≪ 写真分析から裏の歴史を考える 5≫
フルベッキ写真を分析する その3
少なくとも、上野の西郷像は、落成式に出席した奥方が―――
「こげなお人じゃなかったこてえ。」
「浴衣を着て散歩なんかしていなか!」
この写真の人物が「西郷隆盛」と想定されます。
写真の分析をしました。結果、本物と私は判断できました。
客観性を持たせるために、第三者に私の指を写真上に当ててもらいながら、私はどこに当たっているか解らないようにして、それぞれをチェックしていったのですが、やはり同様の反応が出ました。
当時の武士階級の不満のはけ口として、韓国を視野に入れた政策を実行すか否かの論争で、この国の整備が急務であるとの 大久保らとの意見が食い違って、野に下ったとされています。
これについては 何かの書物で勝海舟が
と述べています。
勝海舟は「氷川清話」の中で 西郷の赤心に打たれて実行したことが述べられています。
江戸城明け渡しの時に、新政府側の面々は敵の本丸に入っていくのですから、緊張のあまり 下足を履いたままで中に入っていた人物がいたことが知られています。
勝海舟は「氷川清話」の中で 坂本龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、勝海舟に次のように語っていたことを述べています。
「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木(しゅもく)が小さかったのが残念でした」
西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を「撞木(しゅもく)」に例えているところが、いかにも幕末の風雲児である坂本龍馬の言葉らしいのです。
「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木(しゅもく)が小さかったのが残念でした」
西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を「撞木(しゅもく)」に例えているところが、いかにも幕末の風雲児である坂本龍馬の言葉らしいのです。
この龍馬の西郷評を聞いた勝は、
「評される人も評される人。評する人も評する人」
と語ったと伝えられています。
西郷隆盛については、様々な伝が伝わっています。
勝海舟は「今までに天下で恐ろしいもの二人見た」と述べています。
それは―――西郷南州(隆盛)と横井小楠です。
勝海舟は
「(自分が)西郷に及ぶことができぬのは、その大見識と大誠意にある。おれのひと言を信じて、たった一人で江戸城に乗り込む。
おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをしてあい欺くことができなかった・・・・」
と、述べています。
西郷ほど 人々の人望を集め信頼を博した人物は、いないと思われます。傑出しています。古今東西でも見出し得ないかもしれません。
中江兆民が 維新後のていたらくに接して
「西郷さえいれば、日本はこんなふうにはならなかったろう」と嘆じ、
「それが西郷隆盛だ」と 答えた―――といいます。
内村鑑三が『代表的日本人』の5人の筆頭に 西郷を挙げています。
「日本の維新革命は西郷の革命であった」と言い、次のように書いています。
「内政については木戸や大久保の方が精通しており、革命後の国家の安定を図るには三条や岩倉の方が有能でした。
しかし必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、天の全能の法にもとづき運動の方向を定める、西郷隆盛の精神であったのです」
西郷隆盛とは、どういった人物であったのか―――
斉彬は幕末きっても名君といわれ,開明派の、合理的思想の持ち主でした。
この名君に仕えて 西郷の世界観、国家観、革命思想は培われていったと謂われています。
ですが斉彬は在位わずか8年で急死します。
後を継いだのは 斉彬の異母弟・久光の子・忠義で、久光が後見役として、実質的な藩主についたのです
斉彬の死は毒殺で、その黒幕は「久光である」との噂があり、西郷はその噂を信じていたことから、西郷は久光に疎んじられて、二度も流罪になったのです。
西郷にとっては不遇の時代が続きましたが、西郷の人望を久光も無視できなくなり、藩全体を動かす力を持つに至ります。
とはいっても 正式に藩を代表する地位や役職は与えられていませんでした。
人望故に 薩摩藩士のほとんどが従ったのです。
新政府が樹立された時、それが自分の意志とは異なるものであることを知った久光は、激怒して生涯西郷を許さなかった、といわれています。
西郷もまた久光を憎んでおりなががらも、そのことを終生気にしていたと謂われています。
西郷の写真からこのあたりの事情をチェックしてみました。
⇒ 久光が毒殺した犯人だと思っている。
その結果、斉彬は急死したのは「毒殺された」との噂があったのです。
これを 西郷隆盛は 「そのように信じている」と、語っているのです。
これについては⇒ 天が与えてくれた使命であると思っていた、と語っています。
● 新政府が樹立されて 久光は意に反した立場となって、西郷達を終生許さなかったということですが、これについては気に病んでいましたか?
これについては⇒ まったく気にしていなかった。
久光は 維新後は左大臣になって、最高の栄誉を贈られていますが、政府の中枢からは外されています。
容量を超えましたので 次回に続きます。
2014年8月30日記