生命体エナジー浄化の会ブログ

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日本のパワースポット 比叡山延暦寺 4

≪ 日本のパワースポット 比叡山延暦寺 4 ≫

天台宗総本山延暦寺 その4

 

 延暦寺の「東塔地区」「西塔地区」と周り、およそ4キロ離れた「横川地区」に移動しました。

 

横川地区に入ると、まず石垣に「粘菌」がこびりついているのが、目に入ってきました。

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ここの石垣に 「粘菌」がこびりついていました。

 

「粘菌」というと―――南方熊楠(みなみかた・くまぐす)を思い出します。

 

わが国は 神社の境内に生息している「粘菌」類が、大いなる波動をもって 良好なエナジーを発揮しているのであるから、

 

日本から神社仏閣を失くしてしまうと、「大変な事態に陥ってしまう」といって、『神社合祀(ごうし)反対運動』を開始したのです。

 

そのいきさつとは―――

 

1909年 明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出したのです。

 

この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減しました。

 

しかもこれにはビジネスの側面もあったのです。

 

神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのです。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられました。

激怒した熊楠は、「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを 小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。

 

樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあったからです。

 

熊楠は『エコロジー生態学)』という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾したのです。

当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁です。 熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、ただの木々ではない。鎮守(ちんじゅ)の森の破壊は、心の破壊だと主張しました。

 

熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を舌鋒鋭く攻撃したのです。 

彼は国内の環境保護活動の祖となったのです。 1910年(熊楠43歳)、熊楠は合祀派の県役人ともめて、逮捕され、18日間拘留されたこともあります。

 

翌年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えました。

 

熊楠の猛烈な抗議運動がやがて世論を動かし始め、和歌山出身の議員が、国会で合祀反対を訴えたのです。

 

1920年。10年間の抵抗運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択されました。

 

これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで、確実に保護しようと努めるようになったのです。

 

世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、我われが姿を見ることが出来なかった巨木(樹齢800年の杉等)がたくさんあります。

 

「粘菌」については、いずれ新たな稿で 紹介しようと思っています。

興味深い対象です。

 

さて―――横川地区で目にした この粘菌ですが・・・・、

この粘菌は、脳幹のなかの「橋」と言われる部位に反応します。

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脳幹の「橋」とは―――「中脳」と「延髄」に挟まれた位置にあって、背側には小脳があります。

 

三叉神経、外転神経、顔面神経、聴神経といった多くの脳神経核が存在しています。 つまり脳神経が出る部位ですので、

 

脳幹を経由する多くの伝導路が通過する他、大脳皮質からの運動性出力を この「橋」、中小脳脚を経由して、小脳へと伝える経路などが存在しています。

この「橋」に この粘菌は影響するようなのです。

 

この稿を描いている時(ファミリーレストランで)、近くに座っている女性の「脳」に十分なエナジーが循環していませんでした。

 

チェックすると、左右の大脳―間脳―橋に エナジーが通っていませんでしたので、この「粘菌」を「橋」に注入したところ、この人の脳のエナジー循環は回復しました。

 

驚いたことに、事前のチェックでは この女性は左右の腎臓―膀胱に、添加物などのストレス物質が蓄積して、循環不全の状態に陥っていました。

 

これは典型的な臓器不全の状況です。

 

それが、「橋」に この粘菌を注入することで、2週間程度は 正常な状態に戻るように反応していたのです。

 

粘菌の威力を あらためて知らしめてくれました。

 

 

さて―――横川地区に話を戻します。

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横川中堂

横川地区の中心的な建物です。

 

横川は 最澄上人の教えに従って慈覚大師円仁が開いたといわれている場所であり、円仁が嘉祥元年(848年)に観音堂として創建したのが、「横川中堂」と伝えられています。

 

織田信長比叡山焼き討ちにより、「横川中堂」も全焼しましたが、後に豊臣秀頼により再建されたといわれています。

 

現存の堂は 昭和46年(1971年)に建造されたものです。 横川中堂に安置されている本尊「木造聖観世音菩薩立像」は、平安時代の作と伝えられています。

 

この仏像は度重なる火災の難を免れているとのことですが、波動は良好ではありません。 参拝者の霊的垢が 堂内に充満しています。

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中堂の内部

本尊「木造聖観世音菩薩立像」

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聖観音

「聖観世音菩薩」の真言:「オン・ アロリキャ・ ソワカ」が 表示されています。

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元三大師堂

 

元三大師堂です。

元三大師(がんさんだいし)というのは通称で、正式な諡号は慈恵大師(じえだいし)の良源(りょうげん)。1月3日に亡くなったので元三大師と呼ばれるようになったそうです。

 

南都(奈良)の高僧を 法論で論破したり、伽藍を整備したり、宗教教育の仕組みを強化したり、山内の規律を高めたりした第18代天台座主延暦寺中興の祖とも言われます。

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元三大師堂の内部

内部の空間は かなりのマイナス波動です。

 

さて、比叡山延暦寺についてレポートしてきましたが、厳しい「千日回峰行」について述べておきます(ウキペディアより引用)。

 

いわゆる「阿闍梨」になるための修行です。

まず、山内の院や坊の住職になるためには、三年間山にこもり続けなければなりません。

 

三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで、90日間修行しなければならないとされています。

 

常行堂で行う修行(常行三昧)は、本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されますが、基本的に禅の一種である「行」を行います。

 

90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものです。

 

法華堂で行われる行は、常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとるというものです。

 

十二年籠山では 好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りないのです。

 

好相行とは、浄土院の拝殿で好相が得られるまで 毎日一日三千回の五体投地を行うものです。

 

五体投地(ごたいとうち)とは、五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝することです。

 

仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象への絶対的な帰依を表します。

 

インドやチベットにおける仏教徒は、このように五体投地を行い、礼拝しながら少しずつ前に進んでいき、聖地へ巡礼するスタイルが一般的です。

 

勤行や修行に入る僧侶や檀信徒が、本尊の前でこの五体投地で礼拝します。

 

なお、この回数は所作によって異なりますが、最も一般に知られるのは、3回や12回、煩悩の数と同じといわれる108回の礼拝を行うことです。

 

ところが、この天台宗の「行」では、実に3,000回も毎日行うのです。

 

この好相とは 一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もありますが、その内容は秘密とされています。

 

早い者で1~2週間、何年もかかって好相を得る者もいるといいます。

 

[千日回峰行]

千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに、許される行です。

 

なお、「千日回峰」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味であるとのことです

行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行します。

 

頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋履きといういでたちです。 回峰行は7年間にわたる行となります。

 

無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発します。

真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝するのです。

 

1〜3年目は年100日、4〜5年目が年200日の修行となります。 5年700日の回峰を満行すると「堂入り」が行なわれます。

 

入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入ります。

 

堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王真言を唱え続けます。 

毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならないといいます。

 

堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる「阿闍梨あじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられます。

 

これを機に行者は、自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入ります。

 

6年目はこれまでの行程に、京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続けます。

 

7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻ります。

 

満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となるのです。 延暦寺の記録では満行者は47人です。 またこの行を2回終えた者が3人おり、最近の「大阿闍梨」の中には、酒井雄哉大阿闍梨(2013年9月23日に死去)も含まれています。

 

満行した者はその後2~3年以内に100日間の五穀断ち(米・麦・粟・豆・稗の五穀と塩・果物・海草類の摂取が禁じられる)の後、自ら発願して7日間の断食・断水で10万枚の護摩木を焚く大護摩供を行います。

 

これも“火炙り地獄”といわれる荒行です。

 

なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への土足参内を行います。 通常、京都御所内は土足厳禁ですが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ土足参内が許されているのです。

                           了

 

                       2020年12月7日記