生命体エナジー浄化の会ブログ

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歴史の裏を読む 小松帯刀(つづき)

≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀(つづき)


「つづき」です。


これに関しては、本ブログ「写真分析から裏の歴史を考える」シリーズで言及したように、
 
後醍醐天皇から始まった南北朝天皇で、明治維新のときに北朝天皇と、南朝天皇の末裔である明治天皇が入れ替わった―――という(おそらく)事実があります。
 
現在の天皇は、北朝の流れからのお立場が、公式なものとなっています。
 
ですが、南朝後醍醐天皇派であった楠木正成が皇居の目の前にその銅像があることや、初代総理大臣の伊藤博文が、南朝こそ正統であると発言していたことなども、すべてがそれを裏付けています。
 
明治天皇は、南朝系の寺院や仏閣の支援もしましたし、明らかに入れ替わっています。
 
当時は、天皇の顔を直接知り得る庶民は、少なかったのです。
皇族の面々も知っていましたが、口には出さなかったようです。
 
ともかく、なぜ長州と薩摩が結びついたのか?
それには、歴史をたどる必要があります。
 
蛤御門の変」では、長州の大砲が暴発してしまい、西郷隆盛率いる薩摩軍が、後に敵対する会津藩とともに、長州を退けました。
 
以来、薩摩藩士と長州藩士は、死をかけた睨みあいを続けていて、一触即発の状態が続いていました。
 
しかし―――長州が南朝の末裔である天皇家の子孫を匿っていることを知って、薩摩の西郷も長州同盟に傾いたといわれています。
 
                      つづく
 
                   2019年4月27日記