であっために、西郷に会う機会が何度かあった。会ってしまうと、あの人から離れることはできない―――増田は そう言ったのです。
 
そして、増田は西郷と共に城山に籠り、壮烈な戦死を遂げています。
 
この今に残る増田の有名な言葉が、どのような経緯で伝わったのかは 諸説あるようですが、数回会っただけで 西郷に殉じて 死を決意させるに値させる人物とは、どれほどのものであったのか。
 
もうひとつのエピソードも紹介しておきます。
 
西郷が征韓論に敗れて鹿児島に帰り、ほとんど隠遁者のような生活を送っていた頃のことです。
 
一人の若者が、西郷を訪ねてきました。
御家人の息子で、幕末の頃から西郷の名声を聞き、なんとか一目会いたい願っていましたが、当時の情勢では それは叶いませんでした。
 
時代が変わり、意を決し 危険を冒してやってきたのです。
 
西郷は在宅しており 座敷に通されましたが、西郷とおぼしき人物が、夫人の指図で垣根の修理をしておりました。
 
小半時ほど待たされると、衣服を整えた西郷が「お待たせ申した」と、若者の前にその巨体を据えました。
 
当時、西郷は与えられた給与は全く家に入れず、家庭のことは放棄同然でした。
だが、夫人に文句を言われると恐縮して、家の修理にいそしんでいたようです。
 
この若者は この時の感想をただ一言「大南州翁にしてかくあるか」と、日記に残しています。
 
その後 西南戦争で西郷が自刃したと聞くと、ようやく得た県庁の職を辞して、夫人と共に 富士山麓の僻村に移り住み、その後の生涯を ただ西郷の冥福を祈ることだけで過ごした・・・・といいます。
 
たった一度しか会っていない若者の心を動かし、その生涯をも左右してしまう強烈なカリスマ性をもった 西郷の自筆が遺されています。
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この「書」は、『書経』のなかの言葉です。実に良好なエナジーがにじみ出ています。この「書」の中に入り込みますと、西郷隆盛という人物の「愛」に包まれます。
 
様々なメンタル・ストレスを抱えて、身体が歪んでいる人を、この「書の中」に没入させますと、身体の体軸が整って 正常化します。