≪ 写真分析から裏の歴史を考える 2≫
維新が成功したのは薩長連合あってのことですが、元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の仲でした。それがなぜ同盟関係を築き得たのかというと――――
田中光顕によれば、薩長連合成功の最大原因は、桂小五郎(木戸孝允)が西郷隆盛に、我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ、とを打ち明けた点にある、というのです。
田中光顕によれば、薩長連合成功の最大原因は、桂小五郎(木戸孝允)が西郷隆盛に、我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ、とを打ち明けた点にある、というのです。
つまり―――
松陰はまた、宇都宮黙霖という勤皇僧の影響も受けています。
この宇都宮黙霖は、明治維新が成就されると表舞台から去って、最後は呉で亡くなっているようです。
この黙霖は、私の過去世に関わりがあるようで、霊感のある女性に 呉まで行って私の過去世を調べて欲しい、と頼んだことがありました。
その彼女は「特に何もない」とのことでしたが、私の過去世では 黙霖と兄弟弟子の関係であったかもしれません(個人的な見解を載せて 申し訳ありません)。
さて―――
● 忍者であった「伊藤博文(俊輔)」が、厠に潜んでおり、槍で突き刺して殺した。
● 岩倉具視が 毒殺した。
どちらが正しいのか。
しかし、この画像からは「自分はそのようなことはしていない」と反応しています。
「自分は 孝明天皇を殺害した人物を知っている」とも反応します。
「それは・・・・岩倉具視の命を受けた人物が、毒殺した」と、反応します。
これにたいして、岩倉具視の画像からは
「自分が毒殺したのではない。私の命を受けた人物が毒殺した」
と、反応しています。
つまり、犯人は岩倉具視のようです。
本題の「明治天皇替え玉説」に戻します。
天皇家の歴史では―――
かって後醍醐天皇の曽孫、光良(みつなが)親王が戦いに敗れて船で周防へ下向、長門水道(現、柳井水道)の名所、麻里府の熊毛郡麻郷村大室の地に館を構えて住みついたといいます。
光良親王は世を忍ぶために姓を土地の名の大室と名乗り、曾我氏と大内氏に護られて南朝の皇統を連綿と伝えていましたが、吉田松陰により 460年目にして新王朝が復活したことになるのです。
光良親王は世を忍ぶために姓を土地の名の大室と名乗り、曾我氏と大内氏に護られて南朝の皇統を連綿と伝えていましたが、吉田松陰により 460年目にして新王朝が復活したことになるのです。
朝廷では「岩倉具視」もその背後で暗躍していました。
その理由も伝わっています。
実際の睦仁親王は 神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。
ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り 相手を投げ飛ばしています。
ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り 相手を投げ飛ばしています。
睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。
明治天皇の 「皇太后」 は 父:孝明天皇の妻となりますが、明治天皇は自分の妻である一条美子を 皇后ではなく 「皇太后」 と呼ばせていました。
一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。
睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。
明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。
明治の新政府が出来て間もなく、天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。
明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。その素性を 十分に知っていたからです。
明治天皇の 「皇太后」 は 父:孝明天皇の妻となりますが、明治天皇は自分の妻である一条美子を 皇后ではなく 「皇太后」 と呼ばせていました。
一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。
睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。
明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。
明治の新政府が出来て間もなく、天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。
明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。その素性を 十分に知っていたからです。
明治維新が成るや直ちに 明治天皇は後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立せよと命じられた、といいます。
明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりしています。
明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりしています。
後に明治42年に伊藤博文が暗殺された翌年に、南朝と北朝のどちらが正系か、という史論が生じたとき、明治天皇は南朝正系論をもって正しいとした、という記録が残っています。教科書も改訂されました。
[大義名分と歴史の裏側]
[大義名分と歴史の裏側]
では、なぜ幕府対薩長の対立構造に、日本国全体が傾斜していったのか?
言うまでもなく、天皇はわが国古来の最高のシンボルであり、天皇を担ぎ出した薩長に抵抗すると『朝敵』の汚名を着せられるからに他なりません。
言うまでもなく、天皇はわが国古来の最高のシンボルであり、天皇を担ぎ出した薩長に抵抗すると『朝敵』の汚名を着せられるからに他なりません。
徳川300諸藩の実に200藩以上が新政府側につきました。
旧幕府側についたのは、会津藩などたった4藩のみでした。
それほど「錦の旗」の前では、日本国中が平伏したことになります。
朝敵となることを、心底恐れたようです。
兵を挙げる大義名分がなかったことが、後代まで響いていることは確かであろうと思われます。
翻って、関が原の戦いで天下を分けることになった徳川家康ですら、最高位の『関白』を授けられた豊臣に対抗するために、武士の最高位である『源氏頭領』の称号を朝廷から授けられるまでは、ジッと長年にわたり辛抱していたのです。
さて、幕末の裏面史にはまた、幕府をおすフランス・アメリカと 薩長をおすイギリスの闘いでもあったことは周知のとおりです(その後の大戦までも、イギリス対アメリカの利権争いがその背後にあるとされています)。
勝海舟と西郷隆盛との肝胆相照らす交渉から、江戸城無血開城となりましたが、勝海舟は『氷川清話』の中で「その気になれば、まだまだ幕軍は十分に戦える策略もあったが、西郷の赤心に打たれて開城したのさ」と語っています。
永禄年間までは、楠正成は「朝敵」とされていたというのです。
それが―――
この間のことは、明治天皇の御影から探りますと、
● 長州藩に匿われていた。
● 明治天皇として入れ替わったのは、「京都」である。
と この画像からは反応を示します。
明治天皇の画像からは、次のように反応しています。
● 西郷隆盛は 尊敬に値する人物であり、好意を持っていた。
● 大久保利通は 好きではなかった(嫌いであった)。
● 伊藤博文は 好きではなかった(嫌いであった)
● 高杉新作は 凄い男だったと思っている。
● 大村益次郎は 凄い男だったと思っているが、好きではなかった
● 岩倉具視は 好きではなかった(嫌いであった)
● 吉田松陰は 心の底から尊敬していた。
2014年4月10日記