《 吉野路紀行 その4 》
壺阪寺―金峰山寺―吉野神宮―丹生川上神社下社―天河弁財天―丹生川上神社中社
吉野神宮に来ました。
静逸な雰囲気に包まれていました。
「吉野神宮」です。
ここには「後醍醐天皇」が祀られています。
「元弘の乱」で、鎌倉幕府を打倒して「建武の新制」を実施しましたが、その後 足利尊氏との戦い(建武の乱)で敗れて、吉野に入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立しました。
足利尊氏は、北朝政権を担い、これを契機に「南朝」「北朝」に天皇が分かれて、足利尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、後醍醐天皇は吉野で崩御しました。
表の歴史では、現在の天皇は「北朝」とされていますが、実際の歴史では「南朝」です。
長州藩では、代々南朝天皇の末裔を庇護しており、西郷隆盛の祖先は南朝系であったことから、薩長連合が成立する起点があったといわれています。
明治天皇は、北朝系天皇と入れ替わっていて、初代総理大臣の伊藤博文も「今の天皇は南朝系である」と明言しています。
それ故に―――
南朝を支えた楠木正成の銅像が、皇居の前に鎮座しているのです。
そんな一方で、「建武の新制」を断行し、吉野に入って「南朝」「北朝」に分かれてしまう原因をつくった後醍醐天皇は、当時から公家の評判が悪く、貴族からの協力も得られないでいました。
江戸中期を代表する政治家・新井白石は、『読史余論』の中で
「後醍醐天皇の中興の政、正しからず・・・・」
と指摘しています。
また、多くの歴史上の人物に影響を与えた頼山陽の『日本外史』では、
「遊興に明け暮れ、私利私欲に走る」後醍醐天皇を批判しています。
一方で、
室町幕府の南朝の後継指導者からは、「優れた統治者の一人である」と評価されています。
確かに―――
室町幕府・南朝両政府の政策は、後醍醐天皇の「建武の新制」のものを基盤としています。
氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本に初めて創り上げました。
このことが、それ以降の全国政権の統治制度の基礎となったものでした。
また、後醍醐天皇は、学問・宗教・芸術の分野でも、高い水準の業績を残しています。
禅宗では、夢想礎石を見出して、それ以後の日本文化・美意識に影響を与えましたし、伊勢神宮の神道を保護して、後世の神道に思想的な影響を与えた、と言われています。
さらに、能楽、茶道、書道(4点の書跡が国宝)も一流で、雅楽の演奏もしたといいます。
南朝、北朝として対立していた足利尊氏からも敬愛されていたといいます。
京都の「天龍寺」は、足利尊氏が後醍醐天皇を弔い造営したものです。
この近くに気になるところがありました。
900年前にセットすると、波動が変わります。
その当時に何かあったのかもしれません。
入口に天皇家ゆかりを示す「菊の御紋」があります。
「南朝」の後村上天皇は、父である後醍醐天皇が1339年(延元4年)に崩御した後、その像を吉野・吉水院に安置しました。
以降、仏教式の供養が行われていましたが、明治時代に入って神仏分離が行われると、1873年(明治6年)に後醍醐天皇を祭神とする後醍醐天皇社という神社に改められ、2年後に吉水神社と改称しました。
1889年(明治22年)に、後醍醐天皇を祀る官幣中社・吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定しました。
明治25年に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行されて、明治34年に官幣大社に昇格します。
1918年(大正7年)に「吉野神宮」に改称されて現在に至ります。
本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所への帰還を熱望していた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられています。
狛犬があります。
鳥居と共に、「結界」の役割をしています。
他方の狛犬の首は、壊れているように見えました。
後方に反り返っているようですが、気になりました。
鳥居から先に、広い境内が広がっています。
良好な空間です。
「神門」です。
この先に、「拝殿」「本殿」と並びます。
「神門」には、花びらを入れた、綺麗な小石の入ったものが並んでしました。
「どうぞ・・・自分に合ったものをお持ち下さい」
といいたげな反応でしたが、誰一人として取りませんでした。
「神門」を入ると右側に、「摂社」があります。
良好な波動です。
ここには、「案内板」に次のように書かれています。
「御影神社 日野資朝 他
船岡神社 児島範長 他
滝桜神社 土居通益 他
すべて、南朝政権を支えた忠臣です。
近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、その明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれています」
鎌倉宮(護良親王・後醍醐天皇の息子、天台坐主) 湊川神社(楠木正成)など、南朝を支えた忠臣を祀った神社は、官幣大社の15社になっていますが、その官幣大社に入っていない忠臣を祀った摂社です。
摂社である「船岡神社」(中央)です。
「建武の中興」に関わる7人の忠臣が祀られています。
この3つの摂社の波動は、良好です。
この先に「拝殿」と、その奥に「本殿」があります。
我々が来た時は、夕方でした。
そのためなのか、閉まっていて中を見ることはできませんでした。
その後、エナジーのあるスポットを探していますと、「摂社」の後ろのエリアに行き当たりました。
ここに、小石が敷き詰められていて、良好な波動が浮き上がるポイントがありました。
ここで、我々は「天地結合之印」で、
大地の「地球」のエナジーと、「天」の「太陽」「北極星」のエナジーを身体に取り入れて、パワーアップを図ります。
ミッチーも「天地結合之印」で、天地のエナジーを身体に取り入れました。
この先は「ご神域」で、「踏み込んではならない」との反応がありましたが、
「天地結合之印」を行うと、一筋(ひとすじ)の途が開けました。
我々が踏み込んでも「良い!」との反応がありました。
「ご神域」に踏み込みますと、やはり画像が乱れます。
これ以上は踏み込めなくなりました。
「摂社」の背後のところまでが限界でした。
この先は、「何人たりといえども、立ち入ることを許さず!」と強い想念が伝わってきました。
ここが、パワー・スポットです。
良好な波動が、空中に螺旋を描いて浮き上がっています。
ここに持参のブレスレットを置いて、その高波動エナジーを吸引させました。
こうして、第一日目を終えて、ホテルに入りました。
翌朝、我々は今回の旅の目的地の一つである「天河弁財天」を目指しました。
そこに向かう途中で、「丹生川上神社下社」と書かれた「幟(のぼり)」が、川に道に沿って立てられていました。
これを見た皇子が、
「波動が高そうだ!」
と、言います。
確かに―――良好な波動が、その名称から伝わっていました。
そこで、急遽 「丹生川上神社下社」(にうかわかみじんじゃしもしゃ)に向けてハンドルを切りました。
そこで、我々は予想を超えた高波動の神社に惹きつけられて、その後 いく度もその神社を訪れることになりました。
つづく
2023年1月26日記