≪ 日本のパワースポット 比叡山延暦寺 3 ≫
延暦7年(788年)、最澄は奈良の三輪山より「大物主神」の分霊を、日枝山に勧請しました。
比叡山に延暦寺ができてからは、大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされました。
最澄は寺の周囲に結界を定め、その地主神を比叡山の「諸山王」として比叡社に祀ったのです。
現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けました。
この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであったといいます。
最澄は 延暦21年(803年)に還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航します。
唐に渡った最澄は、霊地・天台山におもむき、天台教学を学んでいます。
また、越州(紹興)の龍興寺では密教を学び、さらに翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいます。
延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いたのです。
このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが 最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていたのです。
このことが後に 延暦寺から浄土教の開祖:法然や、浄土真宗の親鸞、あるいは禅宗の宗祖:道元や栄西を 輩出したことに繋がるのです。
その源が、最澄にあるといえるのです。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられます。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
戒壇院(かいだんいん)
内陣中央に釈迦如来、両脇侍に文殊菩薩と弥勒菩薩がお祀りされています。
天台宗の僧侶が受戒する重要なお堂で、天長5年(828)に創建されましたが、現在の戒壇院は延宝6年(1678)に再建されたものです。
当時、僧侶は国家が任命するものでした。
「戒壇」とは この国家資格を与える場所のことを指します。
最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することでした。
大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において、独自に僧を養成することができるようにする、ということでした。
最澄の説く天台の思想は―――
「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというものでした。 このことは奈良の旧仏教の思想とは相容れなかったのです。
当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は、日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったのです。
そのため 天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのです。
最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、
修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張しました。
だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けたのです。
南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けたのです。
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなります。
823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かりました。 そして 延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなったのです。
次に、西塔エリアに向かいました。
長い階段を下ると、正面に浄土院が現われます。 浄土院は伝教大師 最澄の廟所で延暦寺の聖地、ここから西塔エリアになります
「浄土院拝殿」の奥に「浄土院御廟」があり、弘仁13年(822年)に山内の中道院で56年の生涯を終えた最澄上人(伝教大師)の遺骸が奉安されているといいます。
延暦寺随一の浄域といわれていますが、そのような反応は示していませんでした。 観覧不可
西塔には、常行堂と法華堂があります。
常行堂と法華堂の手前のエリア
西塔法華堂
この苔の生えた法華堂は なかなかのエナジーがありました。
法華堂
上部に「オーブ」が映っています。
良好な波動に包まれています。
法華堂に隣接する常行堂です。
常行堂、正式には常行三昧堂。常行三昧とは、90日間阿弥陀如来の周囲を念仏を唱えつつ、心に阿弥陀如来を念じながら歩く行のことだそうです。
この中で 後述する好相行が行われます。
好相行とは、浄土院の拝殿で好相が得られるまで 毎日一日三千回の五体投地を行うものです。
法華堂と庭の苔 手前が法華堂、奥が常行堂 この渡り廊下が法華堂と常行堂を繋いでいます。あの弁慶が渡り廊下を天秤棒として両堂を担いだという伝承があり、まとめて”にない堂”とも呼ばれます。
にない堂を過ぎると、苔むした庭が渋い恵亮堂の前に差し掛かります。恵亮さんは、慈覚大師 円仁から灌頂を受けた高僧で、延暦寺では最澄、円澄、円仁に続く延暦寺第4世代といった人のようです。
さらに進んで石段を下りると、いよいよ西塔の本堂、釈迦堂が・・・。ひっそりと佇むお堂で一人お参りをすると、私のような未熟者でも、束の間、心が落ち着きます。
正しくは転法輪堂と呼ばれ延暦寺に現存する中では最古の建物、もともと三井寺の園城寺の金堂だったものを秀吉がここ西塔に移築したんだそうです。
秀吉は信長の命で比叡山焼き討ちに参加しましたので、罪滅ぼしの気持ちがあったのかも知れません。
坂道を下ると・・・・
西塔 釈迦堂
石段下の広場の奥に西塔地区の中心的存在の「釈迦堂」が見えます。
貞和3年(1347年)に建てられた園城寺の金堂を、豊臣秀吉の命により 文禄4年(1596年)に、ここに移築したものであるといわれています。
「釈迦堂」は典型的な天台様式の堂で、延暦寺に現存する建物では最古のもののようです。 本尊は鎌倉時代に造られたという木像釈迦如来立像です。
「釈迦堂」、本尊「木像釈迦如来立像」は共に重要文化財に指定されています。 西塔地区には上記の堂宇の他に「椿堂」、「親鸞上人修行の地」があります。
織田信長の比叡山焼き討ちを免れた 唯一の建築物である「瑠璃堂」などの見所があります。
釈迦堂の内部
釈迦如来立像がありますが・・・・それほど良好な波動ではありません。
霊的な垢を取り除くと、本来の神々しい姿が現れます。
つづく
2020年11月24日記