《 御神島紀行 その2 》
雄島―平泉寺白山神社―岡太神社・大瀧神社―御神島―常神社
平泉寺白山神社
「平泉寺白山神社へいせんじはくさんじんじゃ)」は、福井県の勝山市平泉寺町に鎮座しています。
白山は、泰澄により717年に開山されましたが、天台宗の比叡山延暦寺系の寺でした。
明治時代になって、神仏分離までは仏教寺院の「霊応山平泉寺」でした。
その後は、白山神社として「平泉寺白山神社」となって今日に至ります。
しかしながら―――平泉寺の歴史には、数多くのドラマがありました。
泰澄によって「白山」が開山されて、平安時代以降は比叡山延暦寺の勢力下に入り、「白山信仰」の越前側の「禅定道」の拠点として、山伏、僧兵が数多く集まりました。
その後、源平合戦のときには、『平家物語』によると、木曽義仲と平家の争いの時に平泉寺は平家側についたことが書かれています(僧兵の集団がいたことになります)。
そして、木曽義仲が勝つと、平泉寺の僧兵たちを抑えた木曽義仲は、平泉寺に寄進しています。
鎌倉時代に、源頼朝に追われた源義経主従は、奥州藤原氏のもとへ落ち延びる途中で、平泉寺に立ち寄ったという伝説も残ります。
その後、南北朝時代になると、平泉寺は南朝の後醍醐天皇に味方して、越前は
南朝の有力な地域となっていました。が―――
それで、南朝軍と合戦となり、そのとき南朝の新田義貞は戦死しています。
室町時代になると、最盛期には全山石垣が積まれて要害となり、東西1.2キロ、南北1キロの中に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成していました。
特に、泰澄が住していたゆかりの地であり、清僧が住する北谷と違い、妻帯僧が住する南谷は、直線的な石畳道路を始めとして計画的に開発された区画で構成されていました。
また、寺だけではなく街並みがあった証拠として徳市、安ヶ市、鬼ヶ市という地名が残っています。
戦国時代になると、長年に渡って加賀の「白山比咩神社」と白山山頂の管理権や入山料の徴収などの利権を巡って争いになっていました。これは江戸時代まで続きます。
戦国時代では、越前の国主である朝倉氏と肩を並べるほどの一大勢力となっていました。
有力な坊舎が軒を連ねていて、僧兵の出自も朝倉氏の家臣団一族から入室していることもあり、朝倉氏とは極めて近しい関係であったといいます。
その後、朝倉義景が北近江の大名浅井長政と手を組み、織田信長を裏切って、浅井長政によってあわや討ち死にの危機に陥ります。
後日、恨み骨髄の織田信長に攻めれれて降伏しています(信長の支配下に入ります)。
また、天正2年(1574年)には、小田信長に味方をしていたことから、「一向一揆」のために放火されて、全山が灰塵に帰したといいます。
こうした経緯があり、豊臣秀吉の崇敬を受けるようになり、復興しました。
江戸時代になると、福井藩、越前勝山藩から寄進を受け、規模は6坊2か寺、寺領は330石であったといいます。
寛保3年(1743年)、いさかいが絶えなかった平泉寺と加賀の白山比咩神社の利権争いがようやく江戸幕府によって―――
御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は白山比咩神社が管理すると決められ、平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得しました。
明治時代に入ると、神仏分離令により、寺号を捨て神社として生きていくこととなり]、寺院関係の建物は解体されたといいます。
しかし、明治5年、江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道が白山比咩神社の所有となりました。
このように「平泉寺・白山神社」の歴史には、数々のドラマが秘められいます。
「白山神社」とある参道に入ります。
入口に「白山平泉寺散策マップ」があります。
その中に、「東尋坊」についての名前の由来がありました。
「東尋坊という白山平泉寺の僧であった東尋坊という乱暴者がいて、
彼を憎む僧たちが宴を催し、酒に酔わせて崖から突き落としたことから「東尋坊」となった」との伝説が示されています。
参道には、何とも言えない高い波動が漂っています。
歴史を振り返れば、ここで数々の歴史ドラマが展開されていたことになりますが、
現在では、ひっそりとして、静逸な雰囲気が残ります。
ここにも案内看板があります。
この中に―――
白山を開山した泰澄大師は、白山登拝の途中で、ここの「御手洗池」で白山の神の宣託を受けて、ここが聖地であることを知り、社を建てて白山の神を奉斎されたのに始まる―――とあります。
杉並木の参道が延々と続きます。
気持ちのいい参道です。
手水舎の龍神から流れ落ちる「水」は、良好な波動です。
この「平泉寺白山神社」の波動の高さを物語ります。
「八幡神社」です。
それほどの波動ではありません。
池から流れ込むところです。
特に拝むような波動ではありません。
泰澄大師お手植えの御神木です。
いまから1200年以上前のものです。
ここが「御手洗池(みたらしいけ)」です。
池中にある「影向岩(ようごういわ)」に、「白山大神出現」とあります。
ここが「平泉寺白山神社」の創建に関わる「地」となります。
この池には「鳥居」があります。
「御手洗池(みたらしいけ)」の案内看板です。
この中に、「神泉は今もって絶えることなく湧き出ている」とあります。
これは「二之鳥居」です。
いい感じの雰囲気があります。
「末摂社」の一つです。
高波動です。
この修験道系のエナジーを、ブレスレットを置いて吸引しました。
境内は、「苔」に覆われています。
「白山神社の苔の規模・質に比べれば、京都の「苔寺」は笑止!」
と、ここ「平泉寺・白山神社」を絶賛しています。
末摂社の「貴船神社」です。
これも末摂社の一つです。
ここに―――
平泉寺・白山神社の「由緒」があり、ここには
「当鎮守宮は 明治初年神仏分離の政令発布までは、平泉寺四十八社の一社で
字中谷二十二番地にあった御宮である・・・天正二年一向一揆で廃塵に帰したが・・・・」
とあります。
赤鳥居の先にも「末摂社」があります。
とにかく、ここには多くの「末摂社」があります。
参道の奥には、「拝殿」が見えてきました。
これが「拝殿」です。
江戸末期に造営されたもので、その当時はかなり巨大な建造物(大拝殿)であったようです。
「四十五間左右の礎石がそれを示す」とあります。
「中宮 平泉寺」の扁額があります。
階段を昇ると、「御本社」があります。
「御本社」です。
補修されていますが、見事な彫刻が浮いています。
ここに―――
「御本社」は、寛政七年(1795年)の造営です。
御祭神は 「伊弉冊尊(いざなみのみこと)」です。
現在の社殿は、越前藩主松平重富公による再建です。
総檜の入母屋造りで、「昇り龍」「降り龍」の丸彫り、壁面の浮彫など素晴らしい彫刻が刻まれています。
この「御本社」を中心に、左右に「別山社」「越南知社」を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからです。
現在はありませんが、中世から近世にかけては五社が整然と建ち並んでいたといいます。
このような案内文があります。
「御本社」の「浮彫」は圧巻です。
これは御本社の右側にある「越南知社」です。
白山山頂の三山の一つを、ここで御祭りしています。
「大己貴尊(大国主命)」を祀ります。
見事な「苔」の床床が広がります。
司馬遼太郎が、
「京都の苔寺など、笑止!」
としたことが、判るような気がします。
これは御本社の左側にある「別山社」です。
御祭神は、「天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)」です。
波動の高い参道を進みます。
スギ林の参道を進みます。
全員の波動は、整っていて、かなり良好な状態になっています。
「平泉寺白山神社」の波動と調和していますので、その高さが解ります。
「楠木正成公墓塔」です。
南北朝時代には、最初に「南朝」についたので、南朝の忠臣である「楠木正成の墓」があることは理解できます。
しかし、その後裏切って、北朝に味方した歴史がありました。
なぜ、この地に「楠木正成」の墓」なのかーーー
ここに「三之宮 明治22年の改築」があります。
「楠木正成公墓塔 延元年間(約650年前)建立」とあり、
その中に―――
「後醍醐天皇の建武の中興における忠臣大楠公(楠木正成)の甥が、この平泉寺の衆徒であり、ある時 大楠公が騎馬姿で夢に出てきて、湊川の合戦で討ち死にしたことを知ります。
それで五重の石塔を建てて菩提を弔った」
このようなことが書かれています。
奥まったところに「三ノ宮」があります。
ここには「三ノ宮 安産の神」とあります。
栲幡千々比賣尊(たくはたちぢひめのみこと)が祀られています。
それほどの波動ではありません。
「開山社 御開祖泰澄大師を祀る」とあります。
ここに、わずかですが「泰澄大師のエナジー」を感知することができます。
白山を開山した泰澄大師によって、修験者が白山に登拝するようになりましたが、
その後、庶民も白山登拝するようになります。
白山登拝には、越前、加賀、美濃の三国から山頂を目指す三本のルートがあります。
その越前からのルートの起点が、白山平泉寺です。
その最も奥まったところである「三ノ宮」から、白山への登拝道である「越前禅定道」が始まります。
その「越前禅定道」は、「歴史の道100選」にも選ばれています。
ここは・・・何なのか・・・よく判りません・・・・。
「苔寺」の異名を持つのが、よく判ります。
帰路、参道を振り返り、「平泉寺白山神社」に深々と頭を下げて、
「我々をここに導いてくれた」ことに、全員で感謝の思いを捧げました。
つづく
2024年4月23日記