生命体エナジー浄化の会ブログ

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写真分析から裏の歴史を考える 2

≪ 写真分析から裏の歴史を考える 2≫
 
維新が成功したのは薩長連合あってのことですが、元来長州藩薩摩藩とは犬猿の仲でした。それがなぜ同盟関係を築き得たのかというと――――

田中光顕によれば、薩長連合成功の最大原因は、桂小五郎木戸孝允)が西郷隆盛に、我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ、とを打ち明けた点にある、というのです。
西郷隆盛は 南朝の忠臣菊池氏の子孫だったから、これに深く感銘、ただちに尊皇討幕の薩長連合が成立したのだというのです。
つまり―――
単に坂本竜馬中岡慎太郎の仲立ちで、薩長連合が成立したわけではないのです。

ところで桂小五郎木戸孝允)や伊藤博文たちに 維新後の新天皇南朝の後裔を擁立するよう指導したのは、他ならぬ吉田松陰です。
吉田松陰は 徳川光圀に始まる「大日本史」の編纂に関わる「水戸学」の 尊王思想に大きな影響を受けています。
 
水戸学では 朝敵とされた足利尊氏を認めず、南朝が正統であると唱えていました。
それ故、吉田松陰南朝正統説をもって、南朝を擁立するように指導したようなのです。
 
松陰はまた、宇都宮黙霖という勤皇僧の影響も受けています。
宇都宮黙霖という人は 馴染みが薄いですが、徹底した尊王倒幕派の僧で、獄中の松陰と書簡を通して、大きな影響を与えた―――と いわれています。
 
この宇都宮黙霖は、明治維新が成就されると表舞台から去って、最後は呉で亡くなっているようです。
 
この黙霖は、私の過去世に関わりがあるようで、霊感のある女性に 呉まで行って私の過去世を調べて欲しい、と頼んだことがありました。
 
その彼女は「特に何もない」とのことでしたが、私の過去世では 黙霖と兄弟弟子の関係であったかもしれません(個人的な見解を載せて 申し訳ありません)。

さて―――
そもそも孝明天皇崩御した裏には、2つの裏の歴史が語られています。
 
● 忍者であった「伊藤博文(俊輔)」が、厠に潜んでおり、槍で突き刺して殺した。
● 岩倉具視が 毒殺した。
 
どちらが正しいのか。
 
孝明天皇は 「攘夷主義者」で、幕府と共に攘夷を成し遂げようとして「公武合体」のため 皇女和宮を将軍家茂に降嫁させるなどして、あくまでも幕府と共に鎖国維持することを望んでいた―――と いわれています。
 
これは倒幕派である長州藩や、朝廷内の倒幕派である岩倉具視の意に反していたのです。
忍者出身の伊藤博文が、厠に潜んで孝明天皇を殺害したというのであれば、後世に残る大罪です。
 
しかし、この画像からは「自分はそのようなことはしていない」と反応しています。
 
「自分は 孝明天皇を殺害した人物を知っている」とも反応します。
「それは・・・・岩倉具視の命を受けた人物が、毒殺した」と、反応します。
イメージ 1 
 
これにたいして、岩倉具視の画像からは
「自分が毒殺したのではない。私の命を受けた人物が毒殺した」
と、反応しています。
つまり、犯人は岩倉具視のようです。
 
本題の「明治天皇替え玉説」に戻します。
天皇家の歴史では―――
かって後醍醐天皇の曽孫、光良(みつなが)親王が戦いに敗れて船で周防へ下向、長門水道(現、柳井水道)の名所、麻里府の熊毛郡麻郷村大室の地に館を構えて住みついたといいます。

光良親王は世を忍ぶために姓を土地の名の大室と名乗り、曾我氏と大内氏に護られて南朝の皇統を連綿と伝えていましたが、吉田松陰により 460年目にして新王朝が復活したことになるのです。
従って大室寅之祐、即ち明治天皇は、後南朝の始祖とも言えるのです。

明治の皇族や華族の多くはそのことを知っていましたが、表向きはタブーとされたのです。

つまり明治維新とは、徳川幕府が倒れて薩長の新政府が誕生した、というばかりではなく、天皇北朝から南朝に代わったことにあるのです。
 
朝廷では「岩倉具視」もその背後で暗躍していました。
新政府にとって、意のままに操れる新天皇が必要であったのです。

それは後醍醐天皇の末裔の 「大室寅之祐」 という方であるとのことです。
その理由も伝わっています。
 
明治天皇は相撲が好きで、側近の誰彼なく相撲をとられたそうですが、それもその筈、かって高杉新作率いる奇兵隊の力士隊だったのだから当然かもしれません。
 
実際の睦仁親王は 神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。

ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り 相手を投げ飛ばしています。
 
睦仁親王の生母・中山慶子墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。

明治天皇の 「皇太后」 は 父:孝明天皇の妻となりますが、明治天皇は自分の妻である一条美子を 皇后ではなく 「皇太后」 と呼ばせていました。

一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。

睦仁親王天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。

明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。

明治の新政府が出来て間もなく、天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。

明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。その素性を 十分に知っていたからです。

明治維新が成るや直ちに 明治天皇後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立せよと命じられた、といいます。

明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成湊川神社新田義貞藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりしています。
 
明治天皇が、北朝の人間であれば 敵の南朝を称えていることになりますので、大室寅之祐でなければつじつまが合わないのです。
 
後に明治42年に伊藤博文が暗殺された翌年に、南朝北朝のどちらが正系か、という史論が生じたとき、明治天皇南朝正系論をもって正しいとした、という記録が残っています。教科書も改訂されました。


大義名分と歴史の裏側]

では、なぜ幕府対薩長の対立構造に、日本国全体が傾斜していったのか? 
言うまでもなく、天皇はわが国古来の最高のシンボルであり、天皇を担ぎ出した薩長に抵抗すると『朝敵』の汚名を着せられるからに他なりません。
 
徳川300諸藩の実に200藩以上が新政府側につきました。
旧幕府側についたのは、会津藩などたった4藩のみでした。
 
それほど「錦の旗」の前では、日本国中が平伏したことになります。
朝敵となることを、心底恐れたようです。 

朝敵―――後醍醐天皇と対立した足利尊氏は、今でも『朝敵』としての汚名をぬぐえないでいます。
 
兵を挙げる大義名分がなかったことが、後代まで響いていることは確かであろうと思われます。

翻って、関が原の戦いで天下を分けることになった徳川家康ですら、最高位の『関白』を授けられた豊臣に対抗するために、武士の最高位である『源氏頭領』の称号を朝廷から授けられるまでは、ジッと長年にわたり辛抱していたのです。
 
それ以前の「小牧長久手の闘い」で、秀吉と家康が対峙したとき、家康が『源氏頭領』の称号を授かっていたら、他の大名も味方に出来たであろうが、この時点ではその大義名分バックボーンがなかったのです。
 
それ故、家康は「小牧長久手の闘い」に勝利しながら あと一歩を踏み出せずに 天下が秀吉の掌中に入っていきました。このことは、歴史学者は指摘しています。


[幕末維新とは英吉利と亜米利加の利権争い 

 さて、幕末の裏面史にはまた、幕府をおすフランス・アメリカと 薩長をおすイギリスの闘いでもあったことは周知のとおりです(その後の大戦までも、イギリス対アメリカの利権争いがその背後にあるとされています)。
 
勝海舟西郷隆盛との肝胆相照らす交渉から、江戸城無血開城となりましたが、勝海舟は『氷川清話』の中で「その気になれば、まだまだ幕軍は十分に戦える策略もあったが、西郷の赤心に打たれて開城したのさ」と語っています。

で、京都から薩長軍と共に天皇江戸城に入りましたが、このとき、南朝の正統の血筋となる明治天皇が入れ替わった、とされているのです。
 
実際、それ以前には北朝が正統で南朝はまったく無視されていましたが、伊藤博文などは後に「南朝が正統である」と述べているように、維新後変化したのは確かなのであろうと思います。
 
それ故、後醍醐天皇にたった一言 
「頼むぞ!」
と言われた言葉に感じ入って、南朝のために最後まで闘った楠正成の銅像が、皇居の横に在ることが理解させられるのです。
 
永禄年間までは、楠正成は「朝敵」とされていたというのです。
それが―――
 
北朝が正当であるならば、南朝の楠正成の銅像が、皇居のすぐ近くに建てられるはずはないのです。
イメージ 2 
この間のことは、明治天皇の御影から探りますと、
● 長州藩に匿われていた。
● 大室寅之助として、山口県熊毛群田布施町という寒村に生まれた。
● 明治天皇として入れ替わったのは、「京都」である。
 
と この画像からは反応を示します。
 
明治天皇が入れ替わったのは、江戸城行幸して入城する前である、と 裏の歴史は伝えていますが、明治天皇の画像からは 「京都」と反応するのです。
 
明治天皇の画像からは、次のように反応しています。
 
● 西郷隆盛は 尊敬に値する人物であり、好意を持っていた。
● 大久保利通は 好きではなかった(嫌いであった)。
● 木戸孝允桂小五郎)には 好意を持っていた。
● 伊藤博文は 好きではなかった(嫌いであった)
● 高杉新作は 凄い男だったと思っている。
● 大村益次郎は 凄い男だったと思っているが、好きではなかった
● 岩倉具視は 好きではなかった(嫌いであった)
● 吉田松陰は 心の底から尊敬していた。
 長州藩に匿われていたのは、やはり事実のようですから、当然のように吉田松陰を見知っていたようです。
 
吉田松陰のお陰で、天皇の座を得ることができた―――と 反応しています。
 
2014年4月10日記